IN SILENCE 龍千

Sweetest Coma Again


12990文字。更にIN SILENCEの続き。
帰ってから龍水の傷の手当てをするお話。
今回もキス以外特に何もしていないはずです。足湯とマッサージはしてます。


 足場の悪い石の坂から板敷きの床に乗り上げると、千空は夜空にそびえたつ木造の建物を見上げた。
 これまで幾度となく訪れ、昨夜も訪問したばかりの場所だ。だが昨日までとは明らかに異なった感慨をいだいている自分に気づいてため息をつく。
 中にいるのはパトロン兼チートパイロットというだけでなく、今日から自分の「恋人」という肩書を持つことになった相手だ。かれが中にいるというだけならまだいいが、今まさに自分の訪れを待っている、などと考えるとどうにもむずがゆくなる。このまま回れ右をして帰りたくなってしまう。
 だが上ってきたばかりの坂とはるか地上を見下ろすと、また下りていくのは徒労に思えた。ただでさえ今日は朝早くから動きまわって疲れている。風呂上がりの倦怠感と夜風の涼しさもあいまって、あたたかい場所で休んでいきたい気がしなくもない。
 寝落ちだけは注意しねえと、と思いながら扉をノックする。すべての違和感も感慨もむずがゆさも完全に無視し、表情を消して平静を装う。

「千空」

 だが扉が開き、光をしょって現れた相手の表情を見るともうだめだった。自然に眉尻が下がり、口唇が微苦笑をかたちづくるのが解る。かれ自身が光かのような笑顔で出迎えてくれる美丈夫が今日から自分の恋人だというのだから、人生本当に何が起きるか解らない。

「よく来てくれた。疲れているだろうにすまんな」

 龍水が我儘なのはいつものことなのに、そんな気遣いをされると逆に気恥ずかしい。そして、訪れただけでこんなにもニコニコ嬉しそうにされるといたたまれない。

「解ってっと思うが、こんな時間だ、すぐ帰んぞ」

 咳払いしてそう言うと、龍水は一瞬目を丸くした。それから甘い表情と声で、

「フゥン、無粋を言うな。解っている」

 と言い、肩を引き寄せてきた。そのままキスに持ち込まれそうになるのを、「いやいや、まず手当させろ」と引き剥がす。
 龍水は笑って千空を招き入れると、寝室らしき奥の部屋へといざなった。よく訪れるとはいっても、こんな奥には恐らく入ったことがない。
 テメーは毎日一体ここで何してやがんだ、と呆れるほど大きな寝台と枕、贅沢な羽毛布団が目に飛び込んでくる。壁には世界地図やカレンダーを貼ったタペストリーが掛けられ、部屋のところどころに鉢植えが置かれている。点在するランプの色とほのかに漂う芳香が、室内のムードを無駄に高めていた。

「……精油?」
「ああ、たまにフランソワが作ってくれる。虫よけになるものもあるし、重宝している」

 そりゃ合理的だ、と千空は頷いた。精油があれば格段に生活の質が上がる。だが龍水が大っぴらに使っていないことからもうかがえるように、まだ量産は望めないだろう。
 原始の石世界、それも男の寝室とは思えない雰囲気を意識しないよう、千空は冷静に思考をめぐらせる。

「だいぶ時間たっちまったが、風呂は?」
「腕だけ包帯を巻いて入った。先程煮沸した湯でフランソワが洗浄してくれたところだ」
「そりゃちょうどいい」

 寝台横の椅子に陣取り、持ってきたものを脇机に並べる。机の上にはランプの他、水差し、グラス、地球儀、それに湯気のあがる盥が置かれていた。

「盥に入っている湯は煮沸したものの余りだ。使っていない」

 龍水は寝台の上に座ると、胸元を開いて上半身をさらす。よく見れば船長帽もマントもキャプテンコートも脱いだくつろいだ姿だった。
 千空は完全に医者モードとなると表情を消した。痛いくらいに視線を感じるが、非常時にそういうものを完璧に遮断する習慣は以前から身につけている。
 相手の腕をとると顔を近づけ、目をすがめて傷口を観察する。

「綺麗に洗浄できてるし、せっかく乾いてるからこのままでいいわ。俺の手だけ洗わせろ」

 そう言って盥の湯で手を洗う。清潔な布で手を拭い、念のためアルコール消毒する。
 へらを使い、ガーゼに充分な量のサルファ剤軟膏を塗り込むと、それを慎重に傷口に貼付した。

「フゥン。貴様はこうやって、ゲンや金狼や、司を手当したのだな」

 龍水がふいにそんなことを言うので、包帯を手にとろうとしていた千空は思わずむせそうになった。大人しくしていると思っていたら、またそんなことを考えていたのか。

「はっはー、実は俺も一度されてみたかった!」
「アホか。もう怪我すんじゃねえわ」
「ああ、この傷を勲章にする」

 ひどく嬉しそうに、大切そうに言われてバカだなあと思う。あんなペースで石化されていたら、傷など何一つ残らないだろうに。
 そういえば今現在、龍水のからだにはこの傷以外、何の痕跡もないのだと気づいてわずかに眉をしかめる。何となく、それは面白くないことのような気がした。
 包帯を巻きながら、さらされた上半身をあらためて眺める。車中でも思ったように、鍛えられているのにしなやかな、彫像のように美しい男のからだだった。復活時からはじまり、村や島での生活でさんざん見慣れているはずなのに、今はまた違う感慨が生まれている。
 さわると案外やわらかいのは初めて知った。いい筋肉とは鋼のようではなくふかふかしていると聞いたことがあるが、そういう感触だ。肌も乾いているのになめらかで、ひどく触り心地がいい。旧世界なら丹念に手入れしていたのだろうが、ここでも何かしているのだろうか。
 首をかしげ仕上げに入りながら、それにしても、と思う。
 思いがけなく付き合うことになったが、男同士なのに本当に生理的嫌悪感がまったくない。普段スキンシップしない自分が、嬉しい時思わず肩や腕に触れそうになっていたことを思い出す。山麓でも思わず飛びついてしまったし、よほど相手のからだに違和感がないのだろう。熊から守られたせいか触れていると落ち着くし、何なら安心感すらいだく。
 だが、触れられるとなると勝手が違った。このからだが自分に触れることを欲していると思うと、これまでとは違ってどうにもこうにも落ち着かなくなる。
 眉を寄せ、それ以上考えないようにしようと決めると、千空は結んだ包帯の端を短く切りとった。そうして相手の顔を見ないまま、解熱鎮痛剤アセトアニリドを「おら」と押しつける。
 これで任務完了とばかりに立ち上がり踵をかえすと、途端に手を引かれ、バランスを崩した。

「うおっ」

 あたたかい弾力の上に乗り上げたことに驚いていると、力強い腕に後ろから抱きすくめられる。部屋に漂っているのとは違う芳香が鼻をくすぐり、熱い吐息が首筋に触れた。

「や、」
「つれないな、千空」

 制止する前に耳元でそう低くささやかれ、耳朶をまた咥えられそうになる気配に身震いする。
 こんなところでこれ以上許したら、多分、絶対にだめだ。そう思って身を捩り、腕を突っ張って抵抗する。

「耳、は、やめろ……ッ」
「フゥン? なら、ここならいいか?」

 必死に顔を引き剥がすと、今度はうなじに歯を立てられて口唇を嚙みしめる。あの尖った歯か、と想像するとぞくりとした。

「ダ、メに決まってんだろ……」
「いい匂いだな千空。貴様も湯上がりか」

 そう言ってふんふんと首元を嗅がれ、かじりつかれて目眩がしそうになる。こんな展開になりそうだったから、来たくなかったのに。
 すぐ帰すわけがないと予想し、警戒もしていたはずなのに、それでもつかまってしまった自分のふがいなさを呪う。

「テメー、話がちがうだろ、紳士じゃなかったのかよ!」

 腰と胸元にまわされた手がうごめきかけるのを必死で押しとどめながら叫ぶと、さすがに龍水の動きが止まった。 

「――悪かった。ストイックな顔をしている貴様を見ていると、ついいたずらしたくなってな」
「アホかテメー、逆だろ、人がまじめな顔してる時はちょっかい出すんじゃねえ」
「はっはー! だがそれが男のさがだろう。違うか?」

 千空は首を傾げる。果たしてそんな風に思ったことがあるだろうか。
 あれか、金狼がまじめくさった顔で正論を吐くのをからかいたくなるような感じか、と想像していると、

「二人きりの時に違う男のことを考えるんじゃない」

 首の横から派手な顔がぬっと迫ってきてたじろぐ。

「……話が早すぎてたまにテメーが恐ろしいわ。金狼だぞ?」
「金狼でもだ」

 後ろから伸びてきた手にがっちり頭を固定され、顔が更に近づけられる。

「ちょ、ま、」

 がぶりと食らいつきそうな勢いで迫ってくる口唇を、千空はてのひらで思いきり押しのけた。

「キスもダメか」
「こ、ここではダメだ」

 いやでも後ろの寝台が目に入ってくる。膝の上で抱きすくめられたこの体勢もまずすぎる。寝技に持ち込まれないわけがない、と思ってしまう。

「フゥン、千空貴様、さてはいやらしいことを考えているな?」
「な、」

 咄嗟に顔に血が上ったのが解った。いやらしいことにならないようにしているだけなのにひどい言われようである。
 赤くなったまま絶句し、「自分らしい」言動の正解を探していると、頭上で龍水が破顔した。

「はっはー! 悪かった、からかいすぎた。向こうへ行こう」

 そうして膝に乗った体勢のまままた姫抱きされ、居間として使用されているスペースへ問答無用で運ばれていく。ふかふかの毛皮が敷かれた椅子に下ろされると、テーブルの上の大きなバスケットの中を見せられた。

「思ったより来るのが早かったが、何か食べたか? フランソワが夜食を用意してくれた。持って帰ってもいいが、よかったら食べていってくれ」

 バスケットの中身は、見事に調理され、きれいに盛り付けられたマス料理の数々だった。色々な野菜と共にパン粉を付けて焼いたもの、アクアパッツァ風のもの、パイ包み風のもの、短時間でよくぞここまでという数々の料理がパンと共に並んでいる。
 千空は急に空腹を覚えた。そういえば昼食以降なにも口にしていない。
 結局一日留守にしていたから、本日の作業はほぼクロムが終わらせていた。そのチェックを行い、風呂に入りながら質疑応答と明日の打ち合わせを行い、そのまま各所への手回しを終わらせここへ来た。夕食をとる隙はどこにもなかった。

「おありがてえ、いただくわ」
「少し待っていろ」

 龍水はそう言うと、千空が料理を取り出している間に寝室へ戻り、盥を抱えて戻ってくる。そうして中の湯で布を濡らすと、手を拭けとすすめてきた。おしぼりというわけだ。

「まだかなりあたたかいな。精油を入れてやるから足湯にしたらどうだ、千空」
「いらねえ」

 早くも料理に箸をつけ上の空で即答すると、大人びた顔で苦笑された。

「貴様のことだ、どうせ烏の行水でろくに湯船に浸かっていないだろう。血行をよくしておかないと明日筋肉痛になるぞ」

 そう言いながら何やら棚の辺りでごそごそやり始める。そのうち持ってきた瓶の中身を少し入れると、盥を足元に置いてきた。
 そこまでされるとかたくなに断るのも違う気がして、千空は黙って靴を脱ぎ、湯の中に足を浸す。確かに充分あたたかい。鼻をくすぐる香りはどうやら柚子のようで、料理の匂いと混じっても違和感なく、むしろ心を落ち着かせ和ませた。
 足先からじんわりした快さを覚えて、思わずほう、と息を漏らす。向かいに座った龍水が頬杖をついてニコニコ笑った。それがとても満足そうで、千空は少し面白くなる。この彼氏様はどうやら本当に案外世話好きらしい。
 足と同時に心もなんだかほかほかしてきた気がして、千空はその見慣れない幸福感のようなものを噛みしめた。こんな風に誰かに世話を焼かれることは、今では随分なくなってしまった気がする。

「湯はここで沸かしたのか?」

 何となく間が持たなくて、言わずもがなのことを聞く。

「少しは湯冷ましがあったが、あとは久々に暖炉を使った」
「洗浄すんの、結構水がいっただろう」
「ああ。だから風呂のそばでやろうと思っていたら、大樹が運んでくれると言うのでな。いつ貴様が来るかもしれんし、頼んでしまった」
「ほーん」

 意外な名前が出て、千空は瞠目する。

「沸かしている間に次々と運んでくれたぞ。あの男の体力と根気は流石だな」
「そりゃ、」

 続く言葉を千空は省略した。
 怪我をした仲間のためなら、水を汲んで何往復かすることなど、大樹にとっては朝飯前だろう。そんなことは言葉にするまでもない。
 それよりも。

「テメー、大樹に余計なこと言ってねえだろうな」
「ん? ああ、フランソワと大樹にはきちんとしておこうと思って報告したぞ」
「――あ゙?」

 当たり前のような顔をして龍水が爆弾発言をするので、千空は一瞬下顎が外れたかと思った。そのくらい大きく口が開いた。

「どっちにも、事前に相談していたからな」
「はあぁ!? フランソワはともかく、大樹に? 相談!?」

 何を? と続けて聞くことは出来なかった。
 考えるだに恐ろしい。三千七百年越しの想いを相手に告げてさえいない男に、百戦錬磨の男が一体何を相談することがあるのだろう。

「貴様との交際に大樹の許可を得るのは基本中の基本かと思ってな。それに、将を射んと欲すれば……というやつだ。宝島にいた時から何かと話を聞いてもらっていた」
「はあ……」

 もういつもの余裕ある「ほーん」という感嘆詞すら出てこなかった。龍水から告白された時よりよほど衝撃的だった。

 ――千空、龍水はいい男だぞ!
 
 だからか、とあの唐突な主張に合点がいき、一気に脱力する。
 まるでエールのようだと感じたわけである。あれは本当に後押しだったのだ。龍水を見直したタイミングと相談されたタイミング、そして自分の結婚離婚の発覚のタイミングが絡み合い、大樹なりにあの時かれのことをプレゼンしてみたのだろう。
 幼馴染が龍水の気持ちを把握していたとは想像もしないまま、あの言葉を糸口に、千空は付き合うことを決めた。そう考えると、時間をかけて外堀を埋めてきた龍水の周到さが浮き彫りになる。
 そして、そんな裏事情を知ってしまえば、かれが大樹に今日のうちに報告するのも解らないわけではない。
 ――解らないわけではないが。

「明日からどうやって大樹と顔合わせりゃいいんだよ……」

 食事中だというのに、千空は思わず机に両肘をつき、そこに顔を埋めた。

「別に普通でいいと思うが。やつは『よかったなー!』と笑って祝福してくれたぞ」

 そうだろう、そうだろうよ、と思う。千空にはその表情や声音までありありと思い描くことができる。
 だが、自分が明日どんな顔をして大樹と接したらいいかについては想像もつかない。

「千空、俺は別に皆に宣言してまわるつもりはないが、徹底して隠すことは不可能だと思うぞ。羽京もいればコハクもいる。嗅覚にすぐれた者もいるかもしれない。いずれは誰かにばれる」
「そうかもしれねー。確かにそうだが、」

 思いのほかまじめな声に、顔を押さえたまま唸るように答える。
 それでも、もう少し心の準備が欲しかった、というのが正直なところだ。
 そこまで考えて、逆だ、と思いついて勢いよく顔を上げる。
 龍水は口の端を上げて笑っていた。

「――これで、なかったことにはできないぞ?」

 やはりか、と思う。これも周到に外堀を埋めたということなのか。

「どんだけ信用ねえんだよ」
「そういうわけではないがな。俺は本当に、貴様については臆病のようだ」

 一番似つかわしくない言葉を使って自嘲すると、龍水は静かに目を伏せた。千空があまりすきではない表情だ。
 内容が内容だけに、充分自信を持ちやがれ、とも言いづらく、黙って食事を再開する。食べかけのものを手早く片付けると、残りはバスケットに詰めなおした。

「ごっそさん。残りはもらってっていいのか?」
「ああ、朝食にしてくれ」

 明らかな辞去の気配に、龍水の声が解りやすくトーンダウンする。

「龍水、」

 山麓でそうしたように、千空は相手の名をわざと甘い声で呼んだ。

「何か拭くもん貸してくれるか。湯が冷めてきた」
「あ、ああ、すまん」

 龍水は立ち上がると戸棚から何枚か布を取り出してきた。その間に盥をずらし、座っている椅子をずらしていると、かれも自分の椅子を移動させてくる。そうして真向かいに座ると、「拭いてやる」と布を持った手を差し出してきた。

「え、いいわ」
「変なことはしない。約束する」

 そう言って強引に足を持ち上げてくることまで織り込み済だった。案の定、龍水は服が濡れるのも構わず千空の踵を膝に乗せると、足首からつま先まで丁寧に足を拭いていく。くすぐったさはあるが、確かに変な触れ方ではない。
 千空は内心安堵の息をついた。こうして世話を焼かせていれば、流石に気分が沈むことはないだろう。
 何しろ千空は普段こんなことを人にさせない。大樹は勿論、百夜が生きていたってさせないだろう。とてもわかりやすい「特別」の証に気づかないような男ではない。
 足を拭き終わると、龍水は先ほどの瓶の中身を手に取り、足裏から足首、そしてふくらはぎまで塗りつけてきた。恐らく、精油を植物油で希釈したものだ。柚子の香りが触れられている緊張感を和らげ、リラックスさせてくれる。
 
「よかった、冷えてはいないな」
「全身ホカホカだわ。足しか入れてねえのにすげえのな、足湯」

 何だか背中や肩のあたりまでジンジンして、血行がよくなっている感覚がある。

「これを塗っておけば更に冷えないし筋肉痛にもならない。少し我慢しろ」

 そう言って龍水はオイルまみれの指を一本ずつ足指の間に入れると五本まとめて回すようにし、次に反対向きに何度か回した。もう片方の手は土踏まずと甲の辺りを圧してくる。

「うおっ」

 突然の足裏マッサージに仰天する。甘さなど微塵もない、本格的で容赦のないやつだ。

「フゥン、痛いか? 貴様ならそう、ここだろう」

 千空の反応を見て笑うと、龍水は小指の付け根を強く圧す。思わずぎゃっと叫びそうになるほど痛かった。

「いっ、……、待て、痛すぎるッ」
「こんなことを手加減しても意味がないからな」

 涼しい顔でそう言うと、龍水は絶妙な強さでツボを圧す。財閥の道楽息子が何でこんなことまでと言いたくなるような巧みな指圧は、足裏から足首、そしてふくはらぎへと上がっていく。

「ちょ……っ、」

 相手の膝に足裏を乗せての大股開きで足を撫でさすられていることに、さすがに落ち着かなくなってくる。蒸れるのが嫌いな千空の下着は、未だに古式ゆかしき腰巻のみである。中が見えないよう両手で裾を押さえてはいるものの、これ以上上がってこられるのはかなりまずい。

「ま、待――ッ」

 制止の声をかけると、「ん?」と顔を上げた龍水の顔が思いのほか近くにあって驚く。足裏や足首に触れていた時より距離が近くなったのだから当然だ。
 淡い光に照らされた端正な顔が思いのほか真剣で、何と言っていいのか解らず、思わず顔を背ける。するとかすかに笑った気配が伝わってきた。

「あと少しだから我慢しろ。膝より上には絶対触れない」

 そう言って張った筋肉をほぐし、いくつかのツボを圧してくる。

「ぐ、ゔ、ぅ…ッ、」

 痛みと声を堪えるのに必死で、微妙な雰囲気などたちまち消し飛んだ。こうなるともう信用するしかない。脛や膝裏にあるツボも絶妙な力加減で圧されて悶絶する。そんなところを圧されるだけで涙が滲むほど痛いとは知らなかった。
 息も絶え絶えになっていると、やがて足を床に下ろされた。くにゃくにゃの千空が動けないのを見ると、甲斐甲斐しく靴を履かせてくれる。

「今日はこれくらいにしておこう。本当は貴様には、こちらの方がいいんだろうがな」

 上半身を起こして向き合った龍水が、両手で肩に触れてくる。何を言うのかと思っていると、そこから指を伸ばして肩甲骨付近までいくつかのツボを軽く圧してきた。

「う――」
「痛いか? 少し触っただけで、肩や首がひどいのが解る。また今度やってやろう」

 痛くはない。むしろ、先ほど足湯で浮き彫りになった凝りが少しほぐされて快かった。このまま全身解きほぐしてもらいたいという誘惑を、何とか堪える。

「ん、」

 素直に頷くと龍水は破顔した。

「はっはー、気に入ってもらえて何よりだ! ちなみに貴様のマッサージ権も俺がいただくからな、もう他には触らせるなよ」
「どんな権利だよ」

 サービスしてもらったのは自分の方なのに、恋人が元気になったことがおかしくて思わず吹き出す。
 千空は基本的に人に触られるのが得意ではない。だから人にマッサージなどさせたことはない。だが、そんなことを言う必要はないだろう。また調子に乗られても困る。

「触るといえば、貴様の傷は?」

 龍水はふいに思い出したように言うと、左肩に触れてきた。長い指を動かし、服の上からそっと傷を探す。包帯と肌の境目をなぞる仕草に、先ほどまでとは明らかに違う色を感じて戸惑う。空気が急に濃密になった気がした。

「薬か? 自分で塗ったわ」
「この包帯は?」
「……、クロムに」

 途端に目の前の凛々しい眉が跳ね上がる。
 これか、ウゼえ、と千空は思った。

「――クロムだぞ? 石神村で何ヶ月も一緒に雑魚寝してた、好きな女のいる、いたっておこちゃまのクロムだぞ? 頼むからバカなことを考えるな」
「フゥン、人選は悪くないが、これからは俺が巻きたい。明日は風呂から上がったらそのままここに来てほしい」
「ちょっと待て、明日はさすがに約束できねえ」
「ム、」

 できない約束はしたくない。そう思って正直に言うと、龍水は左肩を掴んだまま鼻白んだ表情をした。

「今日の分の遅れを取り戻す必要があんだろ、お互い。早けりゃもう一度あの山に行くことにもなる」
「それでも風呂には入るだろう。そのついでだ」
「包帯巻くだけで終わんねーだろテメーは。クロムなら一分だ」

 今も、ここに来てから優に一時間以上経過している。
 龍水はしばらく黙考していたが、やがて両肩を掴みなおすと、こちらの瞳を覗き込むようにして顔を近づけてきた。

「――なら、次の貴様の休みに合わせて俺も休みをとる。前日からここに泊まってほしい。もう少し仲良くなろう」

 真っ向からそんなことを言われ、千空はカッと頬が熱くなるのを感じた。

「て、展開、早くねえ……?」

 相手の瞳を見ていられなくて、顔ごと目を逸らしてそう言う。
 いやとか何とか考える以前に、とりあえず断ることしか考えられなかった。「仲良くなる」の意味も、自分が真っ赤になっているだろう意味も、何も考えたくない。早く帰りたい。

「何を言う、そんなことはない。せっかく広い寝台があるのに、恋人同士が離ればなれで寝るなんてさびしいことだ。貴様がいやなら何もしない。マッサージだけしてやるから、一緒に寝よう」

 肩を引き寄せられ、頬をついばまれ、耳元で甘くささやかれてくらくらする。
 すでに不躾な指が首筋を這い、口唇が耳朶に触れているというのに、「何もしない」などということがあるのだろうか。むしろこの男の中で「何か」とはどこからだ?
 クエスチョンマークで頭をいっぱいにしながら、千空は何とか両手で相手を押しやろうとする。とりあえず耳からは絶対に顔を剝がさせなくてはならない。

「フゥン、耳がひどく弱いのだな。可愛いやつだ」

 簡単に抵抗の手を封じると、龍水は耳のふちに舌を這わせ、咥え、軽く噛むことを繰り返した。千空は焦って首を振り、足をばたつかせる。

「ダメだ、龍水……ッ」
「解っている。もう少しだけ、」

 付け根のやわらかいところを吸われ、耳たぶを甘噛みされると、咄嗟に噛みしめることができなかった口唇から恥ずかしいほどの嬌声が上がる。
 くたりと全身の力が抜け、相手に完全にもたれかかると、いとおしげにこめかみだの前髪だの瞼だのにキスされ、きつく抱きしめられた。
 もはや悪態をつくことしかできない千空は、涙目で最後の切り札を使う。

「……ッ、テメー、それ以上したら嫌いになんぞ」

 はっとした龍水が慌てて千空を椅子の上に座らせ、額に額をつけてくる。火照った頬に相手の長い前髪が触れた。

「――悪かった。明日逢えないのだと思うと、帰したくなくなってな」
「会えないんじゃねえだろ、会うだろ」
「科学王国の長然とした貴様と、仕事ではな」
「そういう俺だって、俺だ」
「勿論だ。そういう貴様をすきになった」

 ランプの灯りを宿した鳶色の瞳がこちらを見つめている。止まってしまった言葉の続きを、千空はその奥に見つけようと覗き込む。
 思考するその裏側で、コイツの瞳は光によって色が変わるんだな、という新たな気づきを得た。

「……約束がねえと不安になんのか?」

 そう言うと龍水は目を伏せた。長い睫毛の下りる音が聞こえそうなほどの至近距離だ。
 帰り道での言葉が思い出される。朝になったら、千空は何事もなかったような顔をして、忙しさに紛れてうやむやにして距離を置くだろう、というようなことを言っていた。

 ――ようやく手に入ったと思ったものが、まるで淡雪のように溶けてしまうかもしれんと思うと、

 驚くほど弱気な考えに、また何かトラウマでもあるのだろうか、と想像する。

「無様だと思うだろう」

 かれの口から聞いたこともないような弱気な声と言葉だった。それ以上聞きたくなくて、千空は頬に触れたままになっている長い前髪の束をかきあげる。

「思わねえよ、バカだな」

 どこからこんな声が出るのか、というくらいやさしい声が自然に出た。
 らしくないついでにと、相手の口唇に自分のそれを触れさせる。キスというよりは、言葉を持たない獣が、弱った同胞を舐めてなぐさめているみたいだと思った。
 動物にも人間にも、欲とは一切関係のないところで、そんな衝動が生まれることがあるのだと初めて知る。
 そしてそれは勿論、誰が相手でも可能なわけではない。特定の相手だけが対象の、限られたコミュニケーションだ。

「――これが夢なら、ずっと覚めなければいい」

 目を伏せたまま龍水が言う。心臓を鷲掴みにされるような苦しげな声も、聞いたことのないものだった。
 まだそんなことを言うか、という気持ちと、この男にこんな声を出させているのは自分なのだという、歓びにも似た不可思議な感情が同時に湧きおこる。

「夢じゃねえ」

 今度は頬にそっとくちづけると、両腕を上げて金茶の髪ごとその頭を引き寄せ、抱き込んだ。あたたかさと重みが、ゆっくりと肩から下へと広がっていく。

「千空。――どうしてあの時すぐ俺の想いに応えてくれたのか、聞いてもいいか」

 肩口に顔を埋めた龍水が、どこにも手を触れないまま静かに聞いてくる。
 その言葉にかれはもしかしたら、この状況は自分の気まぐれ、あるいは流されているだけだと勘違いしているのかもしれないと思いつく。
 「ゆっくりでいいから考えてみてくれ」とあの時龍水は言った。一年以上抱えていた想いがまさかすぐに成就するとは思っていなかったのだろう。千空としてはあの時いくつか理由をあげたつもりだったが、しっくりこなかったのかもしれない。だから明日以降、自分が態度を一変する可能性があると考えてしまうのだろう。

「あ゙ー、」

 唸りながら上を見て下を見て何度も首をひねった後、千空は絶対に言うつもりのなかったことを、正直に言おうと決めた。

「一番は――大樹に、おすすめされたのを思い出したんだよ」
「大樹に?」

 腕の中でぴくりと龍水が動いた。意外な名前だったのだろう。

「熊が出た後、大樹がテメーのこと褒めてたのを思い出した。考えてくれって言われて考えた時も、大樹の言葉が浮かんだ」
「大樹は、何て……?」
「それは秘密だ、さすがに」

 千空は口元をほころばせた。こちらを見ていない龍水に伝わったかは解らない。
 だが、恐らくは伝わっているだろう。

「――他の男の名前を出すのは無粋だったか?」
「いや。――いや。ありがたい。この上ない、……」

 龍水はそこで絶句して、肩口に強く顔を押しつけると、きつく抱きしめてきた。
 言葉になっていないが、言いたいことは伝わってきた。
 こと、メンタル面で自分に対して最上の影響を与えられる相手、後押しをできる相手が、大樹以外であるはずがなかった。
 そして、それを知らない龍水ではなかった。

       ◇

「貴様の手は、左と右でかなり触り心地が違うのだな」

 触れあった指先を確かめるようになぞりながら、龍水が言った。
 送って行こう、と言われ、そんな距離でも女でもないと断ったものの、少しでも一緒にいたい口実だと解るともう何も言えなくなった。
 すぐに離れられる距離で、かすかに手を繋いで、星空の下二人で坂を下りていく。昨日は一人で降りた道だった。吹きつける風は昨日より強いのに、二人横に並んで指先を繋いでいるだけで、何てあたたかいのだろうと思う。

「宝島で右手だけ石化したからな」
「それは知っていた。見た目からも解っていた。だが、触れてみて初めて違いがよく解った」

 確かに自分も今日、そんなことを山ほど感じたように思う。見たり聞いたり考えたりするだけでは解らないことが、触れるだけでダイレクトに解ることがあると知った。

「千空、俺は貴様のことをもっと知りたい。そういう小さなことから、少しずつでいい」
「あ゙ぁ、俺も」

 一年と少し、龍水とは濃密な日々をほぼ一緒に過ごしてきたはずなのに、まだまだ知らないことはあるものだと思う。
 鳶色の瞳が太陽の光を受けると黄玉色になることも、場合によってはほとんど金色に透き通ることも。外では何の匂いもしないと感じたのに、室内で密着するといい匂いがすることも。髪や肌や、口唇の感触も初めて知った。
 そうやって、一つひとつ確かめ合っていければいいと思う。互いが不安になることのない、ちょうどいいペースを探して。見つけて。
 ラボが近づくにつれ、龍水は肩を抱こうとし、そのたび千空はそれをふりほどいた。
 だが入り口で別れを告げるため向かい合った時、耐えかねたように落とされたキスと抱擁を避けることは出来なかった。

「――解ってっと思うが、人目のあるとこでベタベタすんなよ」

 短い時間でも息の上がるようなキスをされて、口を拭いながらあたりを見回す。こんな時間に誰もいないことは解っているが、そうせずにはいられなかった。

「ああ、夜まで待つ」

 ランタンがあるとはいえ、暗がりの中、そう言う龍水の表情までは読み取れない。だが、沈んでいるわけではないことは解った。

「明日は、約束はできねえぞ」
「解っている。――だが、時間が合えば」

 まだあきらめていないと解って可笑しくなる。あきらめるのが嫌いな欲しがりなのだから当然だな、とすぐ納得した。
 約束はできないが、なりゆきで二人で過ごすことになるのであれば、それはそれ、という気分が千空にもある。

「龍水」

 名前を呼ぶ。
 楽しかった、とか、今日はありがとう、とか、普通の恋人同士なら言うべきなのだろうけど。
 普段名前を呼ばない自分が呼ぶのだから、汲みとってほしいと甘えたことを思う。何しろ以心伝心の仲だ。難しいことではないはずだ。

「おやすみ、また明日な」
「ああ、また明日。おやすみ」

 明日、と龍水がなめらかに口にしたのが嬉しい。
 朝を迎えることを、もう恐れていないだろうか。
 この後一人になったら、何を考えるだろうか。
 ――せめて、よく眠れるようにと。
 夢でも魔法でもなく、明日も自分は恋人なのだと信じられる言葉がないか、指を立てて記憶を探る。
 やがてかちりと噛み合ったものが見つかり、一瞬逡巡したものの、千空は覚悟を決めた。
 男は度胸だ。
 そして二言はない。

「――休み」
「ん?」
「調整しとけよ」

 それだけ言ってそそくさと扉を閉める。絶対入ってこられないように、普段はかけない鍵までご丁寧にしっかりかけた後、静かに扉に背中を預けた。
 息を詰めていると、やがて背後で盛大な深呼吸と、最小限に声量を落とした、「……っしゃあ!!」という雄叫びが聞こえてくる。
 闇の中片手を上げ、顔を押さえて千空は破顔した。
 何だこれ。いとしすぎんだろ。
 湧き上がってくる、そんな見慣れない感情を持て余しながら。

                                          了

2022.05.04pixivへ投稿

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