Sweeter than sweet
10336文字。IN SILENCEの続き。
前の話を未読でも全く問題ないくらい、ひたすらいちゃいちゃしているだけの話です。
キスしたりキスしたりキスしたりしてます。それ以上は一応していません。
当社比ですが、吐くほど甘いので苦手な方はお気をつけください。
スチームゴリラ号Ⅱの助手席に、さも大切そうに千空を降ろした後も、龍水の体勢は変わらなかった。
座席に千空を閉じ込めるように斜めに覆いかぶさり、真剣な目つきで見下ろしてくる。大層な造りの船長帽と大きく立たせた襟が眼前に迫るせいか、端正な顔が息の触れ合う近さにあるせいか、ひどく圧迫感を覚える。
立ち去ることに名残り惜しさを感じているのと、自分にもっと触れていたい、もっと距離を縮めたいと考えていることが手に取るように解った。
恋する人間の思考はこんなに解りやすいものかと驚きながら、感情だだ漏れの龍水から目を逸らせず、千空もまた相手をじっと見上げる。
木陰の中にいてもよく光る瞳にぞくりとする。堪えているかのような息づかいにも。耐えるように引き結ばれた口唇にも。
完全にのまれていたが、遠くで鳥が鳴く声と吹き抜ける風の感触に、ここは野外で、今は二人きりなのだと思い出す。
いくら無様なことになろうが誰が見ているわけでもなし、龍水も初心者相手にそこまで無茶はしないだろう。
かすかに怖気づきつつも勇気を振りしぼって腕を伸ばし、相手の首に巻きつける。乾いているのに束感のある髪と、あたたかくふわりとした肌の感触が悪いものではないと改めて実感した。
腕に力を込めて身を乗り出すと相手の顔が近づく。龍水の喉がヒュッと鳴るのが解った。白目部分の大きな目が見ひらかれ、固唾をのんでいるさまが、普段のかれのイメージとはそぐわず何となく面白い。
こんな感覚ならまあ違和感ないかな、と思いながら、千空は更に顔を近づけ、鼻と鼻が触れ合う距離でささやいた。
「ちーっと、思いがけないことにはなったが……」
黄玉色の瞳が大写しになって、たまらず目を伏せる。そのまますぐ上にある口唇に自分のそれをそっと重ね合わせた。
あたたかく乾いた口唇からちゅっと軽く音を立てて口を離すと、
「よろしく頼むわ、俺のパトロン兼チートパイロット」
にやりと笑ってそう言う。
「千空、貴様――!!」
いつかも聞いたようなうなり声で名を呼ぶと、龍水はあっという間に千空の両肩を掴み、座席に強く縫いつけてきた。
「うぶなだけかと思っていたら、やるな」
ぎらついた瞳で笑った際に鋭い犬歯がのぞき、獰猛な気配にからだが震える。
「ひどく魅力的なやつだ」
気配とは裏腹、ゆっくり顔を近づけられ、傾けられ、ひどく丁寧に口唇を合わせられた。
「ン、――」
さっきも思ったが、吐息も口唇も驚くほど熱い。これが人の体温か、と今更ながらに実感する。
ジン、と痺れがくるのにふるえて千空が思わず口をひらくと、その隙間から待ちかねたような速さで舌が忍び込んできた。
「ん、ぅ……ッ」
初めての他人の舌の感触に驚いているところなのに、たちまちそれを絡められ、舌の先や歯列を丁寧になぞられ、下唇を甘噛みされる。
耳に響く水音と、ん、ん、という自らのくぐもった呻き声が恥ずかしくて気が遠くなる。ふるえる手で相手の胸板を押して引き剥がそうとすると、なだめるように手をとられた。ゆっくり恋人つなぎにされ、愛撫するように指の間やてのひらを撫でられてゾクゾクする。そんなところから快感が生まれるなんて、今まで想像することもできなかった。
食らいつくように舌を吸われ、きつく閉じた瞳から何かがあふれそうになるのが解る。
そのうち呼吸が出来ず酸欠状態になって、苦しさに声をあげ足をばたつかせているとようやく解放された。
「ばっ、テメ、だからこっちは初心者だっつの、もっと手加減しろ……!」
思い切りのけぞって背もたれに深く頭を預け、千空は息も絶え絶えに言う。目が潤んで、耳から首まで真っ赤になっているのが鏡を見なくても解る。ちゃんと文句を言いたくても、羞恥のあまりとても相手と向き合うことなどできない。
「フゥン、感じ入っている貴様はすばらしく官能的だ。美しい。欲しい」
かすれた低い声にぞく、としながら運転席側に首を曲げて顔を背ける。するとあらわになった首筋に顔を埋められ舐め上げられて、高い声が出そうになるのを手で堪えた。
「――ッ!」
「心配するな、急ぐつもりはない」
耳元でそうささやかれ、びくびくからだが跳ねてしまうのがいたたまれない。
「だが、気を抜くと欲望のままに抱いてしまいそうになるな」
戯れのようにそう言いながら仕上げとばかりに耳朶をくわえられ、涙がこぼれそうになった。
「……っ、う、ッ」
歯を食いしばって必死に耐えるさまを、飢えたような目で見られているのが、視線を向けなくても解る。
「あまり煽るな、千空。ここには誰もおらんのだから、歯止めがきかん」
「だれ、が……っ」
悪態をつく声まで潤んでいることに気づき、慌てて口を閉じる。
捕食される側の感覚を今こそ思い知った、と感じた。今まで向けられていた視線など、戯れのようなものだったのだ。「すげぇ目」で見てくることがある、という自分の指摘に、龍水が思い当たらなかったわけだ。
捕食者というには紳士な男は、身を起こすとしばらく息を整えた後、車のへりから離れた。目を瞑っていても、地面に置いた荷物を持ち上げ、後部座席に放り込んでいる気配が伝わる。
知るかぎりの知識を使って呼吸を鎮め、ふにゃふにゃになった足の筋肉に力を入れ、何とか体裁を保って千空が座り直した時には、龍水はもう運転席に収まっていた。
「――平気か?」
大抵のことは言葉にしなくても解るくせにわざわざ聞くな、と思いながらも黙って頷く。
「すまなかったな、手加減しろと言われていたのに」
「謝んな、バカ」
文句を言おうとしていたのに先手を打たれ、千空は顔を背けた。
「あれぐらいテメーにとっちゃ普通のことなんだろ」
「いや、もう少し紳士的にできたのに――貴様に煽られて、つい我を忘れた」
だから煽ってない、と言おうとして、キスを仕掛けたのは自分だったか、と思い出して口を噤む。
主導権を握られっぱなしは性に合わないのでからかいまじりにやってみたのだが、当分ああいうのはやめておこう、と心に誓う。ひと通りのことを教わるまでは、初心者は何でも熟練者に任せ、ゆだねるべきだ。何事においても、それが作法というものだ。
そう自分に言い聞かせていると、隣からぬっと派手な右腕が伸びてきて、左肩を抱き寄せられる。からだごと横に向かせられて身を強張らせると、大人びた表情で苦笑された。
「いやがることはしない。だから、怖がらないでくれ」
そう言うとやわらかなキスが額に降ってくる。先ほどと比べるとあまりに子供騙しで、そのギャップに思わず笑い出しそうになる。
笑うのはともかく、「怖がってんじゃねえ、警戒してんだ」と訂正するのはさすがに無粋すぎると思ったので、千空はただ相手をじっと見つめた。
うす赤く染まった夕暮れ前の空を背景に、西日を受けて黄金色に輝く睫毛と瞳が間近に迫り、瞼を閉じる。ピンク色のグラデーションの中でのキスは、先ほどとはまた違う気恥ずかしさがあるが、目を瞑ってしまえばどうということもない。
ふわりと触れるだけのくちづけが、角度を変えて何度も何度も降りてくる。軽い水音をたててくりかえされるその触れ合いだけで充分に気持ちがよく、心が満たされた。
なるほどこれがオキシトシンやらセロトニンの効果ってやつか、とつい分析したくなるのを堪え、千空は与えられるものに集中する。龍水の唾液や体臭は、同じものを食べたせいか、屋外にいるせいか、不思議なほど無味無臭で、どこからが相手でどこまでが自分なのか解らなくなるような感覚があった。
自分との境目を見つけるために相手の上腕を掴んだところで、ふと違和感を覚える。筋肉がついているのにやけにふわりとした感触のすべらかな肌に、何かひっかかる部分がある。
思わず目を開き、顔を引きはがし、大きな袖をまくって確かめる。ちょうど肌が隠れるか隠れないかの境目あたりに大きな裂傷が走っていた。乾いてはいるが、出血した跡がある。
「あ゙ーテメー、これ割と痛えやつじゃねーか……」
自分が痛いかのように顔をしかめ、何で言わなかった、というように目を覗き込む。龍水は首を傾げた。
「そういえば岩を登っていた時、ひっかいたような気もするな」
曖昧な言い方だったがすぐ解った。山麓付近の岩の上で、龍水は太い枝を押さえてくれていた。あれは先に自身が怪我をしたから、同じ枝で千空が傷つかないようにという配慮だったのだろう。
先を歩き、危険があるものに黙って対応してくれた龍水のことを考える。宝島の最後の闘いで、自分より先に飛び出したかれのことを改めて考える。
斜め前や先を歩いている時、龍水はこれまでも、何食わぬ顔で自分を守ってくれていたのかもしれなかった。
眉尻が下がるのを自覚しつつ、傷とは逆の肩口に、押し黙ったままぽすんと額を埋める。
「千空?」
「――痛くねえの?」
戸惑った声が自分の名を呼び終わらないうちに、それにかぶせるように質問する。
あの後も平気な顔で自分を引っぱり上げたり、支えてくれていたことを思い出す。
光そのもののような、頼もしい腕だと思った。まさか怪我しているとは思いつきもしなかった。そのことを、千空は少しくやしく思う。
「痛いのかもしれんが、脳内麻薬が出ているのだろうな。あまり感じない」
龍水の言うそれは、朝千空が言ったドーパミンではなく、β-エンドルフィンのことだろうと思う。脳内モルヒネと呼ばれるそれは、モルヒネの六・五倍にもおよぶ強い鎮痛作用を持つとされる。
だが自覚がないだけで傷自体は浅くないから、放っておくのはよくない。綺麗に洗って細菌が入らないようにしなければ、万が一破傷風にでもなったら命にかかわる。
だからといって、今、川の水で洗うのも逆にリスクが高い。早く帰って一度沸騰させた水で洗浄し、消毒――いやこの場合薬を厚く塗ったうえでガーゼで覆った方が治りが早いのか――手当をした方がいい。
相手の腕を持ち上げ、眉を寄せて考えていると、龍水は「気にするな、たいした傷じゃない」となだめるように言った。
「ゲンや金狼は腹にこれ以上の傷を負ったのだろう。だが、石化前もピンピンしていた」
「それは当たりどころと俺の手当がよかったからだ」
千空は口を尖らせて言う。龍水が司の名前を外してくれた配慮は、勿論伝わっている。
「なら、これも帰ってから手当してくれればいい」
「ん――」
じゃあ早く帰ろう、と言いかけたところで、
「それに、貴様も怪我してるじゃないか」
と、伸びてきた指にごく自然に衣服の前をくつろげられ、脱がせかけられて驚愕した。
「ば、テメッ、ナチュラルに剥こうとすんじゃねーよ!」
慌てて身を引いて前をかき合わせる。一度も自分の服に手をかけたことなどないはずなのに、一連の動作は流れるように巧みだった。非常に恐ろしい。さすが、巧みにベッドに引きずり込まれるかもしれない、と付き合う前から警戒していた相手だけのことはある。
「こんなところで初心者に手は出さない。――左の、肩だろう。また見せてくれ」
龍水はからりと笑って身を離した。それから目を細めると腕を組んで、改めてこちらの腕だの足だのをじろじろ眺めてくる。
「フゥン、貴様もあちこち細かい傷ができてるじゃないか」
「そりゃ滑ったりよじ登ったりしてたからな。でも、こんなん場所が場所だ、」
舐めときゃ治る、と続けようとして慌ててやめる。
「なら、俺が舐めてやる」と言って本当に舐めてくるのが恐らく龍水という男だ。そのことが千空にも解ってきて、付き合う前は最低限ですませていた警戒を、今は必要以上にせざるをえない。
七海龍水はたしかに紳士ではあるが、何かにつけ雰囲気がいちいち性的なのだ。端的に言えば、「エロい」。何かのはずみでぺろりと食べられてもまったく不思議ではないほどに。
そして以前は自分にそれほど通用しなかったその雰囲気が、今では見事に通用するようになってきている。そのことを自覚して、千空は一人で顔を赤くした。
「千空? また首筋まで赤いが」
「夕陽のせいだろ。ほら、日が落ちるじゃねえか。さっさと帰んぞ。これ以上作業が遅れんのは次の出発に支障が出る」
「なら、手当はしてくれんのか?」
真顔で聞かれて顔をひきつらせる。論点はそこじゃない。
そこじゃないのだが――龍水が言質を取りたがるのは、解らないでもなかった。
次の約束が欲しいと思っていることがまたしても手にとるように解り、恋愛脳の面倒さに千空は天をあおぐ。
「薬……」
「ん?」
「塗り薬を届けてやる、湯冷ましでよく洗浄してから塗ってもらえ、テメーの執事様に」
「――貴様が塗ってはくれんのか?」
寂しいな、恋人同士なのに、とあからさまに寂しげに言われて目を逸らす。
龍水にそんなつもりがあろうがなかろうが、先ほどからのことを考えればそういう雰囲気になることは必定なのに、自らノコノコ食べられに行く赤ずきんがどこの世界にいるというのか。
だが千空が不安を抱えているのと同様、龍水もまた違う不安を持っているようだった。かれはため息をつくと、低い声でこう言った。
「帰って、顔を合わせないまま朝になったら、多分貴様は何事もなかったような顔をして、忙しさに紛れてうやむやにして、距離を置いて――また一から口説かなければ心を開いてくれんだろう」
「そ、そんなことはねえ」
どもった時点でひどく説得力がないことは、指摘されるまでもなく解っている。
そういう傾向が自分に多分にあることは自覚している。さすがに、一から口説く必要はないと思うが。
「ようやく手に入ったと思ったものが、まるで淡雪のように溶けてしまうかもしれんと思うと、俺は――」
苦しげな声で呻くように言うと、龍水はハンドルの上に腕を組んで顔を伏せた。そのさまに、朝と同じく胸がざわりとする。さすがに肋間神経痛だとはもう思わない。
夕陽に照らされ輝く黄金色の髪。王者の色。
そのたたずまいを持つ男に、こんな風に打ちひしがれていてほしくはない。
この男にはいつも自信満々に、豪快に笑っていてほしい。
その願いは明らかに自発的なもので――だから、決してほだされたわけではない。そう自分に言い訳しつつ、千空は一つ咳払いする。
「……塗ってやる」
びくりと船長帽が動く。こちらを見てくる動きに合わせて、逆方向に顔を逸らした。
「塗ってやるから、ほんとにさっさと出発しろ。暗くなったら事故る可能性が高まる。ここにテメーと二人だけで来たことを、頼むから俺に後悔させないでくれ」
怪我だけでなく、誤解による拒否だけでなく、これ以上龍水を傷つけたくない。祈るようなきもちでそう言う。
もとより真情の伝わらない相手でも、野暮なことを言う相手でもなかった。そのことを充分に知っている。
やがて車は、ふたたび盛大なエンジン音と煙を巻き散らしながら出発した。
◇
ピンク色を中心に、オレンジから紫までのグラデーションがどこまでも続いている。
車はすでに森を抜けたため、頭上を占めるのは木々ではなく、艶やかな色の空ばかりである。後は本拠地の巨大建造物跡を目指し、石混じりのだだっ広い道をひたすら走るだけだ。
夕暮れの風がやわらかに千空の顔やからだを撫でる。疲弊した身にはそれがひどく心地よく感じられ、今にも眠ってしまいそうになる。
今日はすべての作業をクロムに任せてきたから、帰ったら質問攻めに合うことは目に見えていた。龍水に薬を塗る約束もある。千空は寝るまでのスケジュールを組みながら明日からのことも考え、飛びそうになる意識を何とか保とうとつとめた。
さっそく人手をつのり、機材をそろえて先ほどの現場に向かう。同時に、新たに起こす人間を選定し、そちらの環境も整えていく。街づくりの問題をどうするか、これから冬を迎える本土の備えをどうするか、出発する自分たちのことも含め、考えなければならないことは山ほどある。
だが、考える頭は一つではない。そう思って運転席を盗み見る。
頼もしい男だと思ってはいたが、恋人となると一層そう感じられた。
これまでも勿論そうだったが、龍水は今後さらに、どんなことでもおのれの問題として共に考えてくれるだろう。宝島でそうだったように、自分が思考停止するようなことがあっても、最後まであきらめず解決策を探り、前へ進む道を切り開いてくれるだろう。
それは願望でも予想でもなく、確信だった。
手に入れたものの大きさに思わず口元をほころばせる。すると、隣でも破顔する気配が伝わった。
「今日は楽しかったな」
そう言われて横を向く。視線が絡み、自然に微笑をかわし合う。
「あ゙ぁ、楽しかったし有意義だった」
テメーのおかげだ、と千空は言外に伝える。
朝とは違い、互いに「楽しかった」と言えたことに満足していると、戦化粧していない方の手がハンドルから下りてきて、そっと右手を握られた。
指が触れているだけなのに馬鹿みたいにドキドキして握り返せずにいると、焦れたように手の向きを変えられ、また恋人つなぎにされる。
顔が近づいてくる気配がしたので、左手で思いきり運転席の方に押し戻し、尖った声を出した。
「馬鹿テメー、前見て運転――」
「大丈夫だ、俺は事故らない」
自信満々にそう言いきった後、右頬にキスをされて言葉を失う。もしかしたら本当にこの男は事故を起こしたことがないのかもしれない。何故かそう思った。
嵐の中、船の上で、悠々と茶を飲んでいたことを思い出す。落ち着きがあって、自信があって、包容力も忍耐力もあれば、行動力も決断力も、知恵も技術もある。
――よく考えれば、男の理想形じゃねえか。
常に男らしさを大事にしている千空としては、恋人に負けた気がして内心非常にくやしい。
自分の手を弄び、鼻歌を歌いながら運転している相手を、横目でじとりと見る。その顔は日本人ばなれした彫りの深さで、まるで彫刻のような造形である。そういえば、からだつきにもそんなところがある。だが司のように鍛え抜かれ完成された美ではなく、野生動物としてののびやかさ、しなやかさを持った肉体美だった。
内面がいいだけでなく、外側もまた神に祝福された男だと思い知り、千空は龍水に対抗心を持つことをあきらめた。そもそも自分とは最初からタイプが違う。龍水には確かに男が惚れても仕方のない魅力があるが、それ以上に女を夢中にさせるのはこんな男だろう、と思わせるところがある。
野心家で、リアリストでありながら夢想家で、獰猛なところも可愛げもある。またそんな自分の魅力を熟知して、自己アピールできる。七海財閥を失った今でも、かれならどんな女でもより取りみどりに違いない。
そんな龍水が自分を選んだ酔狂さにため息が出る。誰に言ったとしても、冗談にしか思われないに違いない。
長い息を吐き終えると、相手がやけににやけた顔で自分を見ていることに気づく。
「何だ?」
「いや、行きよりも断然俺の方を見ていると思ってな」
「!」
思いがけない指摘をされて言葉を失う。
冷静に考えれば、往路も何度か見ていた記憶がある。だが、先ほどのような見方ではなかった。特に、造形についてはまったく気にならなかった。興味がなかったといってもいい。
だが今は、ただ相手を眺めていたいような、賛美したいようなきもちがある。そりゃそうなってもおかしかねえだろ! と千空は内心エクスクラメーションマーク付きで叫んだ。
だが自分のキャラクターとしてそんなことを言うわけにもいかず、左拳をぐっと握りしめて耐える。
「それに、さっき俺のことを剥いて考えていただろう?」
「!!」
続いてとんでもないことをさらりと言われ、心臓が口から飛び出るかと思った。魚のように口を開閉させながら否定しようとしたが、そんなことをしても今の自分の状態では何の意味もないと気づき押し黙る。
それにしても、やましい妄想をしていたわけでもないのに何故そんなことまで解るのだろう。以心伝心にもほどがあると思った。こんなことで自分たちは今後大丈夫なのだろうか。やましいことをするようになったら一体どうなるのか。
詮もないことを考え、混乱する気持ちを静めようとしたところで、
「はっはー! 安心しろ、お互い様だ! 俺も貴様のことはよく剥いて考えているからな!!」
龍水がさらにとんでもないことを言ってくる。
千空は無言で手を振り切ると車のへりに身を寄せ、服の胸元と膝の合わせ目をそれぞれ握りしめた。
龍水が向けてくる視線には時おり欲が混じっている、と思っていたのだから今さらである。今さらなのだが、これまでは本当にはその意味を解っていなかったと知る。男に性的に見られるということがどういうことなのか、先ほど濃厚なキスを受けて初めて思い知った。
自分の動揺が処女そのもののように思えて、情けなくて恥ずかしくて頬が熱くなる。衣服の前をきつく握りしめたまま目を逸らしていると、やがて車が停まり、エンジン音が止まった。
「ちょっ、何で停める」
「これが停めずにいられるか。信号も渋滞もないというのに」
そう言いながら近づいてこようとする気配に、自然にからだが逃げをうつ。思わず車のへりに縋りついたところで、「千空」となだめるような声を出された。
「何もしないから、怖がらないでくれ」
どこにも触れないままおだやかに言われ、少しだけからだの力が抜ける。
何度もそう言われるが、別に怖がっているわけではない、と思う。ただただ恥ずかしくていたたまれないだけだ。
「悪かった。貴様があまりに俺を見ている上、うぶな反応を見せるから、ついからかいすぎた」
「つい」で随分色々する男だな、と振り返って睨みつける。龍水は夕焼け空を背景に、悪びれもせず笑った。
「そう睨むな。解ってると思うが、いつも剥いて考えてるわけじゃない」
「そりゃそうだろうよ」
ヤケになって言う。自分が過剰反応したことがひどく恥ずかしい。
「セックスを覚えたての中学生じゃないんだ、ただ貴様を貪りたいのとは違う。貴様がどうしても男同士で触れ合うのがいやというのなら、何もしなくてもいいと思っているくらいだ」
「ほーん?」
意外な言葉に千空は眉を上げる。そんな殊勝なことをこの相手が考えていたとは思わなかった。
「だが頭でそう考えて、自制しているつもりでも――すきな相手を前にすると、あらがいがたい力が働くのだと知った。自分が自分でなくなるような、こんな感覚は初めてだ。俺自身も驚いている」
言葉の途中で龍水は少し照れたように目を閉じ、咳払いした。
「いやがることはしたくないし、ゆるされていると勘違いして後で嫌われるのは困る。千空、いやな時はいやだとちゃんと言ってくれ」
強い光を宿す瞳が開かれ、深みのある声でそうはっきり告げられる。
ああ、こいつはやっぱりいい男だな、そして本当に俺のことがすきなんだな――としみじみ感じ、千空はすとんと何かが腹に落ちた気がした。
「思ったら勿論言うわ。今んとこ、いやとかはねえ」
それもどうかと思いつつ、ぼそりと「だから若干困ってる」と正直に続ける。
龍水は、
「そ、――そうか」
と唸るように言い、拳で口元を押さえて再度咳払いした。
何もかも説明しなくていいのは正直ありがたい。
「ただほんと、ペースとか節度とか、立場を考えてくれ」
「充分解っている。自制する」
訴えかけるように言うと、重々しく頷かれた。
「しかし千空、貴様は初心者なりに、俺のことを一生懸命受け止めてくれているのだな」
苦い顔から一転、喜色を浮かべてそう言われ、千空は面食らった。勿論そうなのだが、今のやりとりのどのあたりでそう思ったのだろう。
何も言えずただ瞬きしていると、目線の高さを合わせるように顔を近づけられた。
またキスされるのか、と身構えていると、龍水は満面の笑みを浮かべる。こちらもつられて笑い返したくなるような、旅人も思わずコートを脱がずにいられないような、太陽のような笑顔だった。
「貴様がすきだ」
笑顔のままそう告げてくる。心音が速くなっているのを自覚しながら、千空は「ん、」とだけ返す。
「大好きだ――」
大切そうに、噛みしめるようにそう言われ、目の前で金色に輝く睫毛が下がり、大きな瞳が伏せられる。
何かの引力が働いているかのように、どちらともなく顔を近づけ、傾け、口唇を合わせあった。
口唇以外からだのどこにも触れないキスは、誠実で、清廉で、まるでひそやかな誓約のようだと思った。
このキスだけで相手がいかに自分を大切な、尊いものとして想ってくれているかが伝わってきて、千空の心をゆっくりと満たしていく。
胸の中のぎざぎざした部分までが癒されて、安らぐと同時に、ひどく前向きな気分になった。
どんなに関係が深くなっても、長くなっても、ずっとこういうキスをしたいと思う。
互いを認め、尊重し、支え、癒し合えるような。
相手に何かを与え、返したいと思い合えるような。
そういうきもちをずっと持ち合えればいい、と願った。
二人がようやく本拠地に戻り、ラボにたどり着いたのは、夕焼けが完全に残照に変わった頃だった。
了
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