IN SILENCE 後編
29769文字。
宝島からの帰還直後の龍千後編。
ダム建設計画のため、二人で現地視察に出かけます。
ドライブ、山登り、マス獲り、ピクニック、熊騒動、キス、告白、姫抱っこなどなど。
「どうやって千空が龍水に惚れるのか」を、自分なりに納得いくよう書いてみました。
てっきり、フランソワがついてくるのだと思っていた。
スチームゴリラ号Ⅱを出すと言っていたから、運転させて、昼食も現地で作らせて、面倒なことは全部執事にやらせるつもりなのだろうと予想していた。
何しろ昨日の今日である。フランソワ以外に誰かいてもおかしくなかった。短時間のうちにルリや心当たりの土木工事経験者に声をかけてつれてくることなど、龍水にとっては朝飯前に違いない。
だが、ラボの前に停まった車にはかれしか乗っていなかった。千空は出かける準備をしていた手を止め、入り口にシルエットになって現れた長身をまじまじと見る。
「どうした?」
長いマントをなびかせ現れた龍水は、いつもどおりの晴れやかな表情である。むしろ黄金色の朝日を浴びて、眩しいくらいの笑顔だった。
何だか腹の底からおかしくなって、千空は作業台に手をついて俯くと、込み上げてくる笑いをこらえた。
「変なやつだな」
「テメーがな」
そう言う千空自身も、昨夜のことはあまり気にしていない。気にする性格なら、時おり欲をまじえた視線を向けてくる男とは一緒に仕事できないだろう。
若い女なら恐らくそんな視線を向けられやすいのだろうが、旧世界でも今の世界でも、そんなものをいちいち気にしていないように見受けられる。ならば自分にもできないはずはない、と思った。要は、実害がなければいのだ。
そのように割り切りがよく、切り替えが早くなくては科学王国のトップはつとまらない。船のリーダーにもその傾向がある。龍水はごく普通の態度で、千空が望遠鏡やら測定器やらを用意する手元を覗きこんできた。
「今日は軽く下見する程度だ。さっさと乗れ」
「昼飯とか準備してねえぞ」
「はっはー、いらぬ心配だ! フランソワが何も持たせず俺を送り出すと思うか!?」
「だよな」
普段どおりの会話をしながら適当に荷を積み、車に乗り込む。龍水と移動する機会は多かったが、車に乗ることは稀だった。クロムに呼ばれて鉱山に向かった時くらいだろうか。二人きりは恐らく初めてである。
盛大なエンジン音と煙を巻き散らしながら出発する。朝早いため、辺りに人影はない。大抵の人間はラボのある地上ではなく、巨大建造物跡の中に住んでいるということもある。
この辺りをもっと発展させたいな、と千空は顎に手を当て考える。世界一周から戻ってきたあかつきには、この一帯を更地にして、大量に家を建てて街を作る。いや、それくらいなら留守の間にルリたちに任せられるだろうか。ダム建設と並行だと難しいだろうか。
過ぎ行く風景を見ながらあれこれ思いをめぐらす。スチームゴリラ号Ⅱの助手席は元々、カセキが真横に向けて作っていた。千空はそれを方向転換できるよう改造し、現在は正面を向いて座っている。運転席の人間に指示や説明をするにはこの方が都合がいいのだ。
「昨日説明したが、あの小せえ山までこのルートで行く。車じゃちーっと厳しいが、徒歩だとこの方が近え。今後、作業員全員が車に乗っていけるわけもねえからな」
「フゥン、このくらい厳しいうちに入らん!」
前方を指した後、広げた地図を示すと、龍水はからから笑った。だが既にかなりの振動である。草をかき分け、石を踏みこえて、車は道なき道を進んでいる。
今から行こうとしているのは、自分たちが一度も足を踏み入れたことがない場所だった。本拠地から少しでも離れると猛獣の出る可能性が高いし、狩りや採集をする人間は大勢いる。これまで石油探しや造船、拠点づくりを進めなければならなかった中で、すぐそばの海や川で気分転換することはあっても、用がない限り遠くまで足を伸ばすことはなかった。
だが気球から見た時に気になった地形や、羽京やクロムに聞かされた特徴ある土地のことはよく覚えている。ある程度大きな川のある、高低差のある土地。そういくつもない中から白羽の矢を立てたのは、本拠地より少し南西にある小さな山々だった。山といっても多少隆起しているだけで、上空から見ればほぼ周囲と見分けがつかないほどに低い。
「あのはげ山と隣の山の間に、ちょうどいい感じに川が通ってるはずだ。それをコンクリでせき止める」
「鉄筋コンクリートか」
「鉄は一部でいい。ほとんどを竹でまかなう」
「竹?」
それまで前を向いてハンドルを握っていた龍水が、驚いたようにこちらを見てきた。当然の疑問だろう。
「今回作んのは、とりあえず短期間維持できりゃいいレベルのやつだ。ちゃんとしたダム作んなら戻ってからな。とりあえず、今ある資源と人手で必要なもん作るっきゃねー」
「ということは、治水が目的ではないな? ロケット作りの一貫ということか」
「あ゙ーそうだ、ご明察」
「当たるぜ、船乗りのカンは? 千空貴様が欲しいのは水力発電所だな、違うか!?」
バシイィ!! と指を鳴らして龍水が叫ぶ。
「違わねえよ。テメーが話早えのはよく知ってるから、前見て運転しろ。高級車とはわけが違うんだ、岩に乗り上げたらすぐ横転すんぞ」
そうなれば自分は投げ出される、と苦言を呈すると、龍水は片頬で笑った。
「誰にものを言っている? このくらいの道で横転するか! 旧世界の車と遜色ない乗り心地を味わわせてやろう……!」
豪語するだけあって、龍水の運転技術は巧みだった。凹凸の激しい道を走り、激しい振動が続いてはいるが、朝食べたものが胃袋から飛び出すほどの不快さは感じない。ハンドルさばきとペダルワーク、そして目線の遠さと視野の広さが尋常ではない。
生まれ落ちたその瞬間から最上級のものだけに触れてきたはずなのに、この原始の世界に対応し、順応して、今あるものを最大限巧みに扱う。龍水のそういうところを、千空はきらいではない。
「テメー、ほんと何でも乗りこなせんだな。日常使いしてたっつーヘリや自家用機は自分でも乗ってたのか?」
ロケットのパイロットと聞いて即座に「俺だな!」と言っていたことを思い出し、聞いてみる。
「当然だろう、プロのパイロットに習っていたからな!」
「ほーん、むしろ乗れねえもんあんのか?」
この分だと当然馬にも乗れるんだろうなと思いながら軽口をたたくと、龍水は首を傾げて考えこんだ。その様子を見て自然に笑いが込み上げる。
「まったくたいしたチート船長だよ、テメーは」
「フゥン、千空貴様、俺を起こしてよかったと思ってるだろう」
「そりゃもう、あの時の自分の判断に惚れ惚れするわ」
また変な方向に話が向かわないよう、千空は龍水を持ち上げるのではなく、自分を持ち上げてみた。実際、英断だったと思う。石油発掘、造船、宝島という時間を経て、かれ以外の人間を起こしていたら、という想像すらもはや出来ない。
だが、龍水は真逆のことを考えたようだった。
「そうか――今貴様の隣にいるのが、俺ではないという可能性もあったのだな」
前を向いたまぼそりとそう言う。
南の反対を押し切り千空がかれを起こした経緯は、あの場にいた人間が何度も話し、本人も知っているはずだ。目の前で面白がって聞いていた記憶もある。
なのに今さらそんな話を蒸し返してくるのが不思議だった。
「そんなん、万に一つもねーだろ」
「そうか?」
「俺に選択肢があんなら、何度やり直しても同じことをする。もし誰かが違う人間を起こしたとしても、そのうちテメーの名前が上がって、俺はそれに興味を持つだろうよ」
科学屋に「もしも」はない。龍水も本来そんな風に考える男ではない。そのはずなのに、微妙なニュアンスで仮定の話をしたのが気にかかって否定する。
横目で隣を見ると、相手の口角がわずかに持ち上がったのが解った。やはり、この男にはいつも上機嫌でいてもらわなければならない。
ふだん人に気を遣わない千空だが、龍水に対しては多少配慮している自覚がある。何しろ人命を預かる船長であり、運転手であり、パイロットである。常に万全で、磐石でいてもらわなくては困る。
基本的に龍水の情緒はあたたかく乾いていて、年齢よりはるかに落ち着いている。がちゃがちゃと騒がしいようで安定しているのだ。それがまれに静かな揺れを見せる時があって、そこが千空には気になっていた。
だから譲るべき時は譲り、目立たせる時は目立たせ、持ち上げる必要があればそうしてやった。ゲンなどは「千空ちゃんは龍水ちゃんを甘やかしすぎ、増長させすぎ!」と忠告してくるほどだが、それで唯一の船長の機嫌がよくなるなら安いものだ。
後から一人起こされたかれの立場を思いやれず、最初の頃に距離を置いたり、激しく拒絶したことも、どこか負い目になっているのかもしれなかった。
そんなことを考えていると、
「千空、昨夜の話だが、」
と、絶対に蒸し返してくることはないと思っていた話をし始めたから驚いた。
昨日のどの話だ、などと無意味な質問をする気はない。相手も言わない。
「今後、貴様の乗るものはすべて俺が操縦したい。船だけじゃない。気球も、車も、ロケットもだ」
多少身構えていたら、思いがけない要求をされて瞠目する。隣を見ると、龍水は顔は動かさないまま鳶色の目だけを動かし、視線を合わせてきた。
「それぐらい別に独占したって構わんだろう。俺が完璧に操縦すれば貴様に何の損もない。絶対安全に行きたい場所に連れて行ってやる」
「お、おお?」
「だから――他の人間が操縦するものに乗らないでくれ」
心持ち低い声でそう言うと、龍水は視線を正面に戻した。
自分を絡めとるものはなくなったはずなのに、背筋ではなく胸のあたりがざわりとして、千空は戸惑った。何だこれ、肋間神経痛か、と思わずばかなことを考える。
バカなことだと思う。相手のことも、バカだと思う。ふだん強欲で強引で傍若無人なくせに、何でこんなことではやけに控えめになるのか。
深くため息をつくと、途端に横から視線が飛んでくる。気にすんなよ、こっちの態度を! と叫びそうになるが、むずがゆさを抑え込み、顔をひきつらせながら約束するしかない。ここで拗ねられたり、またあの微妙な表情を見せられても面倒だ。
「とっさの時とか難しいかもしれねえがな。善処するわ」
耳に指を入れてそう言いながら、まあ不可能ではないだろうと考える。今後世界をめぐるにあたり、残る残らないなどチームを分ける可能性があるが、自分が龍水と離れるという選択肢はないように思った。
たとえ他の人間と行き先が分かれたとしても、自分が行きたい場所へは、かれが操る乗り物で行きたい。千空自身がそう望んでいる。
――そのために、起こした。
背もたれに深くからだを預け、頭の後ろで手を組んで隣を盗み見ると、龍水は誇らしげに笑っていた。
「そのために起こされたわけだからな」
ああ、解られている。
こんなことでも図ったように同じことを考える、そんな存在のあることの得がたさに、千空は満足して目を閉じた。
◇
九月末の空は抜けるように高く青い。
悪路とはいえ、しばらくは開けた場所を走っていたから、眼前に広がるのはほとんどが青空だった。そのうち人々が踏みしめ、木を切ってできた道を通るようになると、視界は木々、そして山々の割合が多く占めるようになった。
巨大建造物跡の上階や気球からこの辺りを見ると海と川ばかりだと感じるのに、地上から見渡すと違う印象になる。表情も実りも豊かなこの土地を、千空は嫌いではない。三千七百年たって様相が変わっても、生まれ育った場所だという愛着があるからだろうか。
ならばこいつはどうだろう、と地図に向けた視線を動かして隣の運転手を盗み見る。龍水のいた七海学園はここから少し離れている。恐らくその近辺の豪邸で生まれ育ったのだろうが、この男は意外に自分のことを語らない。
仰天富豪エピソードなら時おりお披露目してくれるが、それらの断片だけでは、七海龍水という男を決定づけるピースとしては絶対的に足りない。
何不自由なく育ち、欲しいものはすべて手に入れてきた男のはずなのに、かれには将来を約束された御曹司にありがちな、おっとりした気質がない。すべてを貪欲に欲しがり、決断力に富み、圧倒的な行動力を誇る。ある種、成り上がりのようなハングリー精神とふてぶてしさがある。
そして間違いなく陽キャラであるはずなのに、時折見せる静かな眼差し、透徹した表情は、かれが乗り越えてきた様々な壁を想像させた。諦めることは嫌いのようだが、思い通りにいかないことも沢山あったのだろうと思わせた。
だが、その心根はまっすぐで歪んでおらず、明るく澄んで淀みがない。圧倒的な光属性で、太陽と勝利と富貴を思わせる黄金色の気配がする。
千空はかれのそばでそれを感じているのがきらいではない。かれが王のようにマントをひるがえし、隣や斜め前に立っているのは嫌ではない。
自分とは似ているようで似ておらず、色々相反する顔を持つ男ではあるが、常々興味と好意を持って接している、と思っている。
「フゥン、これ以上は車では無理だな。降りるしかない」
木々が根や枝を広げる中、慎重に運転していた龍水だが、予想よりも早いタイミングでそう言った。もう少し行けそうな気もしたが、かれが言うのならそうなのだろうと判断に従う。
車から降りると周囲を見渡し、風景を頭に焼きつける。地図を見ていたため場所は把握しているが、万が一ということもあるからだ。
同じく何かあった時のことを考えたのか、木が密集している下に車を停めた龍水が、後部座席に置いていた荷物を投げてくる。
「そっちは?」
二つに分けた荷物の軽い方しか渡されなかったので聞いてみると、
「このくらい俺が持ってやる。どんな道かも解らんのに早々にバテられてもかなわん」
と口をへの字にして言ってきたから苦笑した。最初の頃はともかく、今では肉体的な労苦を厭わないのがこの御曹司のいいところである。加えて、意外に黙って人の世話を焼いたり気遣ったりする。指摘するとこのように憎まれ口をたたくところが憎めない。
千空の背嚢と自身の荷物を持ち、先に歩き出した広い背中に従う。目的の山の麓にもまだ至っていない森の中だが、傾斜がひどく激しい。それに獣道といっていい険しさだった。
千空は拾った枝で草を払い、杖替わりにして歩く。九月下旬の朝の陽ざしはそれほど強くなかったが、たちまち汗が流れた。
龍水は黙ってペースを合わせてくれている。歩きやすいルートを見分け、蛇や虫を払い、滑りやすい場所やつまづきやすいものがあれば注意してくれた。クロムやコハクと山を歩いた時も同じような配慮を感じたが、現代人、それも海の男であり道楽息子でもある龍水がそのような気遣いをできるのが不思議だった。つくづくチートな男だと思う。
「もう少しこの辺りを開拓せんといかんな。車が必要な時もあるだろう」
坂の途中で振り返り、立ち止まった龍水が周囲を見渡してそう言う。
「あ゙ー、大抵のモンは、この場で作れると思うが、人が通りやすい道、は作らねえと」
息が上がった状態で答えると窒息しそうになる。龍水は眉根を寄せて手を差し出してきた。
「いや、」
まだいい、というように首を振る。宝島に降り立った時、コハクに手を引かれて崖を登ったことを思い出す。あの時よりはまだましな傾斜だ。
しばらく黙々と歩いていると、やがて龍水が浮かれた声を上げた。
「喜べ千空、川が見えるぞ!」
その言葉でいっぺんに疲労が回復した気になる。もつれる足を速めて進むと、やがて傾斜がほぼなくなり、足元は草や土ではなく、岩や石がほとんどを占めるようになった。大きな岩をよじのぼると、一気に視界が開ける。
木々の間に、青く澄んだ川が滔々と流れていた。おお、と思わず声が漏れる。龍水も気に入ったのか、バシィッと指を鳴らす。
「フゥン、綺麗な川だ」
「あ゙ぁ、この上流に用がある」
川沿いにある山の麓が今回の目的地である。胸が自然と高鳴り、力が湧き上がってきた。休憩するか? という龍水のジェスチャーを首を振って断る。岩と石だらけの道は歩きにくいが、傾斜のない分だけ断然楽だ。視界が開けていて、碧い宝石のような川がそばを流れているのも気分がいい。
「ハッハー、みるみる元気になったな千空!」
「テメーもな。ワクワクしすぎだろ」
「俺は朝からずっとそうだ! 久々の遠出だからな!」
疲労の影もなく、石の上を跳ねるように歩いている龍水を皮肉ると、楽し気な声が返ってきた。
そういえば、こんなにおだやかな時間は久々かもしれない。宝島から戻って以降、次の出発準備と溜まっていた仕事、復活した司の世話などで目の回るような忙しさだった。空や風から季節の変化を感じる余裕も、川のせせらぎや小鳥のさえずりに耳をかたむける暇もなかった。
他に人の気配がない、美しい自然の中を歩いていると、まるで世界に二人だけになったかのような錯覚に陥る。
自然と、あの島での最後の闘いを思い出した。
敵もいたので厳密にはそうではなかったが、感覚的には二人きりだった。二人で敵と闘ったことは他にもあるが、周囲が石化していた分、宝島の方が「二人だった」という印象が強い。
先ではなく、今は横を歩く龍水をうかがうと目線が合った。相手も同じことを考えているのが何となく解った。
「あん時、アホみたいに楽しかったな。今思えば脳内麻薬出まくってた。高笑いしそうだったわ」
頼もしい笑い声が聞こえた時の、爆発するような喜びを思い出してそう言う。同意するだろうと思ったのに、龍水は意外なことを聞いてきた。
「獅子王司との共闘よりもか?」
「……テメー案外気にするよな、人のこと」
思いがけない名前が出たことに一瞬瞠目し、それから苦笑する。
「いつも誰かと比較され続けてきたからな。だが今は、他のことで人と比べたりはせん。貴様にとっての自分の意味だけだ」
解りづらい言葉に首を傾げる。評価してほしいということだろうか。
さっきさんざん持ち上げたのにまだ足りないのかと呆れていると、相手の視線がすっと外れ――眼前に赤いマントがひるがえった。
「!?」
水音と同時にそれが覆いかぶさってきて千空の全身を覆う。視界と自由をたっぷりした薄い革に奪われ、目を白黒させながらもがく。
相手がそれを外して投げたのだと理解し、ようやく引き剥がした時には、龍水はもう川から上がってきていた。全身水に浸かったわけではないらしく、膝から下だけが濡れそぼっている。靴もとっさに脱ぎ捨てたようだった。
「いきなり何だテメー、」
文句を言おうとして、満面の笑みを浮かべた相手が魚を抱え持っていることに気づく。ほのかに紅く色づき、激しく跳ねるそれはマスの一種で、「で、でっけえ!」と思わず感嘆の声を漏らすほどの大きさだった。
「はっはー、元々飛び込みたかったところに、でかい魚が泳いでいると気づいたからついな!」
「猛禽類かよテメーはよ。コハクも大概だがテメーも充分すげえわ。御曹司様が原始の世界に馴染んでやがる」
文句なのか賞賛なのか自分でもよく解らないことを口走り、千空は大きなため息をつく。
「ちーっと早えが昼にするか。新鮮なうちに食おうぜ」
マスを手づかみする男なら知っている可能性もあるので、色々省略してそれだけを言う。婚姻色のある、つまり今の時期川を遡上したマスには酵素が多い。それが死後も作用し続けるため、時間がたてばたつほど身が分解され傷んでいく。菌が湧いて腐る前にさっさと焼いて食う、ついでに服も乾かせばいい、と判断したのだが、龍水は特に異を唱えなかった。
手ごろな石が集まっている場所を探し、うすい鉄網を渡すと木を組んで火をつける。龍水に服を乾かすよう促すと、必要な道具を準備し、魚を調理することに専念した。
締めて血を抜き、鱗を落とす。川を遡上したマスだと味が悪いかもしれないと思ったが、身を開いてみると綺麗な色艶をしていた。新鮮だし脂が乗っているから刺身でもいけるかもしれない。
醤油も毒消しになる薬味もないから微妙か、と考えながら内臓を取っていると、ぷるんとした白いものの存在に気づく。刃先に触れないよう気をつけながら取り出し、流水で綺麗に洗い、更に塩水の中でも洗う。
「それは何だ?」
素足を焚火にさらし、分厚い紙製のシートを広げながら、龍水が横から聞いてくる。「あ゙ぁ、白子」と答えたら実に微妙な顔をされた。
「何だ、お嫌いか?」
「いや、好きだ! 貴様と白子の取り合わせに少し驚いただけだ!」
「何でだよ。この時期ならむしろ身より美味いんじゃねえか。レモンがあればなー」
「はっはー、これでどうだ!!」
焼けば塩だけでもいけるか、と手持ちの塩を探っていると、自身の荷物を漁り出した龍水が小さな丸いものを投げて寄こした。受け止めると、青く硬い果実である。
「酢橘か! やるじゃねーかテメー!」
テンション高く叫んだ後、準備したのは龍水ではないだろうと気づく。「このような流れもあろうかと」という涼し気な声を聞いた気がして、千空は苦笑した。
七海家の有能な執事が用意したのは、勿論薬味だけではなかった。持参のシートの上に、龍水が豪華なランチボックスを次々広げる。各種サンドイッチや鳥を揚げたもの、根菜をゆでたもの、サラダや秋の果物まで、色とりどりの料理が見栄えよく箱に詰められていた。なかなかの荷物を持っていると思ったらこれか、と納得する。
「ピクニックかよテメー。こんな量あんのにマス獲ったのか」
「フランソワの心づくしだ! だが執事に用意させたものだけでは無粋だからな」
げんなりしながら言うと龍水は指を鳴らし、片目を瞑りながら笑った。何がどう無粋なのかはよく解らない。
塩を振った魚の切り身を並べられるだけ鉄網の上に並べ、そのまま龍水に火加減を任せる。自身は宝島でも持ち歩いていた鍋で湯を沸かすと白子を湯通しした。それをまた川の水で冷やし、男の料理らしく鍋ごとドンと平らな石の上に置く。
「おら、このまま酢橘かけて食うなり、焼いて食うなり、好きにしろ」
そう言ってシートの端に腰を下ろすと、龍水は実に嬉しそうに笑った。
「やるな千空貴様! 無論どちらも楽しむ!!」
「テメーが獲ったもんだ、好きに食いやがれ。腹壊すかもしれねえがな」
「俺は自慢ではないが腹を壊したことはない!」
「ほーん、そりゃすげえわ」
そういえば石神村でも宝島でも、文句を言いながら何でも食っていたな、と思い出す。海の上でも洞窟の中でも眠れるし、暑さ寒さも耐えるし、風呂やトイレがろくにない環境でも順応する。常に最上のものを求める一方、ないならないで何とかする男である。そして持ち前の強欲さと遂行能力で道を切り開いていく。頼もしいことこの上ない。
「これくらいの魚なら俺にも獲れる。サバイバルも可能だ!」
魚の切り身を取り皿に分け、こちらの方へ差し出しながら龍水が言った。またしても心を読んだようなタイミングだった。
「あ゙ー、解ってる」
皿を受け取りながら千空は苦笑した。今度は誰と比較してやがるんだか、と思う。もしかしたら宝島で後から起こされたのが気に入らなかったのだろうか。
「さーて、楽しいランチのお時間だ。フランソワ先生の弁当もいただこうじゃねえか」
取り分けた白子と揚げた鳥肉に酢橘を搾ると、清涼な秋の香りがあたりにたちこめた。河原の光景ともマッチしてひどく清々しい。深呼吸してまずは白子を口に含む。噛んだ瞬間に優しい甘みが弾け、口内でトロトロとろけた。臭みは全くない。
龍水の視線が口元に向けられているのが解り、千空は濃厚なそれを味わいながら、「美味えぞ」と目で言う。
「ああ、切り身も美味い。ホクホクだ!」
ガツガツと旺盛な食欲を見せながら龍水が言う。御曹司の食べ方は、綺麗な時もあればやけに野性的な時もある。今はどうやら後者のようだった。
勧められるまま淡いオレンジ色の切り身を口に入れると、焼き芋のような香りと感触が広がった。なるほどふっくらやわらかで、適度に脂が乗った上品な味だ。これならパンにも合いそうだ、とフランソワお手製の卵のサンドイッチを手に取る。
「そういえば、テメーの執事は何で来なかったんだ? てっきり現地で昼飯作らせんのかと思ってたわ、バーベキューとか」
「フゥン、そういうのも嫌いではない。だがそんなことはいつでもできる! そしてフランソワは無粋な真似はしない!」
「あ゙?」
純粋な疑問にまたわけの解らない返事をされる。千空は首を傾げながらサンドイッチを食べ終えると、今度は白子を火にかけた。
「やつが今ここにいたら、貴様のそんなすがたは見られなかっただろう」
龍水がこちらを見ながら目を細めて言った。料理をさせたかったということだろうか。「石神村でも色々作ってやったじゃねえか」と言うと、「そういうことではない」と返された。
「しかし流石に手際がいいな千空貴様! 俺は魚を獲ることはできるが、そう上手くは調理できん」
「あ゙ー、だてにサバイバル生活長くねえからな。俺は体力ねえし器用でもねえが、色々工夫して食えるようにすんだわ」
「そうやって分担して、協力して――大樹と半年間、二人で生きてきたのだな」
しみじみ言われて愕然とする。先ほど司のことを聞いてきた時より、もっとずっと深い声だった。
今度は大樹かよ、と思う。一体何にこだわってやがるんだ、と考えていると、突然脳裏に幼馴染の声がよみがえった。
――千空、龍水はいい男だぞ!
いつのことだったか、大樹が熱心に主張してきたことがあった。
いきなり何を言うんだコイツは、と呆れていると、いつでも元気な幼馴染は身振り手振りを交えて説明をはじめた。
――酸素が残り少ないのに、起こした直後の俺にためらいもなく分けてくれたんだ。海の中で俺たちは言葉もなく通じ合えた! あれは貴重な経験だったぞー!
ああ、案外最近だった、と思いいたる。
イバラとの闘いが終わった直後、二人でペルセウスの研究室を片付けていた時のことだ。フランソワとアマリリスは厨房にいて、クロムは外のラボカーから荷物を運んでこようとしていた。
ルリのことを何で話さなかったとか、話す必要がなかったとか言い合っているうちに、ふと思い出したように大樹が龍水の話をはじめたのだ。
――咄嗟にスイカを助けた話も聞いたし、海哭りの崖から戻ってきたお前たちを一人一人引き上げていたのを、俺自身も見た。もの凄く器の大きい男だと思うぞ!
宝島を経て、龍水の評価は大樹の中で爆上がりしたようだった。他人を褒め続ける大樹が珍しくて、千空は掃除する手を止め、思わずまじめに聞き入ってしまった。
――最初はビックリしたが、お前の判断は間違ってなかった! 航海力も神腕だし、気球も操縦できるし、頼もしいし、いいやつだ! 龍水を起こして本当によかったなー!
ニコニコ笑いながらそう締めくくった幼なじみが、その直前に言った言葉。
――あの時、大樹は何と言ったのだったか。
「……懐かしいか?」
ふいに話しかけられて回想から引き戻される。ツリーハウス時代を思い出していたと思ったのだろうか、龍水はそんな言い方をした。
「あの半年間か? お懐かしいよりもキッツイ思い出の方が多いわ。本当のサバイバルだぞ」
「解っている。それでも、一人きりよりはよほど心強かっただろう」
「そりゃ当たり前だ」
眉根が寄るのが解った。一人きりは正直、トラウマになるレベルで嫌だ。つい先日も痛感したばかりだ。
気分を害したことが伝わったのか、龍水が「思い出したくなかったのなら悪かった」と謝ってきた。
「俺は時おり、想像することがある。貴様が一人で生きた半年間と、その後の半年間がどんなものだったのかを」
「へえ?」
千空は龍水のことを、仮定法過去完了の考え方をしない男だと思っている。ゲンがたしかそんなことを言っていたのだ。
だから、今の発言にはかなり驚いた。起こされるのは自分ではなかったかもしれないとも言っていたし、今日はどうしたのだろう。あるいは、案外そんなことを考える男なのだろうか。
「自分だったら、ってか?」
「貴様の立場だったらということはまず考えられない。すぐ死ぬ以外の想像はまったくできない」
龍水はやけにきっぱりと言った。あんなにサバイバルができることをアピールしていたのに、謎にあきらめが早い男である。
じゃあ一体何を想像するんだ、と首を傾げながら、千空は残りの切り身を焼いていくことにした。余ったら空になったランチボックスに詰めて帰れば立派な土産になる。
持ち前の合理性を発揮して作業するさまを、珍しく感傷的な御曹司がじっと見つめているのが解った。その視線の意味は解らない。この男のことは時々本気でよく解らない。
何だか少し気まずくなって、黙々と魚を焼き、食事をとる。基本的にすきなものをとっていけば問題なかったが、数の少ない果物はどうしても視線とジェスチャーでうかがい、それぞれ分け合って食べることになる。千空が無花果をナイフで切ってやると、龍水が器用に石榴を割ってくれる。交換して食べると自然とお互い笑みが浮かんだ。
食事を分け合うことには人間関係を円滑にする効果がある。そんなことはよく知っているつもりの千空だったが、あらためてそれを感じた。
無花果を食べ終え、果汁したたる指を何本か舐めとる。川で手を洗うか、と目線を上げたところで、鳶色の瞳とまともに視線がぶつかった。すぐに目を逸らされ、今度はずいぶん解りやすいな、と思う。
気にせずそのまま手元のものを集めると川べりまで歩き、腰を下ろす。手を洗い、口をゆすぎ、食器を洗う。水面にふりそそぐ日差しは真昼のそれで、あたたかく眩く、清涼な風が吹いていなければ暑いくらいだった。
しばし脱力して、絶え間なく働き続けようとする脳を休める。光をたたえて静かに流れる水の動きは、じっと見ていると酩酊状態に陥るような魅力があった。四肢の力を抜き完全にリラックスしていると、忘れていた疲労感が浮かび上がってくる。食後の満腹感と倦怠感、睡眠が足りなかったこともあいまって、急激に眠くなってきた。
「こら、寝るんじゃない」
背後から砂利を踏みしめてこちらに近づいてくる気配がある。龍水も手を洗いに来たのだろう。すぐ横に陣取り、ばしゃばしゃやる音が聞こえ始めた。だるくて目を向ける気にならず、唸り声のようなものをあげて眠っていないことを伝える。
「何の返事だ、それは」
苦笑する響きが耳に心地よい。千空はこの男の声がきらいではない。だから多少騒がしくしていても、それほど気に障ることはない。大樹の声と同じで、思考の途中で話しかけられても邪魔にならないのだ。
「千空、」
やがて、その低い声で名前を呼ばれた。熱量の高い気配がさらにこちらに近づいてくる。もう少し休ませてくれたらいいのに、と思いながら目を上げようとして――千空は耳の裏から背筋まで、ぞわりとした悪寒が駆け抜けるのを感じた。
質量のある大きな気配をこの場にもう一つ感じる。ここには龍水と自分しかいないはずなのに、真横ではなく、明らかに「背後」から、こちらをうかがう視線がある。
全身が総毛だち、緊張で強張る。喉がひりつく。目だけを動かして隣を見ると、龍水は首を曲げて後方を見ていた。
とても自然に、静かに肩に手をまわされる。なだめるような触れ方だけで、動くな、声をたてるな、という意図が伝わってきて、呼吸とまばたきで了承の意を示す。
一度対峙した経験からすると、恐らくライオンではない。質量の大きさから考えると熊だろう。後方約十二メートル、自分たちとのちょうど中間に食事の残骸がある。その匂いに引き寄せられたのだろう。しばらく静かにしていたのも悪かったかもしれない。熊であれば刺激せず、静かに後退するのがベストだが、川べりに座っている状態ではどのように動いても刺激になりかねない。やりすごすつもりか、と龍水をうかがう。
骨のかたちがくっきりと浮き出た首筋がまず目に飛び込み、それからシャープな頬のラインと高い鼻梁が視界に入った。千空は細かく震えているのに、かれのからだからは動揺のひとつも感じられない。触れた部分から伝わる脈拍も、特に速いとは思わない。確かな鼓動とあたたかく力強い手の感触を感じていると、千空もだんだんと震えがおさまり、落ち着いてくる。この腕の中にいれば大丈夫だというような、途方もない安心感が湧きあがってくる。
まわされた腕にぐっと力がこめられ、引き寄せられた。厚い胸板に顔が押しつけられ、全身で庇うようにされて、ぎゅっと身を縮こませる。自然と相手の脇腹あたりの服をきつく掴んだ。こんなに体温と息づかいがありありと解るほど人と密着したのはいつぶりだろう、と考えて圧迫感をやりすごす。男同士だから気持ち悪いとか何とかいう感想は、生命の危機を感じているためか浮かばなかった。
気の遠くなるような時間がすぎ、やがて背後の気配が立ち去ったのが解った。龍水の腕から力が抜けたとたん、千空は安堵のあまりへなへなと崩れ落ちる。
「大丈夫か?」
すかさず再度支えられ、心配そうな顔にのぞき込まれる。あまり意識したことがなかったが、見ているこちらが気恥ずかしくなるほどに整った顔だ。たとえば獅子王司や、女たちの美しさとはまた違う種類の端正さである。精悍で自信に満ちた、間近で見ていると目が離せなくなるような、人を引き付ける魅力があった。
「千空?」
至近距離でトパーズのように光る瞳を見ていると、先ほどは思い出せなかった大樹の台詞が、何かの効果音のようにありありとよみがえった。
――男が惚れる男っていうのは、ああいうやつのことを言うんだな!
ああ、たまに「惚れそうになる」と思うようになったきっかけはあれだ、と思いいたる。
とっさにスイカを助け、起きたばかりの大樹に空気を送り込み、手負いの金狼の面倒を根気強く見た、そんな仲間想いの男だ。自らの石化をものともせず、一方的に千空を信じて、最後まで冷静に最善の一手を打てる男だ。龍水には、男が惚れても仕方がないような魅力がある。何しろ、大樹にそこまで言わせるほどの男なのだから。
それにしても――と思う。
献身などという言葉からは、一番遠い存在だと思っていた。自分が矢面に立ち、犠牲になることをためらわない男だとは、起こした直後はまったく考えられなかった。
いつから? 何が理由で? と考えたところで、ふいに昨夜の言葉がよみがえる。
――そういう存在を求めていただろう?
まさか、自分を「手に入れる」ために? と一瞬考えかけてすぐに打ち消す。人間、欲のためだけにそこまでの変化はとてもできないだろう。
では、なぜ――? と固まったまま思考を始めたところで、目の前の龍水が笑った。
「フゥン、悪くない目だ。俺のことが気になって仕方ないという顔をしているな!」
自信ありげな笑みが少々癪に障るが、あながち間違いというわけではない。
濃い眉、その下の酷く印象的な瞳、秀でた鼻梁、意思の強そうな口唇。精悍な頬から顎にかけてのライン。光に満ちた金茶の髪。
それが徐々に近づいているのを不思議に思っていると、呼吸がやわらかに頬をくすぐる。相手の顔が傾けられたためだと理解した途端、目の前に長い睫毛が大写しになって、ぶつかる、と反射的に目を閉じた。
あたたかい吐息が口唇にかかったかと思うと、弾力のあるやわらかいものが触れ、びくりとして身を引く。
「あ、」
心底驚いた顔をして、龍水もまた身を引いた。
「すまん――貴様が無事で、安心して、あまりに俺を見ているものだから、つい」
口元を手で覆いながら視線を逸らし、龍水が珍しくしどろもどろに言った。
「いや、」
口唇をぬぐいながら、千空はなぜか責める気にはならなかった。
何となく解らないでもなかったからだ。吊り橋効果で人は恋に落ちるのだという。なら、生命の危機に際してそんな気分が盛り上がってもおかしくないのだろう。
気恥ずかしくはあるが、いやではなかった。そのことに自分でまず驚いた。
男とキスなんて絶対にごめんだと思っていたのに、違和感も嫌悪感もなくて逆に戸惑う。それもまた吊り橋効果の一つである気がして、考えないようにしようと決めるとさっさと立ち上がる。
マスは綺麗に焼きあがっていた。龍水は火を消してから手を洗いに行ったのだろう、ほどよく冷めている。それをランチボックスに詰め、空箱とともに包みなおす。
戻ってきた龍水とシート代わりの紙の両端を持ち、折りたたむと荷物をまとめた。食事と同様、共同作業もまた、微妙になった空気を円滑にしてくれるのだと再確認する。
「ずいぶん軽くなった。そっちの荷物も持ってやれるぞ」
龍水は自分の荷物をまとめて千空の背嚢に入れると、手が空いたとアピールする。
「こんくらい別にいいわ」
さすがにすべての荷物を龍水に持たせるのは気が引け断るも、「遠慮するな」と奪われる。それが先ほどの贖罪のようにも思えて、千空はまた少しいたたまれなくなった。
それを隠すように「熊、もう出ねえかな」とたずねると、先に歩き始めた男は安心させるように頷いた。
「あっちも俺たちを認識したからな、警戒するだろう。鉢合わせすることはないはずだ」
知識としてそう知っていたが、対峙した人間に太鼓判を押されるとやはり心強い。安堵の息をつくと、龍水が背中を向けたままぼそりと言った。
「獅子王司であれば、さぞ鮮やかに狩ったのだろうな」
頼もしいと思ったばかりの人間に微妙なテンションになられ、「どうなってんだテメーの情緒!」と締め上げたくなるが、トラウマがあるようなことを言っていたのを思い出す。確か今は、千空にとっての自分の意味だけは他の人間と比較するのだ、と言っていた。
「無駄な殺生せずにすませるのも充分すげえわ。大体さすがにもう食えねえし、持って帰れねえだろ。俺は熊の死骸と車に乗るなんていやだぜ」
またゲンが聞いたら目を剥くような配慮をすると、「そうだな、俺の役目はそこじゃないな」と納得したので「そうそう」と胸を撫でおろす。
サービスでもう一つダメ押しで言ってやるか、と、千空は「それに」と言葉を続けた。
「もしまた遭遇しても、テメーがいれば何とかなる。違うか?」
相手の口癖を真似て言う。こちらを振り向いた男の呆気にとられたような表情がおかしくて、にやりと笑う。
龍水はすぐにいつもの自信ありげな顔に戻ると、指をバシーン! と音高く鳴らした。
「奇遇だな千空、俺も貴様といるとよくそう思うぞ!」
そりゃ両想いでめでたいこった、という冗談は口の中に飲み込んだ。
◇
川沿いの道は、やがて再び傾斜を見せはじめた。山麓が近いのだ。
獣道というより、石と岩で埋め尽くされた道なき道である。傾斜があると土や草の上より更に歩きづらく、滑ったりよじ登ったりするため満身創痍になった。
「まあまあ難所だな……」
千空は何とか大きな岩を登り終えると、ゼエゼエ喘ぎながらそう言う。登りきった位置にある太い枝がぶつからないよう押さえてくれていた龍水が、右手のはげ山を指で示した。
「あの山際に道を作るのはどうだ? 作るまでは少々大変だが、本拠地からはぐっと来やすくなるだろう」
「ほーん、悪くねえ」
自分にはないアイデアだったので、やはり龍水と来てよかった、と思う。確かに、長い丸太を何本か渡せば不可能ではない。何なら、その道にいたるまでの距離も丸太で作ってもいいかもしれない。
「ダム工事もそうだが、パワーのある人間が大量に必要だな」
休憩がてら口元に手を置き、しばし辺りを見回し様々な計算に入る。やがて顔を上げた千空は、龍水を見上げてたずねた。
「そういやテメーが言ってた心当たりの土木工事経験者って誰のことだ?」
龍水は鉱山発掘の時に活躍した男の名前を挙げた。確かに、かれになら現場の指揮を任せられると思える人間だった。
「ねぎらおうと酒に誘ったら意気投合してな! ちょうど工事中に石化されたと言っていたから、同僚の石像もすぐ見つかるかもしれん」
ああ、この男はこういうところが好ましい、と思う。
千空はその工事経験者と話をしたことはあるが、酒を酌み交わしたことはない。身内の祝いくらいでしか酒を呑まないというのもあるが、ねぎらうために酒に誘うという発想がまずない。誘っても、相手に胸襟を開いてもらえるかは解らない。千空自身は大樹が親友であるように体力一番型の男が嫌いではないが、そういう男たちからは少し距離を置かれるのが常だ。
なのに、財閥の御曹司はたちまち意気投合してしまえるのだから面白い。大樹の言うとおり、龍水は本当に男が惚れるいい男なのだろう。
「あとは確か、――の父親が腕のいい大工だと言っていたな。探して見つかるなら起こせばいい、違うか?」
顎に手を置いて考えていた龍水が、今度は別の人間の名前を上げる。千空は頷いた。
カセキはどうしても旅に連れていかなければならないため、大工や職人の存在は大変ありがたい。
「あ゙ぁ、復活者の身内や知り合いなら下手なことしねえだろ。ガンガン起こそうぜ」
「そうだな、船に乗る人間を考えればダンバー数も変わってくる」
再び歩きはじめながら話を続ける。龍水とはポンポン話がはずむのでアイデアが浮かびやすい。ダンバー数と聞いて、別に思い描いていた計画への転用を思いつき、打ち明ける。
「溢れた分は宝島に派遣すりゃいい。あそこは赤道直下だから、別にミッションを考えてる」
「ロケット発射場か!」
わずかなヒントを言うやいなや正解を言い当てる龍水に、千空は内心舌を巻く。
「あ゙ー、ほんとにテメーは話が早えーわ。百億点やるよ」
宝島以降、日々理解が早くなってきている気がしないでもない。己の思考パターンを既に把握されているのか、あるいは違う思考パターンで先回りされているのかもしれない、と考える。
後者の可能性も多いにあった。宝島の共闘では、龍水はあきらかに千空より数歩先を読んでいたからだ。
あんなことは初めてだ、と思う。
あんな風に自分の意図を読むだけではなく、自分より早く最善の判断を行い、かつ行動に移せる人間は。自分の思考の上をいかれるのは。
では龍水がいれば自分はいなくていいのかといえば、それは違うだろうと思う。相乗効果、というやつだ。千空一人ではできないことを、龍水がいれば実現できるのだ。
そのことを考えると、正直、「唆るぜ」と思わずにはいられない。
勿論、どんな人間とでもそれぞれ相乗効果はあるものだが、龍水とのそれは他とはケタ違いにスケールが大きい。
ダム建設どころではない。世界一周、ロケット作り、そして月面着陸――。通常であれば、この石世界ではどれも不可能に近いことばかりだ。
だが神腕船長であり、パイロットであり、自分と同等かそれ以上の理解力、判断力、リーダーシップを持つこの男となら、出来ないことではない、とすなおに信じられる。
正直、起こした時はここまでのスケールの男だとは思わなかった。単に船長として凄腕でありさえすればいいと思っていたのだ。
それがいつの頃からか、自分との相乗効果で次々大きなことを実現できるようになった。ありがたいと思うと同時に、もしもかれが最初の頃からいてくれていたら、と思ってしまわずにはいられない。
そうすれば、ここまで半分ほどのスピードでくることができていたかもしれない。いや、もっと早かったかもしれない。
ひときわ大きな岩の上から、自分に向けて差し出された腕を見る。太くもなく細くもない、しなやかな筋肉が無駄なくついた、彫刻のような腕だ。パワーチームのように屈強でもなければ武術の心得があるわけではない。それなのにこの腕はどこまでも千空を支え、導き、守ろうとしてくれる。
頭上から舞い降りる陽光が眩しくて、すぐ上にある龍水の笑顔が眩しくて、千空は目の奥がツンとするのを感じる。
光そのものの腕をとると、自分がそれに縋るよりも早く、絶妙な加減で引っ張り上げられた。
――違う、ゲン。俺がこいつを甘やかしてんじゃねえ。こいつが俺を甘やかしてんだ。
心の中でゲンにそう言い訳し、千空は手を引かれて岩を登り続ける。
この男に、もっと早くに出逢えていたら、と思わずにはいられないけれど。
龍水は、自分が司帝国に勝利して得た復活液でよみがえらせた、宝のような男だ。
その考えに思いいたるのと、岩を登りきって視界が開けたのは同時だった。
ほとんど龍水に抱えられるようにして、人力でたどり着けるぎりぎりまで山麓に近づいた千空は、その光景を見た。
「おおおぉお! まじか!!」
雄たけびにも近い声が喉から漏れる。こんなことは宝島以来だ。
「完璧だ、山の間を川が降りてきてやがる……!」
左右の山の間から、滝のように水が下っている。恐らく二つの山は途中で繋がっているのだろう、その間を川が激しく流れ落ちている。だが山麓の水深はごく浅い。流れをせき止めてしまえば完璧なダムになる。
水しぶきを浴びながらガッツポーズを作って思わずはしゃぐ。それを圧倒されたように眺めていた龍水が、いくぶん遠慮がちにたずねてくる。
「このままでも使えるんじゃないのか?」
「いや、上でせきとめて溜め池にする。完璧な地形だ、高低差をそのまま使える。上にコンクリつみあげていきゃいいんだから断然楽だ。これならすぐできんぞ!」
喜びのままに早口に言うと、戸惑う相手の肩に飛びついてぴょんぴょん跳ねる。
先ほどまで抱えるように支えられていたし、いまだに龍水の手は背中にあるから、千空の中では違和感のない行動だったのだが、相手は非常に驚いたようだった。
雷に打たれたような顔をした龍水と抱き合っている状態であることに気づいて、ばつの悪い思いでからだを離す。
直前に感傷的なことを考えていたこともまずかったのだろう。常にない自分のすがたを見せたことがだんだん恥ずかしくなってくる。
「……悪ィ、ついはしゃいだ」
「――いや」
目を逸らして謝ると、龍水もこちらの顔を見ないまま片手で口元を押さえ、「気にするな」と言った。ちなみにもう片方の手はまだ背中に回されたままだ。
「今、他の人間を連れてこなくて本当によかったと思っているところだ。貴重な貴様のすがたを見ることができた」
「?」
前半と後半の台詞がつながらず千空が困惑していると、龍水はどこか吹っ切れたような顔をして言った。
「鉱山発見時の貴様の楽しそうな顔をネタに皆で呑んだ時、」
「おいおい何だよその前提は」
とんでもない酒の肴を聞いて目を剥く千空に構わず、龍水が続ける。
「クロムがスカルン鉱床発見時のことを自慢げに話していて、何だか悔しくてな。俺も俺だけが知る貴様の顔が欲しかった」
「いや、あれマグマもいたからな。クロムだけが知ってるわけじゃねえから。っていうか何なんだテメーらは、人の喜んでる顔をネタに呑みやがって」
「貴様にとってのスカルン鉱床の価値を知るのはクロムだけだっただろう。しかしマグマがいたことも事実だ。だから、俺は今日一人で来たかった」
出だしの軽さから千空が想像するよりも、どうやらこの話は根深いものだったらしい。
龍水の中の何かに火をつけてしまったようで、かれは突如真顔になると、ガッと千空の両肩を掴んできた。
「さっき、フランソワをなぜ連れてこなかったのかと聞いたな?」
「あ゙? あ゙ぁ」
怖いほど真剣なまなざしに、茶化すこともできずただ頷く。
「二人きりになりたかった」
ふだん強欲で、強引で、傍若無人なはずの御曹司は、そんな風に言った。
「誰もいないところで、二人に」
旧世界で、金で手に入れられるものをほとんど手に入れてきただろう男が望むには、あまりにもささやかな願いだと思ったけれど。
「あの時、あの島で、敵を除けばたった二人だった」
すぐに先の言葉が、そんな可愛いものではなかったことを知る。
はからずも千空が朝に考えたことと一致していたが、龍水の述懐にはまだ続きがあった。
「仲間は全員石化していて、絶体絶命の最悪な状況なのにも関わらず――俺はあの状態が楽しかった。嬉しかった。貴様とは違う意味で」
思いがけない言葉に愕然とする。
では、かれは今朝、自分の問いをわざとはぐらかしたのだ。
「貴様が大樹を起こしてから半年間アダムとイブをきどっていたと聞いて、俺はうらやましさで目がくらみそうだった。石化前に貴様に逢っていたらなどと考えたりはしない。だが、最初に起こされたのが俺だったら、とは何度も考えた。何度もだ」
龍水は苦しそうに言った。
――俺は時おり、想像することがある。貴様が一人で生きた半年間と、その後の半年間がどんなものだったのかを。
先ほどの言葉がよみがえる。
皆よりかなり遅れて、一人起こされた龍水。千空がかつて完膚なきまでに拒絶した男。
――俺が今のテメーに靡く要素が一ミリでもあると思うか?
自分はもしかしたら、何もかもを失った男に対してかなり手ひどいことを言ったのかもしれない、と思った。
持たざるものより持つものの方が、石世界で起こされた時の衝撃は大きいはずだ。それに、かれは皆と同じスタートを切ったわけではない。龍水が起きた時、文明はある程度復興し、皆で協力してサバイバルする段階はとうに過ぎていた。
一方、気球や船はまだなかった。かれがその能力や美質を発揮できる機会はほとんどなかったといっていい。そして他の得意分野で活躍しようとすればするほど皆の反感を買うことになり――八方ふさがりになっていった。
石神村に向かうことになって初めて、かれは皆から必要とされたのだ。
そんな龍水が、一度も、
「もしももっと早く起こされていたら」
「もしもこの世界で一からサバイバルを経験していたら」
と考えなかったはずはない。
――これくらいの魚なら俺にも獲れる。サバイバルも可能だ!
――獅子王司であれば、さぞ鮮やかに狩ったのだろうな。
それらの言葉の意味が、今ではなんとなく解る。
原始の世界で、たった二人きり。
そんな疑似感覚を味わいたかったのか。
「だから――あの時間が永遠に続けばいいと思った」
まるで懺悔するように、赦しを請うように、龍水は顔を伏せて言った。
「皆が石化しているのに、俺は――」
千空はそれ以上言わせず、目の前の船長帽を胸に抱える。
「龍水、」
そうしてほとんど久しぶりに、その名を呼んだ。
「テメーはバカだよ」
存外あまい声が出て、こんな声が出せたのか、と自分でも驚く。
「バカだ」
早く出逢いたかったと自分が思ったように、かれもまた、そう思っていた。
だが理不尽な環境と扱いに不貞腐れつづけるのではなく、たゆまぬ努力と自己改革をかさね、今の位置と自分の信頼を勝ち取った。
先ほど宝だと感じたこともあいまって、この男がひどく大事だと感じる。
報いてやりたい、と思った。かれが他に望むものがあるなら、すべて。
ゆっくりと腰にまわされた手を、千空は拒絶しなかった。龍水の気のすむまで付き合ってやるつもりだった。
川風の吹きすさぶ静寂の中、二人はしばらくその体勢を崩さず、彫像のごとく凝としていた。
◇
ひととおり検分が終わった頃には、陽が少し傾き始めていた。
帰り道の悪さを考えると、日が暮れないうちに車に乗らなければまずい。二人は足早に山麓を後にする。
川を下っていくと、向こう岸の森の方に、子ども連れの熊のすがたが小さく見えた。幸いこちらには気づいておらず、足早に通りすぎる。
「さっきの熊か?」
たずねると、龍水は「ああ」と感慨深く言った。それだけで、相手が「殺さなくてよかった」と同じことを考えているのが伝わってきた。
「戻ってきたら、――と――には子供が生まれてるかもしれんな」
しみじみとした声のまま、龍水は公認カップルの名前を上げる。本人たちたっての願いで、出発前に千空が媒酌人として立つことになっていた。
「そうやって増えんのもまあアリかな、今となっては」
最初は復活者同士で望まぬ妊娠や出産が増えないか心配していたが、司や南の選定がよかったのか、なかなかどうして秩序は保たれている。正しいオツキアイの果てにそれらがあるのであれば、千空としては別に文句はない。
「フゥン、千空貴様、目指すべきは『増えること』派か?」
龍水がかれ独特の言い回しで、微妙な質問を投げかけてくる。
軽くジャブを打たれたということはさすがの千空にも解った。眉をひそめ、かねてからの持論を展開する。
「アダムとイブやってた頃から、俺は増やすのが最優先だって言ってきたわ。今は増やさねーと熊にも負けてんじゃねえか、人類」
「熊にも、」
龍水はそう言って絶句すると、熊親子がいた方を振り返る。それから千空の方に向き直って何か言おうとしてきたから、先に口を開いた。相手のペースに乗るのはごめんだ。
「気球に乗ってる時、テメーが『人類が増えるべきかは神しか知らん』みたいなことを言ったのは正直意外だったわ。『世界中の女が欲しい』とか言ってやがるから、てっきり人類増やす派かとよ」
千空にジャブの概念はない。いつでもどこでも、どこまでもストレートである。
龍水はさらに絶句していたが、やがて重い口を開いた。
「……俺は貴様のように『増えるべきだ』などとは言えん。あの時から」
「あの時?」
「気球に乗る少し前からだ」
非常に解りづらい。千空ははっきり眉根を寄せた。
少し考え、答えをはじき出せた気もするが――もしかしたら違うのかもしれない。
「だが七海家では昔から、そんな話ばかり聞かされてきた。世界中に女を作るばかりか、子供を作って自分の血を増やしていくような、そういう欲望はない。血統が一番のはずがない」
苦い口調に、ああ、こんなところにもかれの根深い問題があったのか、と思い当たる。
龍水が御曹司らしくないのは当たり前なのかもしれない。御曹司などという言葉を使うことすら、この男には失礼だったのかもしれない。かれは文字通り、七海家の中で成り上がっていった男なのかもしれなかった。
「だからなのか、生き物が増えようとしているところを見ると、たまに圧倒されることがある」
自嘲するような口調だった。
本人はひどく生命力にあふれた男であるはずなのに、と思う。
少し話しただけで、この男は本当はこんなにも深い。時おり透徹した、静かな表情をするのは、もしかしたらそういう根深さに起因するのかもしれなかった。
一連の話に、千空は感想を言わなかった。目印の岩を下りて河原から獣道に入ると、本拠地の方向を示す。
「日本に戻ってきたらな。あの辺一帯更地にして、大量に家建てて、街にする。で、電気を引く」
「それもあっての水力発電所だな!」
やはり早い理解と切り替えに、少し嬉しくなる。
「あ゙ぁ。そういう未来はお嫌いか?」
世界中の石像を起こし、街を作りまくることに賛成した男が、そんな話を嫌いなわけがない。
それを解っていながらも、ためすように聞く。
「そんなわけがないだろう! いやむしろ――貴様がそういう未来を思い描いて、俺に一番に教えてくれるのが嬉しい」
「ほーん?」
嬉しい、と龍水が言うのが意外だった。
決して否定や反対をせず話を聞いてくれ、欲しいものを同じように「欲しがって」くれる存在をありがたいと思っているのは、自分の方なのに。
この男がまさか、それを喜んでくれているとは。
「千空貴様は、先のことをどんどん話して、次々実現していくから――救われる」
「テメーもそういうタイプじゃねえか」
「俺自身はな。だが、人には家の歴史や伝統など、過去の話をされることが多かった。過去でなければ現在のことだ」
龍水の育った環境は、かれにはよほど窮屈なものだったのだろう。
それに反発し、抵抗し、精一杯自由に振舞ってきたのだろうが、いまだに根強くかれの中を蝕んでいることが解る。
そんなかれにとって、自分がどんな風に見えているのかを想像する。
自分がかれにとって、どんな存在なのかを想像する。
そこまでしたところで、千空はふと違和感を抱いた。
「テメーは先のことも話すが、意外に人の過去も根掘り葉掘り聞いてくるよな。俺の人生めちゃくちゃ喋らされた気ィすんだが」
石神村で暇な夜などはえんえん話をさせられた。石化前まではともかく、ツリーハウス時代、石神村時代、司帝国との戦争はやけに細かいところまで聞きたがった。おそらく、龍水に話していないことはほとんどない気がする。
「それは勿論、知りたいからな」
当然のような顔で龍水が言った。
「何でも欲しがり屋は、何でも知りたがり屋か」
「ああ、俺は貴様以上に貴様の人生を語れるかもしれんぞ! 何冊も伝記を書けるほどだ!」
「何だそれ、怖ぇな。七海博物館の展示物になるからとか言うのかよ」
げんなりして言うと、また微妙な顔をされた。昨夜の愕然とした顔に近い。
嘘だろ、こんなところでミスる話ではなかったはずだ、と内心焦って短い記憶をさかのぼる。
龍水は苦い表情と声で言った。
「それもある。それもあるが――惚れた相手のことは何でも知りたいと思うのが当然だろう!」
しまった、自分限定だったのか、と、思わぬところで藪をつついたことに逆にびっくりして言葉を失う。
さっき微妙なジャブを打っていた男が、こんなところで華麗にストレートを打ってくるとは思わなかった。
「そこで黙るな、失礼なやつだ」
「いや、どういう意味かと思って……」
この場合の「惚れた」はどの意味だ? どういう態度が正しい?
大樹が言う、「男が男に惚れる」というあれか? おありがてえとか言っていればいいのか?
それとも――もしかしてこれは、決定的な場面ってやつなのか?
混乱する千空を見て、龍水は珍しく憂いをあらわにした顔をした。
「人が決死の思いで口にしたのを、なかったことにしないでくれ」
手を引かれ、歩みを止められる。苦しげな声と表情に、後者か、とようやく確信する。
龍水の「惚れた」は、千空が想像していたよりずっと重く、深く、簡単にはかわせないもののようだった。
昨夜までは正直、単なる欲なのだと思っていた。今日一緒に行動して初めて、「案外好かれてるのかもな」くらいになったものの、恋愛ゲームみたいなものかとどこかたかをくくっていた。
自分との間では言葉などいらないはずの龍水が、まさかこんな真っ向から告白めいたことをしてくるとは思ってもみなかった。
「今日一日、何度も何度も想いを告げたつもりなのにちゃかしてくるとは、貴様には何ひとつ伝わっていないのか。悪くない手ごたえだと思っていたが――違ったのか。それとも今度は傷つかないようにとはぐらかしてくれているのか? 断られても俺はずっと貴様のパトロンでパイロットだ。情けは無用だ、まだ貴様のお眼鏡にかなわんというなら――」
「ちょ、ちょっと待て、こっちは初心者なんだ、落ち着きやがれ」
顔を近づけてまくしたててくる相手の胸板を押してなだめる。龍水は口唇をへの字に曲げて黙った。
「あのなあ、俺だってさすがに、コイツ俺に気があんのか? くらい思うわ。でも本気度は初心者すぎて解んねえ。大体テメー、世界中の女が欲しい男っつー触れ込みだったじゃねえか。テメーのふだんの言動が余計解りづらくさせてんだわ。こっちの身にもなりやがれ」
何しろ過去に言われたのが「貴様が欲しい」である。それも、誰かれなしに言っているのをいやというほど聞いている。
龍水がこちらに気があるのは解るが、それと今までの言動はまったく結びつかない。以前と変わりない視線をいまだに感じるし、何度か関係を持てば興味をなくすくらいのものではないのか、とつい思ってしまう。
「俺は惚れたはれたの挙句にこじれてテメーを失うのは嫌なんだ。恋愛脳は俺が一番避けたいトラブルの元だ。俺の人生把握してるテメーなら知ってると思うが」
「無論知っている、何度も聞いた。その上で口説いている。つまらんことで俺と貴様の仲がこじれるわけがない」
こちらの両肩に手を置いて、ひどく真剣な顔で龍水が言った。
「ずっと、信頼できる男、タッグを組むにふさわしい男が欲しいと思っていた。貴様に逢って、この男こそがそうなんだと解り、欲しい、手に入れたい、そう思ったのに拒否されて、別の欲が混ざりはじめた。貴様がそういうものを拒否しているのは解ったが、そんな部分も含めて全部欲しくなった」
目を見開き、愕然とする。
では、「貴様が欲しい」と言ってきた時期、龍水にそんなつもりはなかったということか。
あの時のあっけにとられた顔と、傷ついた顔の意味を今さら知る。
自分は誤解でこの男の心に傷をつけていたのだ――と解った。
罪悪感のあまり口を開きかけると、龍水はおだやかな眼でそれを制した。
「何も言うな千空、誤解される俺に非がある。何より、こてんぱんに拒否してくれたからこそ、今の俺がある。俺は今まで、誰に嫌われようが、何と思われようが、自分が好きなのだからいいと思っていた。だが、それでは嫌だと初めて思った。そして貴様の心にかなうようにと生きてみれば、悪くない自分になった。貴様が評価するだろう美点が自分にもあったことを思い出し、誇らしくなった」
――そういう存在を求めていただろう?
やはりかれの変化は、自分を「手に入れる」ためだった。だが、欲のためだけでは勿論なかった。
千空はほとんど自分を恥じた。
「貴様という人間は、人の悪くない点を最大限引き出してくれる。自然と背筋が伸び、次にするべき行動に背を押してくれるようなところがある。貴様といれば俺は、自分の価値を最大限に引き出せる。やりたいことをやりながらも、まだマシな人間でいられる」
罪悪感と自己嫌悪に苛まされているというのに、自分を賛美する声は止まらなかった。
誤解で拒絶し、傷つけた男をここまでいいように思えるなんて、何ておめでたいバカなのかと思う。
そして――何て愛すべきバカなのだろう、と。
千空がひどくやさしい、見慣れない気持ちになったところで、龍水がラストスパートをかけるように声を高めた。
「貴様がすきだ、千空。俺を選んでくれ。誰にも奪られたくない、俺だけのものにしたい。世界中の人間が欲しいことに変わりはないが、それとこれとは意味が違う。たった一人の人間だけ、こんなに理解したくて、そのすべてが欲しくて、応えてほしいと思うのは初めてだ。ゆっくりでいいから考えてみてくれ」
肩に触れる手首から、相手の動悸が早いことが伝わる。
巨木に囲まれた森の中でも、わずかに差し込む日差しによって、その頬が紅潮していることや、瞳孔が開いていることが解る。
相手が自分を見る熱い視線が恋慕なのだと悟ると、カッとからだが熱くなった。単なる欲だと思っていた時より、もっとずっとインパクトが強かった。
何の効果なのか、こちらまでドキドキしてくる。ゲンがここにいたら腑に落ちる説明をしてくれるだろうか。いやこの場合適当に「いやそれは千空ちゃん、恋だよ」などと言われかねない。
単なる欲なら、害がなければ無視することができた。だが一旦恋慕だと気づいてしまうと、どうしようもなく恥ずかしく、心乱されて、無視できなくなった。
ゆっくりでいいと言われても困る。ふつうに日常生活を送れなくなる。
今この場で――他に誰もいない、世界にたった二人きり、と錯覚するようなこの場で――答えを出してしまいたい。
指を立てて計算をはじめる。こんなことに計算も何もないが、考えをまとめたかった。
あの時のように簡単に切り捨てることはできない。龍水を傷つけるのはもういやだった。
かれにはいつも、自信満々でいてほしい。常に機嫌よく、万全で、磐石でいてもらわなくては困る。
そのために人身御供になるというイメージはない。男同士だと捕食される側だとは思うが、龍水は基本的に紳士で、嫌がることを無理強いするような男ではない。河原でキスした時、違和感や嫌悪感はまったくなかったから、そういう意味での相性は悪くないのかもしれない。
そして――先ほど山麓で、「報いてやりたい」と思ったことを思い出す。
あの時本当に、自分を望むなら応えてやってもいいと思った。だが、あの時はこんな恋慕があることは知らなかった。欲だけだと思っていたのだ。
千空は複雑な感情についてひどく疎い。友情と恋愛感情の境目がどこにあるかもよく解らないし、性欲とそれの境目もよく解らない。
だがこんなに動揺するのは――龍水の恋慕が、どこか神聖なもののように思えるからだ。こういう感情を、何か知っている気がするからだ。
思考の底に沈み、何か糸口がないか探り出す。
――千空、龍水はいい男だぞ!
闇の底で、光のように輝く声。
いつもいつも、千空にとって大樹が光の象徴だった。時には光そのものだった。
――だが。
あの、エールのような言葉。
目の前の男を穴が開くほど見つめる。うす暗い森の中でも、黄金色に輝く気配。決して屈しない、曲がらない、とても強い魂と意思。
もしかしてこの男は、大樹が杠をすきなように自分をすきなのか、と思い当たる。
そうすると――何かが氷解していくような気がした。
大樹のような、という理解に違和感はない。他の人間だと違うように思うが、龍水だと何だかしっくりくる気がする。
龍水は、大樹が認めた男なのだ。
それに、自分がすげなく拒絶したあの時から一年と少し、ずっと想いを秘めて自己改革と研鑽に励んでいたこともポイントが高かった。
「まあテメーがそんな感じなら、確かに面倒くせえことにならずにやっていけんのかもな……」
ため息と共にぼそりと言うと、緊張した相手が更にからだを強張らせたことが解る。
熊をも恐れぬ男が、心配気な面持ちでこちらの出方をうかがっている、そんなところを可愛いと思うほどには。
この男をもう傷つけたくない、絶対に失えないと思うほどには。
胸の痛くなるような笑みではなく、自信満々にいつも笑っていてほしいと思うほどには。
何度も「惚れそう」になっていたていどには。
自分も多分――この男が、すきなのだと思う。
「浮気すんなよ。したら速攻別れる。あるいはこっちもする。それでよければ俺をくれてやる」
「するわけがないだろう、宝を手に入れられたのに――」
骨がきしむほど激しく抱きすくめられ、肩に強く顔を埋められて笑いが込み上げる。
何でも欲しがる男にここまで言わせる恋愛脳、自分と同じ「宝」という表現、手荒い抱擁。
すべてが面白く、「唆る」ものだった。
そして、こんな爆発的な幸福感には覚えがあった。
「俺の身柄を預けられんのは、大樹以外ではテメーだけだ。テメーを信じてる。頼りにしてる。だから、宝島であんなことができた」
あの時の、気の遠くなるような楽しさを覚えている。
「あんなことは絶対、テメーとしか、できねえ」
相手の背に手を置きながら噛みしめるように言うと、「報われるな」と龍水は身を起こして言った。
「あんなに唆る体験をして、貴様の心を少しでも得られたかと思ったのに、起こされたのも後の方だわ、何のねぎらいもないわ、戻ってきたら復活した獅子王司にかかりきりだわ……」
「あ゙ー、悪かった」
珍しく愚痴のようなものを吐く龍水に苦笑する。
そして、だからこのタイミングだったのかと合点がいった。大樹の他に司のことをやけに気にしていた理由も今になって解る。
「司は今の時期ちーっと気ぃつけてやらねえとなあ? やっぱりここは無理だと出て行かれても、誰かに因縁つけられても困んだわ」
「無論解っている。だが貴様が嬉しそうで、司含め全員が欲しい俺も嬉しいはずなのに、やはり足りないと思って――貴様を独占したくなった」
そう言ってまた大切なもののように抱きしめられる。
「そんな時に無防備に夜中に人の部屋に来て、仕事の話だけではなく、欲しいものや足りないものはないのかと聞いてくるから――解っていて挑発しているのかと思った」
そう言われて千空はばつが悪くなる。やはり、あんな風に言うべきではなかったのだろう。
「いや全然解ってなかったわ。そう思えば、昨日紳士だったなテメー」
「何を言う、俺はいつでも紳士だ」
龍水はお得意のへの字の口唇で、むっとしたように言った。
「何度抱きしめたいと、キスしたいと思ったか――」
そう言うと戦化粧した指で頬をなぞり、口唇に触れてくる。ゆっくりと顔の下りてくる気配に、千空は思いきり相手のからだを押しやった。だが、びくともしない。
「待て待て待て」
「待てと言われてこんな時に待つやつがいるか」
「そういうものか?」
訴えかけるように言うと、龍水は困ったように首を傾げた。
「いやか?」
「いやじゃねーが、恥ずい」
「なら、どこならいいんだ、ここに人目はないぞ」
「解ってるが、まだ明るいし」
充分うす暗い森の中ではあるが、木漏れ日が射しているのでそれを見上げて言う。
誰が見ていなくても、他ならぬテメーのお顔が眩しすぎて恥ずいんだわ、とは言えない。
「ならば自然にできて、貴様が抵抗しない時ならいいか?」
聞くなよ、と思いながらも、相手がまじめに考えてくれているので仕方なく頷く。龍水はぱっと笑顔になった。
「安心しろ、何でも無理強いはしない」
「あ゙ー、それを信じられるから、テメーと一緒にいられるんだわ」
「ん?」
「たまに何か、すげぇ目で見てくることあんだろテメー」
指摘すると、龍水は本当に自覚がなかったようで長い睫毛を瞬かせていたが、やがて理解したようで、素直に謝罪した。
「それは――気づかなかったな。失礼した」
「いいけど、そういうとこであんま期待すんなよ。ただのヒョロガリだぞ。何も楽しくないかもしれねーぞ」
「はっはー、安心しろ! 貴様はすべてにおいて魅力的だ!」
「俺はそんなにいいもんじゃねえよ――」
「それを決めるのは貴様ではなく貴様以外の人間だ。そして俺にとっては間違いなく『いいもの』だ。手に入れずにはいられん!」
「おわっ」
片手を肩に置いたまま身を沈めたかと思うといきなり膝裏に腕をかけられ、ひょいと抱き上げられて驚く。
「ちょ、勝手に抱えるんじゃねえっ」
「車までこうやって行こう。この方が早いし楽だろう」
「軽々人を持つんじゃねーよ、テメーはよ!」
とんでもないことを言い出した男に文句を言いたいがろくに言葉が出てこず、一番気に入らないことを言ってみる。この男は気球に乗っていた頃から、どうも気やすく自分をひょいと抱えるから困る。
ぽかぽかと千空が背中を叩いていると、龍水はふたたび顔を近づけてきた。
「いやか?」
相変わらず整っていて、憎らしくなるような精悍な顔である。それが今はとろけるような甘い笑みをたたえていて、どうにもこうにも居心地が悪い。
いやだ、と言えば下ろすのだろうが、こんなに幸福そうに微笑まれては拒否しづらい。
千空はふいっと顔を逸らす。
「テメーは王子を気取りてえのかもしれねえがな。あいにくこっちは姫じゃねーんだわ」
「無論解っている! 俺たちの大事な科学者でありリーダーだ」
「……解ってんじゃねーか」
「だから、大事に運んで行く。怪我したり、筋肉痛で明日動けなくなっても困るからな。姫抱きが気に入らないなら、もっと深く俺の首にかじりつけば体勢が変わるぞ!」
「いいわもうこのままで」
何だか脱力して、千空は抵抗をあきらめる。めでたしめでたしの直後なのだ、これくらい盛り上がっても仕方ないのだろう。いきなりもっと恥ずかしいことを要求されるよりはマシなのかもしれない。
「これから忙しいだろうが、たまにはこうやって二人の時間を持つぞ、千空」
大切そうに運ばれながら頬にキスを落とされ、そんな宣言をされて顔が熱くなる。
「テメー、こっちは初心者なんだからな。ペースとか色々、手加減しろよ」
「ああ、大切にする。約束する。俺は紳士だ。そして案外気が長い!」
「それは今日よーく解ったわ……」
さすがに「大樹を見習って文明復興までは色々待て」と言ったら困るんだろうな、と思いながらも同意する。
何しろ一年と三ヶ月だ。千空は時間をかけた想いや、未来へと楔を打ち続け、コツコツ地道に研鑽を重ねるタイプにとても弱い。
気がつけば今の龍水には、自分が靡く要素しかなかった。そのことに今さら気づいて愕然とする。
腕の中で衝撃を受けている恋人には気づかないまま、龍水は実に嬉しそうに、「それに」と続けた。
「俺は今では貴様の乗るものの操縦権を独占しているからな。これからいつも共に行動できるわけだ。ならば、時間はいやというほどある!」
前向きさしかない考え方に苦笑する。
共にいる時間が多いと飽きたり喧嘩したり別れた後気まずいなど、マイナスなことを一切考えないところはポイントが高い。
キラキラと自信に満ちた顔がとても頼もしく、いとおしく感じた。
「千空、貴様のいる場所が、俺の居場所だ。俺たちは場所も、目的も、未来も、すべてを共有できる」
まばゆい黄金色の予感に、「あ゙ぁ」と言って微笑する。
長い森を抜けようやく辿り着いたスチームゴリラ号Ⅱの上で、千空は相手の首に腕をまわし、自分から二度目のキスをした。
「頼むわ、俺のパトロン兼チートパイロット」
了
2022.03.06pixivへ投稿