TONIGHT
5187文字。
11巻、村に到着した夜の龍千。今夜はどこで寝るのか?というところから始まるお話です。
ブロマンスかな?と思いきや、湯上り浴衣すがたの千空を見て、龍水が初めて何かを自覚し出した気がします。
たとえば千空の、俺を見る眼。
話している時の表情。
呼ぶ声。
それらが少しずつ変化していくのを、自分でも信じられないほどの気長さと寛容さで見守り、歓びと共に受け止めている。
そのやり方は、この世界のわびしい食事を味わうのとどこか似ていた。
貴重なものをゆっくりと、素材の味を噛みしめるように舌の上で転がし、堪能し、咀嚼する。そうすると、旧世界では喉を通らなかったようなものでも美味く、ありがたく感じられるのが不思議だった。
そうするのと、同じように。
めったに俺を気にとめない石神千空という男が、俺に対して垣間見せる興味、関心、求めるもの。それらをひとつひとつ読み解いて、大切にしまい込んで、時おり取り出して宝石を見るように眺めると、ひどく心が癒され、豊かになる気がした。旧世界にいた時よりもずっとだ。
つい先日、石神村の話をされた時。初めて名前を呼ばれて、名状しがたい歓喜が自分を襲った。
名前を呼ばれること。
他愛ない話をすること。
日常を共有すること。
そんなものが歓びになるなんて、と思う。
だが、そんなものこそが尊いのだと、価値があるのだと、石化前のぎすぎすした世界では知らなかった。教えてくれる人もいなかった。
千空に出逢えてよかった――と思う。
自分がそう感じるように、千空にも俺のことをそう思わせ、タッグを組むに値する男だと認めさせなければならかった。
道のりは果てしなく遠く険しいが、相手はそうするだけの価値のある男だと、俺の方ではとうに解っている。
だから石神村行きも、村に滞在することも、共に油田を探すことも了承した。この俺が、無償でだ。
千空は俺の変化に気づいているだろうか。聡いかれのことだ、当然気づいているとして、それをどのように感じているのだろうか。
村へ出発するまでのわずかな間、暇を持てあましていた俺は、そんなことばかり考えて日を過ごした。
◇
「あー、久々に腹いっぱい食った。千空が帰還したってだけですげーな、ふだんと全然違ったぜ」
伸びをしながらクロムが言った。石神村の居住地。その中心に建てられた「新村長の館」で食事を終え、皆が帰路についた後だった。
居間にあたるこの部屋に、俺とクロムの他、千空と羽京が残っている。
女性陣が気をつかってくれたおかげで、宴の残骸は綺麗に片付けられていた。中心にある囲炉裏を囲んで、今夜はここで雑魚寝かと考えていると、思いがけないことをクロムが言った。
「んじゃそろそろ帰っか! テメーも帰んだろ千空」
そういえば、千空はクロムの倉庫の上の部屋、天文台に住んでいたのだと誰かに聞いた覚えがある。
無邪気に言い放つ野生児に、「あ゙ー、どうすっかな」と千空が曖昧な答えを返した。こんな時でも慎重な男だ、と思う。
「羽京テメー、ここに着いてから今までどこで寝てたんだ」
耳の穴を指でいじりながら聞く千空の意図を汲んで、羽京が気づかう笑みを見せた。
「クロムに甘えて科学倉庫でお世話になってたけど、僕はどこででも眠れるよ。確か、ここは以前ゲンが住んでたんだよね?」
「あ゙ぁそうだ。寝床は、二つはあるか。掃除もされてんな。おいクロム、天文台は寝られると思うか?」
「おお? 一回か二回上がったが、別に変わっちゃいねえと思うが――。キノコ生えてたとかは多分ねえと思うぜ」
腕を組み、首をひねるクロムに、千空がげんなりした顔をする。
「何だそれ、不安しかねーな。半年近く放置ってことか。おいテメー、どうする?」
突然話を振られて多少戸惑う。名前を呼ばれないことはいつものことだ。
「俺はこの村に初めて来たからな。特に希望はない。疲労をとるため少しでもましな寝床だと有難いが、村のことは大体聞いている。贅沢は言わん」
「一番ましな寝床だとここだが――」
そう言って一瞬目を伏せた後、千空はクロムに顔を向けて言った。
「コイツ割とデケえからな。上でも下でもどっちでもいいから、明日の夜までに片付けて寝れるようにしてやってくれ。朝早く気球に乗んなら、ほんとはあっちで寝た方が効率いい」
「おう、解ったが、テメーは?」
「今日のところはこっちで寝るわ。久々に村長が戻ったんだ、何か相談あるヤツいるかもしれねえし」
「じゃあ、クロムと僕が科学倉庫、君と龍水がここで寝るってことだね」
羽京が確認するように言う。千空は頷いた。
内心少々驚く。俺はここで寝ることになるのだろうなと思ってはいたが、千空も残るとは思わなかったからだ。何となく、かれは俺と同じ空間で過ごすのを避けそうな気がしていた。
気球に乗ると決めてから打ち合わせは多かったが、千空は一度も俺の部屋に泊まりこむことはなかったし、自分が普段どこを拠点にしているのかすら教えようとしなかった。猫のように私生活を隠すやつだ、と思っていた。
それが、案外そうでもないのかもしれない。
勝手の解らない土地で一人にされると何かあった時困るな、と思っていたから、純粋に嬉しく感じる。
俺の感慨を他所に、千空はてきぱきと明日の段取りを決めた。やがて「じゃあおやすみ」という言葉を残して、クロムと羽京が立ち去る。千空は「おー」とだけ返して簡単に戸締りすると、寝む準備をはじめた。
出発前かれが話していたように、東京の居住地よりもこの村の方が少し生活レベルが遅れているようだ。だがそれゆえにすべてが素朴で、味わい深いものがある。
何を見てももの珍しく、千空の背後に張り付いてよく動く手元を覗き込むようにしていると、かれは振り向かないまま言った。
「テメー、突っ立ってねえで手伝え。あっちの部屋からこれと同じもの取ってこい」
そう示されて隣の物置のような部屋から、厚めの筵と枕のセットを運んでくる。千空はそれに、自分を真似て布のカバーを取り付けるよう言った。
「麻布がまだまだ余ってたから、こっちの寝床も快適にしようと思って持ってきたんだ。違う人間が寝ることがあっても、これ洗濯しときゃ清潔だろ」
「千空貴様、さすがだな! 暑い時期だからこれはありがたい」
喜びいさんでカバーを付け始める。杠が縫ってくれたのか綺麗な縫製で、中にずれ防止の紐も付いている。同じようなものを杠に頼んで既に使っていたが、こちらの方が快適そうだった。
「汗かいたなら、開けっぴろげでよければちょっと歩いたところに風呂があるぜ。お気に召すかは解らねえがな」
クククと笑いながら千空が笑う。かれはもう自分の寝床を設え終えており、物置から戻ってきたところだった。見れば、手桶と麻布を何枚か持っている。
「いや、着いた時水を浴びたからいい。千空、貴様は行くのか?」
「あ゙ぁ、こっちの風呂は温泉水汲んできてるからな。すげえ疲れがとれる」
「フゥン、ならば明日は俺も入ろう」
まだここに馴染んでいないせいか、何となく無防備になるのは避けたい気持ちがあった。疲れて動きたくなかったというのもある。
「テメー行かねえんならこれ吊っててくれ。やり方解るか?」
「これは?」
手渡されたうすい大量の麻布を眺めて聞き返す。俺が今まで目にしたものの何にも似ていなかった。
「蚊帳だ。ここは密閉されてない上、水辺に近いから蚊が来るんだわ。噛まれて寝られなくなるのが嫌なら頑張って吊っとけ。あの辺の取っ手にこの金具付きの紐を結んで、金具に蚊帳の角の吊り紐を結ぶ。吊り紐の長さを調節しながら蚊帳を均等に張っていく。以上だ!」
千空は話しながら、部屋の四方を指して説明する。なるほど、この部屋の梁や柱は何でも吊るせるようになっていて、いたるところに取っ手がある。沢山の袋がそこに結びつけられており、ここでの生活をうかがわせた。
「これも杠に頼んだのか?」
「あ゙ぁ、俺は皮膚が弱いから、去年の夏はえれえ目にあった。これとこれも渡しとくから、蚊ぁ入れねえように気をつけやがれ」
ヨモギの匂いのする蚊取り線香らしきものと、紙を張った古式ゆかしい団扇を押しつけると、用意周到な男はさっさと出て行った。
◇
蚊取り線香を焚いた後、それなりに苦労しながら蚊帳を吊る。千空一人では無理なのではないかと思えるほど重労働だった。
ひと仕事終え、俺もやはり風呂に行こうかと迷いはじめたところでちょうど千空が帰ってきた。ずいぶん早風呂である。
「おー、初めてにしちゃお上手じゃねえか。やっぱ器用だなテメー」
満足気に言いながら蚊帳を見渡す男のすがたを見て目が点になる。
ふだん立ち上がっている髪が濡れて肩にかかっているのが一番衝撃だったが、白い肌に血の色がさしていること、かれが着ているものが浴衣であることも充分俺を驚かせた。
「せ、んくう貴様……」
「あ゙?」
東京にあるものよりはるかにお粗末な灯りの中でも、そのすがたは充分にまぶしかった。
俺は一瞬言葉を失っていたが、やがて平常心を取り戻す。
「――いや、まるで別人だな。見違えた」
「この髪か? 皆に言われるわ。まあでも、すぐ元通りになる」
そう言っているうちにも毛先が立ち上がってきているのが興味深い。
が、新鮮なのは髪型だけではなかった。藍色の浴衣と湯上りの肌の対比が目に焼き付いて離れない。
「その浴衣も、杠が?」
「あ゙ー、蚊帳を頼んだだけだが、蚊帳の中で寝るなら浴衣じゃないと!! ってはりきって作ってくれた」
「フゥン、俺も頼めばよかったな」
実は寝巻きとしてパジャマやバスローブを特注したのだが、浴衣は考えつかなかった。バスローブと似ているといえば似ているが、やはり雰囲気が違う。
「おら、ぼうっとしてないで入るぞ。一瞬で入れよ」
団扇で蚊を払いながら、千空が蚊帳の中に入る。腰を折って続いて入りながら、先に寝床に横たわった千空の無防備なすがたを見て再び衝撃を受けた。
足も、胸元も、はだけきっている。
「なに突っ立ってやがる。蚊が入ってくんだろ、閉めろ」
うながす声に言葉もなく頷いて蚊帳を下ろし、清潔な匂いのする寝床に寝転ぶ。先ほど確認した時、蚊帳の中は驚くほど涼しかったが、今は掛け布団代わりの麻布を被る気にもならないくらい暑かった。
千空が怪訝そうにこちらを見ているのが解る。
無防備にこっちを見るな、と叱りつけたい思いだった。
猫のように警戒して寝場所を教えなかった男がそばで寝むこと自体が信じられないのに、まさかこんな無防備なすがたを晒してくるとは思わなかった。
せめて普段と同じすがたであれば、と思う。そばにいることを許されているのだ、と感じ、無邪気に喜べたかもしれない。
今の自分に邪気がないとは到底言えなかった。
ため息をついて背を向ける。これ以上何も考えないうち、しでかさないうちに、早く寝てしまうに限った。
「お疲れだな、テメー」
苦笑混じりの声が響いたかと思うと身を起こす気配がして、蚊帳の中の灯りが消された。出入口に一つ灯りをつけているから真の闇ではなく、ぼんやりとした薄闇になる。
「おやすみ」
背後で再び横たわった気配がした後、千空がおだやかにそう言った。
何となくかれはそんな挨拶をしない気がしていた俺は、少々驚きながら同じ言葉を返す。
「ああ、おやすみ」
その言葉を交わすのは嫌いではなかった。日常を共有している気分になるからだ。
旧世界では寝む前に執事がよくその言葉をかけてくれた。この世界では皆がそう声をかけてくれたが、この距離感では初めてのことだった。
それも、あの千空の方から。
静かに、ふつふつと、感情の水位が上がっていく。滅多にない経験だった。むしろ初めてと言ってよかった。
旧世界では金で手に入るものは何でも手に入れてきた自分だったが、本当に欲しいものは得られなかった。拒まれてばかりいた。
――それが。
手に入った、気がした。
今度は細く長いため息をつく。満足の吐息だった。
その理由が解ったはずもないのに、薄い闇の中、千空が笑う気配がする。
振り返って手を伸ばし、その肩に触れて顔を見たい、と思う。
手を伸ばせばたった一間。
だが、まだその距離を縮められる気はしなかった。だがいずれは隙間をなくし、ゼロにする。そう強く念じる。
金にあかせて強引に手に入れるのではなく。欲しいと叫び続けるだけでもなく。
一歩一歩こうやって手に入れていくのも、存外悪くはない。
今夜手に入れたものの感触を堪能しながら、次に手に入れたいものを考える。
「おやすみ」という言葉の次は、もっともっと、あたたかいものが手に入るように。
相手の感情の水位も上げられるように。
きっと俺ならできる。そう言い聞かせながら、急速に訪れた睡魔に身をゆだねてゆく。
初めて大事な人間の気配を感じながら眠る贅沢は、他にたとえようがないものだった。
了
2021年11月11日 pixivへ投稿 龍水生誕記念