司千

CAN YOU CELEBRATE?

30548文字。
コールドスリープから復活した当日の司千。お約束の診察あり宴あり同衾あり。
様々な人々と司をお話しさせて、千空が自分では言わなさそうなことを言ってもらいました。
千空が見せる「我がもの顔」に司が照れ、その意味を考え、段々慣れていくお話。司生誕記念。




 この表情を見たことがある、と思った。
 松風という青年と手合わせして「強い」と感じ、かれを振り返った時のことだ。視線を感じ、翡翠色の髪の方に視線を走らせた。特異な髪の下に見えたのは、意外なもの――自分には決して向けられるはずのない表情だった。

 ――千空はたまに、俺のものだ、っていう顔をして大樹を見るよね。

 ツリーハウスでの何日目だったか、面と向かって指摘したことがある。大樹がものを食べている時、立ち働いている時、何かに感嘆している時、かれを見る千空の眼差しや表情が、あまりにも露骨だと感じたからだ。
 本人は全く無意識だったようで、柘榴石に似た瞳が大きく見開かれたのを覚えている。

 ――半年間一人でいた君は、まず大樹の復活を望んだんだろう。そんな絆が、うん、とてもよく解る顔だ。

 確か、そう付け足したと思う。
 「俺のものだ」とはいっても、支配欲とはほど遠い、親が子をいつくしむような、どこか満足気な、微笑を含んだ表情。それを向けられる大樹がひどく妬ましいと感じ、そんな感情が湧いたこと自体に驚いた。
 何故妬ましいと感じたのかはすぐに解った。自分はそんなものを向けられたことがなかったからだ。同情や欲望からくるものではない、うとましさの混じっていない、真の慈愛の眼差しを身に受けたことなどなかった。

 ――気持ち悪ぃ言い方すんじゃねえ。

 千空はそう言って話を断ち切ったが、俺の前でそんな表情を見せることは一切なくなった。停戦以降、冷凍睡眠までの期間にも見たことはなかった。
 もう忘れたと思っていたそれが自分に向けられていると気づいた時、感じたのは感動でも歓喜でもなく、意外にもひどい羞恥と後ろめたさだった。笑みを返すことは勿論、目を合わせることもできなかった。
 大樹は随分太い神経をしているのだな、と一瞬考え、いや、これは自分の問題かもしれないと思い直す。千空のあんな表情を受け止められず、いたたまれない思いをしてしまう自分は、やはり科学王国にはふさわしくない、後ろ暗い存在なのだろう。

「んだよ司、超完全復活じゃんヤバすぎるっしょ! やっぱ千空殺すわとか悪りーこと言ー出したら、警察のこの陽君が銃で止めてやっけどよー!」

 少し離れた場所で、陽がそう言っているのが聞こえる。震える手に握られているのは、まがいもなく拳銃だった。ついに千空は銃を作ったのだな、と考えながら、自分の所見を吐く。
 冷凍睡眠前、俺は千空に「目が覚めたあかつきには、好きなように俺を使ってくれていい」と誓った。その言葉に偽りはない。むしろ、かれの役に立ちたいと考え続けている。
 だがやはり、自分を受け入れられない人間がいて、自分もまた違和感を抱くのであれば、無理に皆の輪の中に入る必要はないだろう。見れば今すぐ宇宙に行くわけでもないようだし、呼ばれた時に合流する傭兵のような存在でいいのかもしれない。
 それまでは全国を旅して――などと考えていると、鶴の一声が響いた。

「あ゙ー、いいからそういうの。しちめんどくせえことは後でハゲるほど考えりゃいいじゃねえか。放っときゃ人類ブチ殺されんだぞ」

 千空の表情は先ほどとは一転、拗ねた子供のようなものになっていた。慈愛の面差しはどこへやら、駄々をこねるような態度に、思わず苦笑しそうになる。倫理観も仲間の意見も無視して自分を望む台詞に、今度はすなおに喜びが湧き上がる。
 大樹も同意するようなことを言い、結局ゲンの機転で、俺の科学王国入りは正式なものとなった。
 千空は確かに、「誰にも文句を言わせない体制」を作り上げたようだった。

       ◇

 ほとんどの荷物はかれらの乗っていた船にあるということで、浜辺に連れていかれ、そこにたたずむ機帆船を見た。
 雄大で優美なペルセウスは、人類の努力と科学の結晶のように思えた。原始の海に浮かぶそれに嫌悪を抱くことはなかった。むしろ、美しいと思った。この船で航海し、冒険の果てに石化装置と復活液を得ることができたのだと聞いて、感謝の念すら湧いた。

「肺の音、異常なし、見た目も異常なし。おし、ちーっと時間はかかったが、苦労が報われたわ」

 船内にある医務室で自分を診察しながら、千空がまたあの表情を見せる。
 至近距離のそれを避けることもできず、俺は無理やり顔面を凍らせ、湧きあがる羞恥と後ろめたさに耐えた。

「――約一年半か。皆の時間を奪ってしまって、すまない」
「石化装置の謎はどうせ解かなきゃなんねえし、テメーだけのためじゃねえわ。一年半のほとんどは船作ってたようなもんだしな」
「そうなのか」

 この船がどれほどの努力で作られたのか解り、改めて感嘆する。周囲を見渡すと、千空はにんまりと笑った。

「おお、石油見つけるだけで一苦労だったわ。その後は冬でペース落ちるし、鋼鉄エンジンがヤバかった。逆に、出発してからは早かったぞ。半月もかかってねえ。色々ラッキーだったっつうか、テメーも悪運が強えわ」

 胸板をドンと拳で突かれ、今度は眩しいくらいの笑顔を向けられる。

「ん、診察終わり。でも凍ってる奴を石化して復活させた例はねえからな。違和感あればすぐ言えよ?」
「問題ない。というか、うん、古傷も全部治ってすごく調子がいいよ」
「霊長類最強様が絶好調とはおありがてえ」

 ククク、と笑いながら見上げてくる千空の台詞も眼差しも、自分を「我がもの」扱いするそれで、くらりと目眩を覚える。
 かつて敵対した男にそう思われるのがいやというわけではない。むしろ快いと感じる自分の感覚に戸惑い、そして、千空の感覚に戸惑うだけだ。
 自分の行いどれ一つとっても、かれにこんな眼差しを向けさせる理由になるものは見当たらない。むしろ惑わせ、傷つけ、巻き込んで、罪悪感と義務感を一方的に植えつけて――俺の存在は、かれにとっては災厄そのものだと思われるのに。

「何つー顔してんだよ。調子がいいならそういう顔しやがれ」

 おそらく形容しがたい表情をしていたのだろう、千空が呆れたように言った。

「すまない。正直起きてからずっと、どういう顔をしていればいいのか解らないんだ」
「テメーはどっかのヒロインか」

 ぶはっと噴き出した千空は、そのまま椅子の上で腰を折って笑い始める。意味が解らない。
 そういえば、童話などのヒロインは、助けられた直後どんな顔をしていただろう。感動の涙を流していただろうか。嬉しそうにしていただろうか。不思議と思い出せない。
 人は本当に救われた時、絶体絶命の状況から助け出された時、すなおに喜ぶというより、感動するというより、まずは戸惑うのかもしれなかった。

「フツーにしてればいいんじゃねえの。つっても、テメーのフツーがどういうのか解んねえが。最初に起きた時から含み笑いだったし、途中で怖え面になったし、冷凍睡眠前は辛そうな顔だったしな」

 言いながら手を伸ばし、無遠慮に頬に触れてくる千空に驚く。かさついた指が口唇や首筋に触れそうになってぞくりとする。
 かれはこんなに距離感の近い男だっただろうか。つい今しがた触れられていたのは、診察のためだ。顔に触れるのはそれとは意味が違う。
 いや――冷凍睡眠前の診察では顔にも触れられていた記憶がある。だとしたら今のも診察の一環なのか。あるいは、冷凍されている俺の様子を見に来る時、いつも顔をさわって変化がないか確かめていて、その癖が抜けないのかもしれない。
 混乱する俺をよそに、千空はいたずらっ子の表情で、驚くようなことを言った。

「ヒビのないテメーの顔初めて見たけど、かなり印象変わるな。若返ったつううか、険がなくなったつうか、ただの美女だな」

 かれ以外の人間が言ったら眉を顰めるような表現だ。だが千空の場合、そんなたとえをすることが意外すぎて、腹も立たない。
 人の美醜に興味などないはずだが、その実かれはとてもよく人を観察し、外見にも内面にも細かい判断を下している。千空の分類では、俺の容貌は美女の部類に入れられるのだろう。

「ただの美女はひどいな。でも、この戦化粧だとまた険があるということかい?」

 なるべく描きやすく、威圧感の出ない線にしたつもりだったが、失敗しているのだろうか。
 未来の他にも科学王国には子供がいたはずなので、気になって聞いてみる。千空は俺に触れていた指を引っ込めると自分の顎に当て、首を傾げた。

「いや――何か、物憂げになったつうか」
「物憂げ」
「その化粧のせいかどうか解んねえが。何か悩んでるか、心配事があるように見える。科学王国に入んの――やっぱいやだったか」

 ずばりと言われて瞠目する。かれらしい直截さなのに、声のトーンはいつものかれらしくなかった。「無意味な話は、ダメなのか」と聞かれた時のことを想起させた。

「違うよ」

 目を合わせられないまま、まずは明確に否定する。そうしなければならない気がした。
 静かに訴えかけるような、迷うようなかれの尋ね方には、まだ慣れない。

「違う。いやなんじゃなくて――戸惑ってるんだ。復活したことそのものにも。まだ、思考が追いつかない」
「ほーん」
「それに俺は元々表情豊かな方じゃないしね。だから、ヒビや化粧に印象が左右されるのかもしれない」

 言い訳じみた俺の言葉を聞いて、千空は目を閉じ、「ま、素がそれならしゃあねえけど」と言って立ち上がった。
 だから、次の言葉を発した時の表情を見ることはできなかった。

「――何か、俺ばっか浮かれてるみてえだな」

 散らばった声のわびしいひびきに思わず立ち上がる。かれはもう歩き出しており、扉を開けようとする後ろすがたが目に入った。
 細いなで肩とうすい背中が、ひどく疲れているように見えた。

「せっ、」
「あーっ、やっぱりここにいた♪」
「ぐえっっ」

 出て行く前に捕まえようとダッシュした俺と、扉の向こうに立っていたゲンに挟まれ、一瞬サンドイッチの具状態になった千空が、潰れたカエルのような声を上げる。

「だ、大丈夫か千空、すまない」
「あ゙ぁ、びっくりしただけだ。ゲンテメー、ノックくらいしろ」
「メンゴメンゴ~~。ていうか、しようと思ってたら千空ちゃんが出てきたんだよね。それよりさー、今夜のお知らせ。千空ちゃん司ちゃん、夕方になったらレストランフランソワに来てね。簡単だけど慰労会と、司ちゃん復活祝いをするよ~~♪」

 ゲンが両手を広げ、意気揚々と言う。長い袖から、連なった旗でも出てきそうな陽気さだ。
 俺は先ほどの陽の態度を思い出し、戸惑いを覚えた。

「復活祝いの方は、うん、遠慮するよ。俺のことはいいから、帰還した皆で……」
「絶対、それ言うと思ってた♪ お祝いでもあるけど、帰還した俺たちと残ってたメンバーの情報交換会でもあるの。司ちゃんも、自分が凍ってた間にあったこと聞いておいた方がよくない? 今夜はみんなが色んな報告するから、色んなこといっぺんに知れるよ~~♪」

 現状を把握することは、生きていく上で一番の基本だ。有能なメンタリストは俺の習性をよく知っていて、それを利用する。

「それに司ちゃんには、もし元気だったら、狩りでお肉獲ってきてくれたら嬉しいな~~って。フランソワちゃんはじめ、皆期待してるんだ♪」
「フランソワ……?」
「今じゃね、三ツ星レストラン級の腕を持つシェフがいるの! 素材さえあれば、みんなひっさびさに充実したごはんにありつけるんだけど、やっぱそんな無理はまださせられないかな~~?」

 すがるような目を向けられ、演技だと解ってはいるものの、思わず首を傾げて「無理ではないけど――」と返してしまう。それから、何となく千空を横目で見る。かれは参加するのだろうか。
 科学王国の長は腰に手を当てため息をつくと、一気に言った。

「あ゙ー、体に違和感ねえなら、司は肉獲って未来連れて参加しろ。今後のためにもその方がいい。でも、俺は遠慮するわ。石化復活直後のお元気いっぱいなテメーらと違って、疲労困憊してんだよ。少しでも早く寝てえ」

 間髪を入れず、ゲンが「それも言うと思ってた~~!」とテンション高く説得にかかる。

「解ってる、千空ちゃんだけがゴイスー疲れてるの解ってる! だから一瞬、長として乾杯の音頭とるだけでいいから! 寝落ちしちゃったら俺が運ぶからさ~~!!」
「テメーに俺は運べねえだろ。運ばれたくもねえが」
「じゃあ司ちゃんか大樹ちゃんに運んでもらうから! ねえ司ちゃん、いいでしょ!?」
「いや論点そこじゃねえ。誰にも運ばれたくねえ」

 俺が返事するよりも早く、千空が耳を掻きながら言う。
 先ほども感じたが、かれは本当に疲労困憊しているのかもしれない。千空だけ石化しなかったというような言い方だから、他の皆にはない長旅の疲れがあるのかもしれなかった。

「ゲン、俺は構わないけど、千空はこう言ってるし、本当に疲れてるみたいだ。原因はほぼ俺なんだろうし、早く寝てほしい気もするな」
「だから別にテメーのせいじゃねえって。石化装置もプラチナもどうせいるもんなんだし、今手に入ってラッキーだったつうの」

 ゲンに向かって言った台詞は、ゲンよりも千空に響いたようだった。かれはガリガリと頭を掻くと、もう一つ大きなため息をつき、あきらめたように言った。

「あ゙ーもう、一瞬だけ出るわ。ゲンテメー、上手く言ってすぐ退場させろよ」
「オッケー! 任せてー♪」

 かれらの会話は当意即妙、かつノリが軽い。かくてゲンの思惑通り、俺と千空の宴への参加が決定した。

       ◇

 「レストランフランソワ」とはいってもそれは名ばかりで、てっきり車座で焚火を囲むような宴だと思い込んでいた。
 だが、広場には看板とのれんを出した小屋が建てられており、その前にはたくさんの低い大きなテーブルが並べられている。椅子こそそろってはおらず、ほとんどが石材に筵を敷いたようなものだったが、ビアガーデンかフードコートを思わせる光景が広がっていて驚いた。

「すごいな、広場にこんなものができてるなんて」
「あ゙ぁ? 何か思い出の場所だったか? 悪いがガンガン色んなもん建ててるわ」
「別に思い出はないし、俺のことは気にしなくていいよ」

 確かに見渡せば、拠点にしていた巨大建設物の周囲には、様々なものが建てられている。ほとんどが住居や工房、炉や倉庫のようだったが、千空によるとちゃんとした浴場や、娯楽室のようなものまであるらしい。
 俺は千空と共に、ステージに近い、皆を見渡せる席に座らされている。椅子のせいか他より少し高い位置にあるテーブルの対面には、石神村の元村長とその娘の巫女が座っていて、ここは「長席」と呼ばれているようだった。ステージで司会進行をしているゲンの席も用意されているようだ。
 一通りの口上が終わり、千空が簡単に乾杯の音頭をとって宴が始まった。だれが給仕しているのか、またたくまにテーブルの上に料理が並べられていく。
 さすがに焼いた肉や野菜などが中心だが、きちんと味付けされており、バーベキューのようなものではない。新鮮な魚介やサラダにも、酢やオイル、柑橘類を使ったソースやドレッシングが和えられている。具沢山の煮込み料理やパン、ワインやそれを炭酸で割った酒などもあり、一瞬、ここが原始の石世界であることを忘れそうになる。
 旧世界でもあまり口にしたことのないような「まとも」な料理を頬張りながら、自分がこの広場で皆と焚火を囲み、粛々と原始的な食事を採っていたことを思い出す。あれはあれでいいものだったが、たとえばそこに未来が復活したとして、すぐ隣のテーブルで友達とはしゃいでいるようなすがたは見られなかっただろう。
 皆が食事や酒を楽しみ、会話を楽しみ、冒険や一日の作業の疲れを癒している図は、悪くないものだった。

「どーお司ちゃん、フランソワちゃんのお料理、楽しんでる?」

 ステージでマジックを披露していたゲンがはす向かいの席に着く。俺の対面にいるコクヨウという男の隣だ。

「うん、さすが三ツ星レストラン級だね。まさかこの世界で、こんな豪華な食事ができるとは思わなかった」
「でっしょ~~? 凄いのよフランソワちゃんは! あっ、牡丹肉リエット!! これジーマーでマイウーなんだよね~~」
「リエット? この香りは、トリュフ……?」

 薄いパンを添えられた、香りゆたかなペースト状の肉を眺め、すごいな、と心底感嘆する。
 トリュフは偶然見つかったわけではないだろう。豪華な料理を作るため、わざわざ探したはずだ。フランソワという料理人もすごいが、この石世界でそんな余裕のある体制を敷いている千空が何よりもすごいと思った。俺なら、料理人にトリュフを探したいと言われたらどうしただろう。そもそも料理人を復活させるという発想自体がない。

「千空、君は割と、食べることが好きだよね」

 隣でワインを呑んでいる千空に問いかける。そういえば、ツリーハウスでもかれは色々工夫して調理していた。かれと――食べっぷりのいい大樹も――とる食事はいつも美味で、そして楽しかった。

「飯は科学だし、美味ければ美味いほどメンタルも作業効率も上がるからな。今までさんざん試行錯誤してきたとこだわ」

 科学者かつ統治者である男は、グラス越しにニッと笑うとそう言った。

「そうそう、俺もラーメンとコーラで落ちたようなものだし~~」

 ゲンがへらへらした声で言った後、はっと口を押さえる。つまり俺は、ラーメンとコーラで裏切られたということだ。ふつうに面白いと感じて、自嘲ではない笑みが思わず口元に浮かぶ。
 皆がこちらを注視しているのが解る。何だろう、気遣われたのだろうかと思ったところで、千空が、

「やるじゃねえかメンタリスト、テメー」

 と爆笑したから驚いた。ゲンが「え、え、何?」と慌てている。見れば目の前の元村長親娘も笑っており、何となく座の雰囲気が和んだ気がした。

「そ、そういえば司ちゃん、ゴイスーな量の食材ありがとね。凄腕シェフがいても、食材が揃わなかったらこんなに豪勢にはできなかったよ。司ちゃんが大量に獲物とってきてくれたおかげよ。みんな感謝感謝~~」

 落とした分を上げようと懸命に俺を気遣うゲンに同情したのか、周囲から拍手が湧きおこる。

「起き抜けにすまんな司ー! でも来てくれて助かったぞー!!」
「ハッ、私たちとはまるで獲る量が違ったな」

 一緒に出かけた大樹やコハクが、狩りでの俺の様子を皆に話して聞かせている。

「司はここを治めていた時も、『絶対に皆を飢えさせない』って言って、冬でも一人で遠出して獲物を獲ってきてくれた。今後どんな国に行ったとしても、本当に頼りになる男だよ」

 奥の席で羽京がそう言い、周囲から賛同の声があがる。

「はっはー! 傾国の美女のような顔をして、やるな司貴様! さすがは長だった男だ、欲しい!!」

 羽京の隣でそう言って指を鳴らした男は、ペルセウスの船長で、確か龍水という男だ。派手な見た目で、言動も村人とは思えなかったから、浜辺に向かう道すがら千空に聞いたのだ。俺が眠っている間に起こした数人のうちの一人らしい。
 「傾国の美女」も「欲しい」もどうかと思ったが、俺の代わりに隣の南が「失礼でしょ!!」と怒ってくれているし、とりあえず好意的には思ってくれているようなので、言葉を返す。

「家族や仲間を飢えさせないっていうのは――うん、俺の昔からの習性のようなものなんだ」
「男らしいな貴様! ますます欲しい!!」
「うむ、本当に見上げた男だ。うちの娘によると、猪より速く駆けて前に周り込み、徒手空拳で仕留めたという。脚力腕力胆力ともすさまじい。あの時我々が束になってもかなわなかったはずだ」

 向かいに座るコクヨウが、威厳のある声で龍水に応じる。俺はかれと直接戦ってはいないが、奇跡の洞窟前でのことだろう。「あの時は――」と詫びかけると、「いやいや、過ぎたことだ」と手を振った。

「こちらこそ蒸し返してすまない。千空が自ら助け、復活させた人間だ。今さら遺恨のあろうはずがない」
「かたじけない」

 この年代の男にいい思い出はない。元村長なのだから既得権益者とも言えるだろう。だが、コクヨウの持つ重厚で高潔な雰囲気と、子供と同世代の千空を信頼している様子を見ると、旧世界の人間たちと同列に考えてはいけないと感じる。
 概して、千空のいた村の人間たちは素朴で善良で、大人も子供もそのあたりに変わりはないように見えた。たしか千空の義父と、その同僚の宇宙飛行士たちを祖とした村だったな、と冷凍睡眠前に聞いた話を思い出す。思わず隣を見ると、千空がまたあの表情でこちらを見ていた。
 こんな衆人環視の中で我がもの顔をされているかと思うと、復活直後とは別の意味でもいたたまれなくなる。俺は大樹に向ける千空の表情をそう解釈したのだから、同じことを誰かが感じてもおかしくない。

「君は何でそんなに満足気なんだい」
「テメーがお行儀よく年かさの人間と喋ってやがるわ、と思ってよ」

 いたたまれずやんわり指摘すると、ニヤニヤ笑いながらそう返された。俺が若者以外とどう接するのか、かれなりに心配していたのかもしれない。

「カセキとも話してたじゃないか」
「おー、そうだったな。カセキは何か、テメーのこと気に入ってたな」

 そう言われ、少し離れた席で景気よく酒樽を干している老人に目を向ける。冷凍睡眠前、かれは医者がわりの千空の助手役で、寝たきりの俺の面倒を本当によく見てくれた。同年代の人間には頼めないことや聞けないことでも不思議とかれになら言うことができて、そんな自分もいたのかと驚いた記憶がある。
 「いつでも統べられる、殺せる」。そう侮って、ある意味人間扱いしていなかった村人たちだった。もしも千空が死んでいて、送り出した氷月が村を制圧していたら、俺はかれらと心を通わせることはできなかっただろう。虐殺や略奪をすることはなくても、その人権を踏みにじり、生活を脅かすことになっていただろう。
 人が人に対して残酷になるのも、敬意を抱くのも、もしかしたら紙一重の差なのかもしれなかった。
 ――千空がいなければ。
 俺は、人間ではない何かになっていたのかもしれない。

「――司」

 よくない考えに陥りかけていた俺の名を、千空が呼ぶ。
 かれが俺を呼ぶ声音は、いつもひどく甘く、やさしい。戦いのさなかであってもだ。四六時中聞いていたいような中毒性がある。

「司、」
「ああうん、すまない」

 恐らく千空のことだ、俺の胸中に湧いたものを読み取ったのかもしれなかった。
 赤い眼に、なだめるような色がある。かれこそ疲れているだろうに、早く退席したいだろうに、皆の前で俺が自己嫌悪に陥らないか、気にかけてくれているのかもしれなかった。

「未来がテメーと喋りたそうだぜ」

 顎をしゃくるので右のテーブルを見れば、未来が心配げにこちらを見ている。
 すぐ隣に妹を配置してくれたのは、席を決めたゲンの配慮だろう。その向かいには南、龍水を挟んで羽京と、俺をよく知る人間が近くに配置されている。

「おら、詰めてやるから来いよ」

 千空が左端に寄って手招くと、未来の顔が輝いた。スイカの皮を被った隣の少女に挨拶すると、自分の皿とグラスを持っていそいそとこちらのテーブルにやってくる。

「いしし、来てもた」

 妹のために左にスペースを詰めながら、俺は千空がこれをきりに席を立つのではないかと思っていた。だがかれは何かと未来に話しかけ、自分のいなかった間のことを確認している。俺の知らないうちに、かれらは冷凍庫の管理などで絆を深めていたようだった。
 二人が話しているすがたは新鮮で、俺は料理を口に運びながらそれを見聞きするのを楽しんだ。

「――ゆうてもそんなに日にち経ってへんやん」
「あ゙ー、電光石火だったな」

 千空がこともなげに言う。先ほど銀狼という少年も言っていたが、本当に最速で帰ってきてくれたのだろう。有難いことだと思う。

「スイカちゃんおらんくてちょっと寂しかったけど、南さんやルリさんがようしてくれてん。フランソワさんもおらんから、みんなでお料理したりして……」

 未来に聞くと、調理のかたわら給仕にもいそしんでいる機敏な金髪の人物が、フランソワというシェフだという。

「千空さん、私フランソワさんにもっとお料理習いたいわ。パンとかお菓子の作り方は習ってんけど、まだうまくでけへんねん。この葡萄のジュースだってフランソワさんが作る方がずっと美味しい。美味しいもの一杯食べたいし、兄さんにも食べてほしいし、だから次出発するまでに色々教えてもらおうと思ってんねん」

 炭酸で割ったジュースのグラスを大事そうに抱えながら未来が言った。具体的な目標を妹が口にするのを初めて聞いた気がして、感慨深くなる。

「おー、いいんじゃねえの。わたあめ屋は休んでいいから、フランソワ手伝って色々教えてもらえ」

 耳をいじりながら千空が言い、未来は笑顔で礼を言った。どうやら妹はわたあめ屋をしていたらしい。

「兄さん、すごいご馳走期待しててな。この世界、美味しいごはん作れるようになったら、もっともっと楽しなると思うねん」
「うん、料理ができるようになったら何があっても困らないね。未来を残して旅立った後も安心だ」

 頭の上にぽんと手を置くと、未来は口唇を尖らせた。

「もう、そういう話と違うし。兄さんはいつも真面目やなあ」

 この原始の石世界で、食材の選別・調達から、調理・保存まで一人でこなせるようになれれば、何が起きても安心だと思って言ったのだが、彼女の意図とは違ったらしい。

「私な、みんなよりちょっと遅れて復活して、ラッキーやと思ってんねん。千空さんが既に色々作ってくれてて、みんながいて、前みたいにはいかへんけど、お風呂もトイレもあるし、お布団で寝れるし、ごはんも美味しいし。何もない森の中とかで原始時代みたいな暮らしやったら、いくら兄さんおっても私、無理やったかもって思う」

 それはそうだろう。たとえ何かの偶然で、自分たち兄妹だけが五体満足で復活できていたとしても、幼い妹をここまで快適に過ごさせてやることはできなかったはずだ。未来が弟ではなく妹だから余計にそう思う。泣く未来と、途方に暮れる自分のすがたが簡単に想像できた。

「千空に感謝だね」

 向かいに座るコクヨウの娘と話し出した千空を見ながら、心からそう言う。現金だとは思うが、未来が復活した今では、やはりそう言わざるを得ない。

「――ほんまに。聞いてんけど、復活した女の人たちは、みんな最初、大変やったって。杠さんが布や服作れたし、石鹸とか歯磨き粉とか塗り薬とか、千空さんに作り方教えてもらってたから何とかなったって。千空さん、口悪いけど、友達多いし人望あるし、女の子のことも解ってるし、ほんますごいと思う」

 俺の視点では知りえなかったことを未来の口から聞いて少し驚く。南を起こすと決めた時、杠からさんざんうるさく言われたものだが、ようやく合点がいった。俺は女性陣に、特に負担を強いていたのかもしれなかった。

「あ、兄さんを悪く言ってんのとちゃうで。千空さんがすごいって話」
「ああ――解ってる」

 言わずもがなのことを言う妹に苦笑し、瞑目する。

「千空は、すごいんだ」

 ――すごいのに。
 復活直後から俺を警戒し、殺され、再び敵対したのに。思想の違う俺に手をさしのべて助け、ついには復活させた。
 俺が死んだら七十億人を復活させるその代わりのように思えて嫌だったのか。世界中の人間を救いたい千空としては俺もその中の一人ということか。本当に月にいるという敵と戦わせるためなのか。それとも案外、未来のためだったのかもしれない。
 千空の気持ちを推しはかろうとするなど詮ないことだ、と思う。かれに助けられたのだから、後の人生はかれに感謝して、理想を擦り合わせて、なるべくかれの邪魔にならないよう、できる限りかれのためになるよう生きるだけだ。
 だが、俺を見てとても満足げにしているかれを知ってしまうと、ひどい羞恥と後ろめたさの他に、込み上げてくるものがある。俺を起こした理由を、その意味を、もっと掘り下げて探したい、と思ってしまう。

 ――何か、俺ばっか浮かれてるみてえだな。

 あの言葉の意味を、とことんまで問い詰めたい、と願ってしまう。
 そうすることは――寝た子を起こすようなものだと解っているのに。

「兄さん?」

 思考に沈みかけた俺を気にしてか、未来が俺のマントをくいくいと引く。

「兄さん、私な。ここでめっちゃ色んな人にお世話になってんねん。兄さん守ってもらったり復活してもらったりとかもやけど、私自身がみんなによくしてもらえて、色んなこと教えてもらって、すごい今楽しいねん」
「うん」
「色んな人にお話聞いて、考えてんけど、」

 未来の大きな目に、懇願と決意のようなものが浮かんでいるのが見えて、これは、と一瞬身がまえる。

「兄さんも色々考えたんやと思うけど――せっかく助けてもろてんし、これからはみんなと仲良くしてな? もうあんまり怖いことや難しいこと、考えんといてほしいねん」
「――!」

 ある程度は覚悟はしていたが、直球すぎる言葉に思わず絶句する。
 衝撃のあまり、周囲の声がかき消えた――と思ったら、近くの人間は本当に話すのをやめていたようで、静まりかえった場に少々困惑する。

「ククク、未来テメー、やるじゃねえか!」

 隣で千空が顔を伏せ、肩をふるわせて笑っているのが解る。顔は見えないが、おそらく、ものすごく悪い表情をしているはずだ。

「いやこれはまた、一本とられちゃったねえぇ?」
「きょうだい仲がいいのは、微笑ましいかぎりだな」
「未来ちゃんはとってもいい子ですよね~~」

 向かいの席のメンバーが、三者三様、しきりに頷きながら俺に向かって慈愛の目を向けてくる。千空の笑いはますますひどくなり、俺は半ば頭を抱えながら目の前のグラスをあおった。

       ◇

 それからはもう無礼講だった。
 こちらのテーブルには入れ替わり立ち替わり人が来て、俺や千空の肩を叩き、グラスに酒を注いだ。
 座が乱れ始めたので、未来は早々にスイカと寝床に行かせる。久々に会った彼女らも積もる話があるらしく、ルリというコクヨウの娘に連れられ、楽しそうに去って行った。どうやら彼女たちは、女性だけの家に一緒に住んでいるらしい。
 少し寂しくはあるが、妹の成長と自立ぶりを見た後だけに、自分だけ恋々としてもいられない。
 そういえば俺はここでどうやって暮らして行こう、今夜はどこで眠るのか、などと考えていると、

「いやほんと良かったよねえ千空、僕も死にかけた甲斐があったよぉ」

 兄弟戦士の片割れ、銀狼が千空に酒を注ぎに来た。その後ろには松風が控えている。

「銀狼貴様は石化してただけだろうが!」
「いや、こいつが得た情報があったからうまくいったところもあるからな。大体銀狼とコハクが石化されなかったら、石化装置の情報は得られなかったわ」

 慌ててやって来た兄金狼の言葉に、千空がとりなすように言い、銀狼に酒を注いでやる。

「じゃじゃじゃ~~さあ、司が復活できたのって、僕のおかげって言っても過言ではないんじゃない~~?」
「調子に乗るな!」

 瞬時に兄の鉄拳に沈められ連れられて行く銀狼だったが、かれの言葉にふと気づいたことがあった。
 帰還したメンバーは皆、石化装置と復活液を獲得するため、命がけの冒険をした者たちなのだということ。そのセットによって、自分は今日よみがえったのだということ。
 起きた瞬間は、「千空が復活させてくれた」と当たり前のように思った。だがどうやら、かれ一人の活躍というわけではないらしい。
 ここにいる大勢が、石化装置と復活液のために力を尽くしてくれたのだ。

「ありがたいな」

 思わずこぼれた言葉に、千空が「あ゙ぁ?」とこちらを向く。

「勿論、俺のためだけではないんだろうけど」

 「テメーだけのためじゃねえ」という反論を思い出し、先回りしてそう言う。
 だが千空は、昼に言った言葉を一転させ、人の悪い笑みを見せた。

「おー、大体テメーのためだわ。龍水になんか一生頭上がんねーぞ司テメー」
「フゥン、貴様が俺の活躍をそんなふうに思っていたとはな!」

 ルリの席にどっかと座った龍水が、千空のグラスになみなみと酒を注ぎながら言う。

「あ゙ー、間違いなくテメーが今回のMVPだ。誰も文句ねーだろうよ」
「ハッハー! 千空貴様もようやくそんなことが言えるようになったか!!」

 ばしばしと前から龍水に肩を叩かれながら、千空は俺の隣に腰かけたコハクに目を向けた。

「コハクもな。テメーがプラチナに気づいてゲットできてなかったら全員詰んでたわ」
「ほう、君がそんな風に言うのは本当に珍しいな。よほど酔っていると見える」

 コハクは父のコクヨウと顔を合わせると、苦笑してそう言った。 

「千空、俺はどうだ! 石化光線の速度に気づいて策を考えたぜ!!」
「テメーも抜群の働きだ。まあ吞め」

 酒樽を椅子がわりにして千空と龍水の間の誕生席に座ったクロムに、千空が「オラ!」と言いながら酒を注いでやっている。その様子を見るかぎり、前後不覚に酔っているわけではないらしい。
 ひととおり帰還メンバーをねぎらうと、かれは今度は、残留していたメンバーに目を向けた。

「そういや石神村はどうなってる? あれから誰か行ったやついるか?」

 この席は周囲より椅子が高いせいもあり、声も通りやすく皆の顔も見やすい。よく考えられているな、と思う。

「あ、あたし! 車運転してルリちゃんつれて行ったよ!」

 陽や羽京たちと騒いでいた南が、千空の言葉に振り向いて手を挙げた。

「やるじゃねーか、女記者テメー」
「また女記者女記者って。あたしには北東西南って名前があんのよ!」
「あ゙ー知ってる。で、どうだった村の様子は。ジジババたちは元気か」
「皆お変わりなく! でも、ちょっと前に台風が来て大変だったみたい。怪我人とかはいないけど、建物が一部損壊してたわねー」
「台風か――」

 コクヨウと視線を交わした後、千空は一瞬上を向いて唸る。

「フゥン? 去年はそんなに被害はなかったが。心配なら、明日の朝気球を出すか?」

 龍水が千空に向かってたずねる。かれはペルセウスの船長というだけでなく、どうやら気球も操縦できるらしい。

「いや、テメーを今往復させるのは惜しい。次の出発までにやること山ほどあんだろ。誰かに車出させるから、コクヨウ、テメーが一度戻ってくれ。カセキが必要なら連絡入れろ」
「解った」
「俺も、今度の出発前には顔見せたいと思ってる」

 次々判断し、指示を出していく千空は、まぎれもなく長の顔をしていた。科学知識が豊富なだけではない、合理的なだけでも、情に厚いだけでもない。人心を掌握し、皆の力をまとめ上げ、采配する術を心得ている。かれの尊敬すべきところの一つだ。

「あたし、車出そうか? 司さんも一緒に行かない?」

 南が自席に戻って身を乗り出してくる。意図をはかりかねて俺が首を傾げていると、千空が毒づいた。

「そりゃおありがてえが、テメー単に司とドライブしたいだけじゃねーか」
「コクヨウさん送るついででしょ! 別にいーじゃない、司さんだって村に行きたいかもしれないし」
「司は少しでも未来といた方がいいだろうが」
「う、そりゃそうね」

 あっさりと引き下がり、陽たちの輪に戻った南を見ながら、俺は千空に言う。

「君がそんなに彼女と親しくなってるなんて、驚きだな」
「親しかねえよ。未来のこと頼んだりテメーのこと頼んだりしてたんだ。アイツにゃ色々感謝しとけよ」
「うん、また礼を言っておくよ」

 この祝いの席には、石神村の人間と、俺が復活させた人間が半々くらいいる。千空が強烈なリーダーシップをとっているというわけでもなさそうなのに、ある程度の采配だけで、かれらは自然とまとまっているようだった。
 停戦から一年半ほど経過しており、過去のいざこざはとうに水に流されているのだろう。過去を一切を気にしないゆるやかなリーダーの元では、そうならざるを得ないのかもしれない。

「皆、いい雰囲気だね。いい国だ」
「あ゙ぁ、科学文明に惹かれてか、皆おありがたく協力して下さってるわ」
「うん――そういうやり方もあるんだね」

 科学王国の王は、千空ではなく科学なのだとカセキに聞いた。長である千空は、科学で道を示しているだけなのだと。
 原始の社会では、強力なリーダーシップが必要だと俺は考えていた。だが、日本人にとってはこのような体制の方が受け入れやすいのかもしれない。皆の顔に活気があり、のびのびしているように見える。
 では、俺はこの楽園を護っていこう。未来の生きる、千空の作るこの世界を護ろう。
 ひそかに心の中で誓う。
 かれの科学が汚されないよう、かれが害されないよう。俺の力が役に立つのなら、奪うのではなく、護るために。

「千空。今度こそ、俺は約束を守るよ」

 突然誓いの言葉を吐き出した俺に、千空は一瞬面食らったようだったが、すぐにまたあの表情を見せた。

「ククク、そりゃおありがてえ」

 何の約束かなどと聞き返すような男ではない。俺もまた、言うつもりはない。
 「約束って何だよ?」と問いかけるクロムを千空に任せてしみじみと決意を噛みしめていると、はす向かいからゲンが穏やかに話しかけてきた。

「千空ちゃんにはさ、自分の力を役立てたい、それによって認めてほしい、って思っちゃうとこあるよね。それって、自分にとっても千空ちゃんにとってもいい循環だよね。効率いいし、自己肯定感上がるし、皆がハッピー」
「人の使い方が上手いということかい」
「そうかも。村でも自然とみんなが得意分野で貢献してたしね。龍水ちゃんだって最初はどうなることかと思ったけど、今じゃ進んでゴイスー働いてるからね~~」

 先ほど「明日の朝気球を出すか?」と聞いていた、今はフランソワと話している男をうかがい見る。かれはどうやら、本来は献身的な性質ではないらしい。では、そうなった経緯があるということだ。
 自分の眠っていたこの一年半に起きたことを、ゆっくりでいい、知っていきたい、と思った。

「――君が戻る時でいい、一度村に行ってみたいな」

 隣を向いて千空にそう言うと、クロムをあしらいながら果物をつついていたかれは、意外だという顔でこちらを見た。

「あ゙ぁ? ほんとに行きたいのかよ。そういや、龍水も去年んなこと言ってやがったな」
「かれは村に滞在したことがあるのかい?」
「あ゙ー、石油探すために数カ月な。見つかったらすぐこっちに戻ったが」

 「石油見つけるだけで一苦労だったわ」という千空の言葉を思い出す。なるほど、航海前から龍水には多大に世話になっているらしい。一生頭が上がらないわけである。
 その人物はまだ食べ足りないのか、追加で来た肉を頬張りながら、

「石油が見つかって速攻ここに戻ることにしたのは千空、貴様だろう! よほど冷凍庫の様子が気にかかっていたようだな!」

 と、当時のことを暴露した。俺は面食らい、千空は苦虫を嚙み潰したような顔をしている。

「私は石油発見の時その場にいたのだが、千空の嬉しそうな様子といったらなかったな!」
「コハクより速く走ってたもんなあん時。ガッツポーズ決めてよ。あれ、そういや司が氷月にやられた時も、コハクより速く走ってたな千空」
「千空貴様……」
「君は意外に、めっぽう解りやすいな!」
「あ? 何がだよ?」
「あ゙ー、うるせーうるせー!!」

 両耳を塞ぎながら千空が言う。
 よかったな千空、よかったな司、とクロム以外の皆に生ぬるい笑顔で祝われる。今ひとつよく解らないまま――あえて考えないようにした――だんだんと俺も恥ずかしくなってくる。

「そんなん言ったらなあ、石化装置ゲットした時が一番最高だったわ。あれは一人で叫んだわ」

 やけになったのか、千空がグラスの酒を一気に空けた後、聞かれてもいないことを告白した。
 意外だと思い、その光景を想像して――俺はふいに、心臓を鷲掴みにされたような気分になる。
 一人だけ石化しなかった千空。それはつまり、一人きりで敵と闘っていたということだ。
 体力も武力もないかれが、石化装置のためにただ一人、周囲が石化している中で敵と闘い、勝利し――雄たけびをあげた。
 石化装置や復活液を必要としたのは俺のためだけではない。どちらもいずれ必要なものだった。それはよく解っている。
 でも。

 ――大体テメーのためだわ。

 胸が苦しかった。手近なグラスの中身を干し、込み上げてくるものをやり過ごす。
 注がれた酒は、いつのまにかワインではなく強い蒸留酒に変わっていた。つんと鼻に抜けるものがあるのは、そのせいだろう。
 自分が復活するために、どれだけの労力や犠牲が払われたのか、改めて考える。
 決してなおざりにしてはいけないと思った。いつか自分がここにいることに違和感を抱かなくなっても、決して忘れてはいけないことだと思った。

「フゥン。それは俺も、三回も石化された甲斐があったというものだな」

 はす向かいで龍水が、グラスに口をつけながらとても深い表情で言った。
 俺はその表情より、「三回も石化」という言葉に反応する。短期間に三回も石化されたのだろうか、この男は。

「三回――?」
「おー、三回な。言ったろ、こいつがMVP、って……」

 千空の表情は、痛みを堪えるのにも似たものだった。それがみるみるうちにあどけないものに変化していき、同時に上体がゆっくりとテーブルに近づいていくのを、俺は不思議なきもちで眺めた。
 考えるよりも早くからだが動く。
 寝落ちた千空がテーブルに激突する寸前、立ち上がってその上体をすくい上げたのは俺ひとりではなかった。

「宝島で得た宝が、貴様をよみがえらせたのだな」

 真正面から受け止めたほそい肩を俺の方に押しやりながら、龍水が言う。

「貴様に、逢ってみたいと思っていた」

 強い光を宿した瞳だった。死地を乗り越えてきた人間だけに見られる表情だった。
 小脇に千空を抱えるかたちになった俺を見上げ、かれの片腕として闘ってきたらしい男が、透徹した表情で言った。

「あの千空に、こうまで執着させる男がどれほどのものか、見てみたいとずっと思っていた」

 執着。千空には似つかわしくない言葉だ、と思う。
 だがふと、俺の手を掴んで引き上げようとした必死の形相を、傷を押さえて震えていた右手を、「無意味な話はダメなのか」と言った時の背中を思い出す。
 そして、『俺ばっか浮かれてるみてえだな』という言葉を。

「がっかりさせてしまったかな」
「その逆だ。司貴様は、果報者だな」
「ああ――本当に、そう思うよ」

 目を閉じ、腕の中の重みを、あたたかさを噛みしめる。それはひどく尊く、ありがたい感触だった。

「皆の大事な長を危険な目に合わせて、すまない。君たちにも、迷惑をかけた」
「謝られる筋合いはないぞ。言っただろう、俺が逢ってみたかっただけだ!」

 目を閉じて腰を折ると、龍水が即座にそう言う。隣のコハクも頷いた。

「皆、知っているからな、君のために千空がこれまでどれだけ手を尽くしてきたのか。船を作り、石油を探し、未来を支えながら、こまめに冷凍庫に通ってメンテナンスして。ついには闘いに身を投じ、石化装置を奪い取った。それもこれもすべて、たった一人、君のためだ」

 千空が船で「テメーだけのためじゃねえわ」と言ったのと真逆のことを、かつて刃を交わした少女が言う。

「千空にとって、君は大事な人間だ。それを解っているから、皆、君の復活に力を尽くした。そして今、とても満足している」

 そう言うコハクの表情は、その父ではなく、千空のものとどこか似ていた。「我がもの顔」とは違うが、ひどく満足気な表情だ。

「ゲンがいつか言っていたな。人間は、自分が助けた相手に好意を持つんだと。『助けた』などという実感のない我々でも今そんな気分だからな。千空などおそらく、君のことが可愛くて仕方ないと思うぞ!」

 大層いい笑顔で爆弾発言をされて瞠目する。目以外に表情が出ないようにするのに精一杯だった。
 ――あの表情は。
 そういうことか、と合点がいき、千空を抱えていない右手でゆっくりと口元を覆う。

「ハッハー、なるほどそういう心理か! 道理で、大樹と見るのと同じ顔をしているわけだ!」
「フランクリン効果? 俺とまったく解釈一致だけどコハクちゃん、それ口に出しちゃう? 本人に言っちゃう? ジーマーでゴイスーすぎ。霊長類最強が照れてるじゃん……」
「何だ、俺のことを呼んだかー!? って千空、司、どうしたーッ!?」

 皆が一斉に話し出して収拾がつかない。
 その上、乱入してきた大樹の声に腕の中の千空が身じろぎして、起きるのではないかと冷や冷やした。こんな場面で起きられるのは、正直とても困る。

「大樹ちゃん、シー、シーッ!!」

 人差し指を口に当てたゲンが、必死で大樹の声量を落とさせる。 

「千空ちゃん、かなり疲れてたのに無理して参加してくれてたから、このまま帰してあげたいんだよね。大樹ちゃん、司ちゃん案内してあげてくれない?」
「解ったぞー!」

 小さな声でやりとりした二人が同時にこちらを見る。
 俺も千空を寝かせに行きたいと思っていたが、どこに行けばいいのか、俺が運んでいいのか逡巡する気持ちがあったから、このはからいは助かった。

「ゲン、ありがとう」

 昼間と同じように心からそう言うと、メンタリスト兼マジシャンは、「これでほんとに恨みっこなしね~♪」とひらひらと手を振ってみせた。
 昼間言ったように、とうに恨みなどないというのに。かれもそれを充分解っているだろうに。

       ◇

 千空を横抱きに抱え、大樹の後をついて歩く。周囲はすっかり闇色に染められ、空には大きな月が浮かんでいる。
 こうして暗い中、誰もいない場所をかれらと歩いていると、世界にたった三人きりだった頃に戻った気分になる。
 もう一度、一からやり直している気分に。
 俺は千空に警戒されることはなく、こうして腕の中で眠ってくれるくらい信頼を得ていて、そのことに非常に満足している。大樹に含むところもなく、三人で穏やかな日々を過ごしている。――そんな錯覚に、つい陥りそうになる。
 だが遠くに聞こえる人声と、ところどころに設置された灯りに見え隠れする建造物が、その妄想を許してはくれない。俺はやはり一度千空と訣別し、殺し、殺され、そして復活させられたのだという現実をつきつけてくる。
 それを拒否するつもりは勿論ない。ただやはり、砂を噛むような後悔があった。

「司、科学王国はどうだ? 皆、気のいい奴らだろう!」

 気のいい代表のような男が、声量を落とした声でそう言い、振り向いて笑う。

「そうだね、うん、皆いい人たちだ」
「誰もおまえのことを悪く思っている奴なんかいないぞ! 今さら肩身狭く感じたりするなよー!」

 あの頃と同じ、太陽のような笑顔だった。千空がいつもこの笑顔に、かれの存在に救われ続けていることを、俺は知っている。

「どうかな。まだそんな風に、楽観的にはなれないな――」

 こういう場合、戦った相手の方がまだ話が早い。それよりも俺が復活させ、理想と戦争を強要してきたかつての仲間の方が、俺に対して含むところがあるのかもしれなかった。

「俺はこの一年半、皆と布や小麦を作ったり、鉱山で働いたり、船に乗ったりしてきた。うだうだ考えてる奴なんか誰もいないぞ。毎日充実していて、過去を振り返る暇なんかないからな! 大丈夫だ!」
「ありがとう」

 苦笑しながら礼を言い、俺を含め誰もがこの男のようだといいのに、と思う。このまっすぐでさっぱりした男らしい性格に憧れない男はいないだろう。千空がかれを見てあの表情になるのも、今では解る。
 だが――俺は知っている。
 嘘をつけない、裏がないはずのこの男が、ゲンの裏切りが発覚するまでの半年間、俺をあざむき続けていたことを。
 千空が生きているということを、絶対に匂わせなかったことを。

「君はすごい男だ、大樹。結果的に復活したとはいえ、親友を手にかけた俺を害することなく、責めることもなく、監視下で黙々と働き続けた。一度も千空の生存を匂わせることなくね。すごい精神力だ。本当に尊敬する」
「司を起こそうって言ったのは、俺だからな」

 前を向いたまま、大樹がぽつりと言った。 
 そういえばかれらはライオンから身を守るために俺を起こしたのだった、と思い出す。大樹はかれなりに、ずっとその責任を感じていたらしかった。

「千空は知らなかったようだが、俺はテレビで司を見たことがあったんだ。悪い奴じゃないと思ってたし、起こしてすぐやっぱりいい奴だと思った。だからあんなことをするのは何か原因があるんだと思って――まあ、千空のように見抜くことはできなかったがなー!」
「どんな原因があったとしても、人を殺しちゃいけないよね」

 喋りながら混乱している様子を見て苦笑する。この、気のいい男を困らせるつもりはない。

「君の親友を手にかけてしまって、本当にすまなかった」

 かつて殺した男を腕に抱き、その体温を得がたく感じながら、親友である男に心から謝罪する。

「司」
「俺は誰よりも、君に謝らなければならない。謝りたいと、ずっと思っていた」

 冷凍睡眠前、寝たきりの俺を気遣って、大樹はよく夜の見張りに来てくれた。その時のかれは、こんなことを言う雰囲気を作らせなかった。常に明るくふるまい、俺を励まし、湿っぽい話は笑って受け流した。
 だから俺は――ずっと謝ることも、本音を話すこともできずにいた。
 だが、こうしてお互い前を向き、外を歩いている今なら言いやすい。

「クロスボウを見てまず頭が煮えた。火薬を作りに行ったと解って、もはや話し合いの余地はないんだと悟った。俺のすることを妨害しないなら命まで奪う必要はないかと思ったが、千空は科学を発展させるだけではなく、殺してでも俺を止めるんだと思った。拒否の連続だった」
「千空は何故か、最初からお前のことを警戒してたからな――」

 大樹の声が珍しく苦い。

「うん。その警戒と拒否が正直辛かったし、哀しかった。まあ実際、俺はそうされるような人間だったわけだけど――」
「千空は、ずっと後悔していたぞ。もっと違う接し方や対応があったんじゃないかって。だから、絶対お前を死なせない、助けてもう一度やり直すんだと言ってた」
「もう一度、やり直す……」

 意外なことを聞いたと思った。先ほど自分が打ち消した妄想のようなことを千空が考え、親友に話していたとは。
 だが考えてみれば、過去を気にせず水に流すということは、一から新しく関係を構築することと同義なのかもしれない。

「解ると思うが、あいつはもうお前のことを全然警戒してないぞ! むしろ信頼して、その力を必要としている! パワーチーム全員の前でお前のことを最強だと言いきって、仲間にすると宣言してたからな!」
「それは――」

 千空らしい、と思う。俺の逡巡や違和感など、思いもつかなかったに違いない。そのくせ復活後の俺の表情を気にして、「やっぱいやだったか」と聞いてきた。その臆病さを――いとおしく思う。

「千空はいつもあっさりしてるからな。誰かにこんなにこだわるのは珍しいんだ。俺は少し妬いてしまったぞ、司ー!」

 巨大建造物跡の急な坂を危なげなく上りながら、大樹が朗らかに言った。
 俺は千空を落とさないよう抱え直しながら、どっちが、と思わず苦笑する。

「妬いていたのは俺の方だよ、大樹」

 千空から全幅の信頼を寄せられ、無条件の愛情を独占しているかれが妬ましかった。復活したばかり、世界にただ三人きりの状況では、ひどく堪えるものがあった。
 だからこそ露骨な我がもの顔をやめてほしくて、面と向かって指摘したのだと思う。

「君が千空にとって特別なのは一目瞭然だ。誰だってそう言うだろう。その当人から、そんな言葉を聞くとはね」
「俺は幼馴染だからな。でも、俺も含めて千空は同世代の奴の名前をあんまり呼ばないんだ。なのに司のことはしょっちゅう名前で呼んでるから、特別なんだと思うぞー!」
「それは――気づかなかったな」

 甘く語尾を上げて俺を呼ぶ、独特の声音を思い出す。
 千空に名前を呼ばれるのがすきだった。いつも、いつまでも聞いていたいと思うほどに。
 それを大樹が、そんな風に解釈しているとは。
 ――なんだ、同じだ。
 そう思って、月明りに照らされた千空の寝顔を感慨深く見つめる。それから、先を行く大樹の背中を。
 ふと、月明りをしょって、目の前の男が振り向いた。

「千空は、お前のことがすごく大事なんだと思う。だから司も、千空を大事にしてやってほしい。こいつは頭はいいが、ヒョロガリだからなー!」

 言われた内容に胸が熱くなる。今この瞬間、自分は大樹にゆるされたのだ、と思った。

「大事にするよ、うん――この上なく」

 自分にとっても相手にとっても大事な人間を抱く腕に、ほんの少しだけ力を込める。
 やっぱり大樹は本当にすごい、と思った。

       ◇

 一番上に新しく建てられた小屋に行くのかと思いきや、大樹はその真下、以前俺が使っていた岩屋の前で足を止めた。

「――千空は、ここで寝起きしているのかい?」

 勝手知ったるという感じで木の扉を開け、ずんずん進んでいく大樹についていく。

「大抵は広場にあるラボで寝落ちてるが、ゆっくりする時はここに来るみたいだ。司が使っていいと言ってた……って、お前の部屋かー!!」
「いや、もう俺の部屋ではないけど」

 そう言って、灯りのつけられた広い室内を見渡す。かつて座っていた大きな椅子は隅に寄せられ、寝台がその裏に置かれている。部屋の中央には大きな机があり、壺やガラスがびっしり詰まった棚が四方に配置されていた。整然としているが殺風景ではなく、どこかツリーハウスや研究室を思わせるなつかしさがあった。

「千空が使っていた記憶の方が新しかったから忘れていたな! どうする、ラボに運び直すか!?」
「いや、俺が他所へ行くよ」

 広い寝台に千空をそっと横たえながら言う。
 部屋の空気は清浄だった。埃臭くもカビ臭くもない。大きな窓があり、通気がいいから当然ともいえるが、明らかに人の手入れがされている気配がした。もしかしたら誰かとシェアしているのかもしれない、と思う。

「別に、今夜はここでいいんじゃないか?」
「え?」
「ツリーハウスでも雑魚寝してただろう。少し待ってくれたらちゃんとお前の部屋を用意するからな。未来ちゃんも一緒がいいか?」
「いや、これからのこともあるし、未来は女性陣と住んでいる方がいいだろう。俺は今からでも適当なところを見つけて――」
「……るせー」

 寝台を挟んでごちゃごちゃ喋っていると、千空が唸り声を上げながらついにぽっかり目を開けた。

「あ゙ーー?」

 天井を見て、それから自分を覗き込んだ俺たちを同時に見て、赤い瞳にゆっくりと広がっていくものがあった。
 それは安堵のようにも見え、慈愛のようにも見えた。口唇が優美な孤を描き、あの独特の表情が浮かぶ。
 大樹だけではない、俺にだけでもない、二人同時に向けられるそれに気づいた時、深い充足感と幸福感が俺を満たした。
 三人の脳裏に、おそらく同じ日の光景が去来していた。
 俺たちは、もう一度、あの日からやり直すことができるのだ。
 ――全員が、生きているから。

「千空ーっ、司ーっ! 俺は嬉しいぞー!!」
「だああ近寄るな、暑苦しいわっっ」

 感極まった様子で寝台に倒れ込もうとした大樹から間一髪で逃げ出しながら、千空が叫ぶ。

「テメー、俺を圧死させる気か! 倒れかかってくんじゃねえ!!」
「これで本当に知力・体力・武力の三銃士が揃ったぞー!!」

 懐かしい台詞を大樹が口にした時、ふいに出入口に人影が射した。

「あれ、千空くん起きちゃったんだね」

 すがたを現したのは、自分の上半身くらいある大きな籠を両腕で抱えた杠だった。

「杠ーっ! そんな荷物を持ってここまで一人で来たのかーっ!!」
「すぐ追いかけたけど、二人とも足速いんだもん。途中であちこち寄って色々集めてきちゃった。これ、よかったら」

 見た目よりかなり度胸と力のある少女は、机の上に置いた籠から、覆っていた分厚い布を外す。そこには水が入った瓶が何本かと、パンやチーズ、果物などがびっしり詰められていた。

「おー、水はおありがてえ」

 千空は起き上がると机に向かい、一瓶取り上げると口をつける。

「あとはもしお腹がすいたら食べて。明日は回復するまでゆっくり休んでてってゲンくんが言ってたから、朝か昼に食べてもらっても」
「ほーん、至れり尽くせりだな」

 籠の中のものを机の上に広げながら、千空が耳を掻く。

「ゲンくん、無理させちゃったかなって心配してたよ」
「じゃあ自分で持ってきやがれっつの。悪ィな杠」
「ううん、私が行くって言ったの。これを――渡したくて」

 そう言いながら杠は、籠を覆っていた布の中から薄手の布を取り出し、俺に向かって差し出した。

「司くん、よかったら使って」
「ありがとう」

 受け取ったものが何なのか解らないままに礼を言う。一年にわたる付き合いで、彼女が差し出してくれるものは、すべてそうする価値があると知っている。

「後は、ここなら大抵揃ってるはず。さっきルリさんに聞いたら、いつ戻ってもいいように未来ちゃんが毎日掃除やベッドメイクしてたんだって。しばらく誰もいなかったとは思えないよね」

 にこにこ笑って周囲を見渡しながら、杠が種明かしをしてくれる。
 まさかこの部屋を手入れしていたのが妹だとは思わなかった。しかし未来は千空か俺の、どちらのためにここを整えていたのだろう。

「どっちでも同じだよ。どっちが使ってもいいようにだよ。いい妹さんだね」

 俺の疑問を読んだかのように杠が言った。千空のことを魔法使いみたいだと言う声があると聞くが、俺は彼女に対してそう感じる時がある。
 かつて俺がその肌に刃を押し当て、髪を切り落とした女だった。だが俺に相対する彼女は、そんなことをいつも微塵も感じさせない。俺の服を縫い、未来の服を縫い、俺の傷を縫ってくれた。
 大樹が惚れるのも解る――と思う。

「あ゙ー、杠、」

 なおも俺に話しかけようとする杠を、千空がとどめた。

「司からかいたい気持ちはすごくよく解るが、テメーと大樹はさっさと宴戻れ。もしくは二人でどっかシケこみやがれ。早く俺を寝かせろ」
「し、シケこんだりなんかせん! 俺は杠を送っていくぞー!」

 胸をたたく大樹を蹴飛ばすようにして千空は二人を追い出した。かれなりに気を利かせたつもりなのかもしれない。

「杠が渡したの、それ、何だ」

 出入口と窓の内側にある引き戸を閉めてから、千空は俺が手にしたままの布を覗き込んでくる。
 寝台の上に広げてみると、それは俺が初めて皮を鞣して作ったものを正確に模した、麻製の衣服だった。

「――驚いた、布の服だ」
「あ゙ー、寝巻にでもしろってことか?」
「この形と色、初めて俺が作った服と同じだ。君を殺めた後、大樹と杠のコンビに火薬で攻撃されて燃えたんだよ」
「杠の奴、やりやがるな!」

 うなるようにして千空が言った。俺も同じ気持ちだった。言葉より何より雄弁な、杠の赦しだと感じる。

「うん、とてもありがたいよ。俺はようやく、あの二人から赦された気がする」

 服を抱えてしみじみそう言うと、千空は目を見開いた。本当に驚いているようだった。

「赦すってテメー、いつのこと言ってる。あの二人は一年も前に、テメーの殺人を全部なかったことにした功労者たちだぞ。証拠隠滅の共犯者ともいうが」
「――!」

 それはまったく、思いもよらなかった視点だった。
 今日の復活直後、そういえば「杠が軒並み直してくれた」と大樹が言っていた気がする。だが、俺はその意味をよく解っていなかった。冷凍睡眠前、大樹が俺の破壊した石像の場所を聞き取り、「一片残らず集めてやる」と言っていたのを知っていたにもかかわらず、だ。
 そういえば千空のことも、あの二人が首の謎を解いて復活させたのだと聞いた。だから文字通り、俺の殺人の証拠は、あの二人によって跡形もなくなっていたのだ。
 解っているようで、まったく解っていなかった。俺はいつも自分のことに手一杯で、周囲のことが見えていなかったのかもしれない。もしかしたら旧世界でも、色んな人の好意を無下にしてきたのかもしれなかった。

「千空――」

 情けない顔を見られたくなくて、俺はからだを折り、すぐそばにあるほそい肩の上に顔を押しつける。 

「いや、俺じゃねえだろ」

 苦笑の気配がする。先の大樹に対してのように「暑苦しい」と避けるかと思ったが、千空は意外にも身じろぎしなかった。

「いや、君だ。君が俺を助けようと尽力してくれたからだ。だからみんな君に協力して、結果的に俺は助かった」
「おー、ようやく解ってきたじゃねえの」

 ぽんぽんとあやすリズムで、俺より一回り小さい手が背中を叩く。

「おねんねしてたテメーにとっちゃ一瞬だったかもしれねえが、こっちは一年半もコツコツコツコツ頑張ってきたんだわ。誰かに子どもができててもおかしくねえ期間だぞ。気に病む必要はないが、シケた面してねえでもっと嬉しそうにしやがれ。そんで、もっと祝わせろ」
「子ども……?」

 千空らしくない喩えだと感じ、鸚鵡返しにする。

「喩えだ。でも考えてみりゃ、腹痛めて産んだ子どもみてえなもんだ、今のテメーなんか」

 ククク、と笑いながら、千空が俺の頭を掴み、髪をぐしゃぐしゃにする。
 そういうことか、と腑に落ちる気持ちと、子どもは困るな、と戸惑う気持ちが同時に湧き上がる。

「杠のそれも、産着を連想して笑ったわ。そこまでは考えてねえと思うが、赦しじゃなくて祝いなのはお間違いねえ」

 そう言って俺のからだを引き剥がして押しのけると、千空は部屋の隅まで歩き、棚から何かを探し始めた。
 その間に、俺は杠のくれた服に着替える。久々の布の服は着心地がよく、身も心も安らいだ気分になった。
 やがて千空はグラス二つとワインの瓶を出してくると、机の上にそれを載せた。

「去年作って一番出来がよかったやつだ。テメーが起きたら呑もうと思って」

 例の表情を浮かべながら、千空がグラスにワインを注ぐ。深い色と豊かな香りは、明らかに先ほど呑んだものより出来がいいことを感じさせた。
 かれはこれを呑んで、俺にも呑ませたい、と思ってくれたのだろうか。義務感から冷凍庫の様子を見に行くだけでなく、復活させなければと重責を感じるだけでなく、もっと日常的に、俺を生活の中で意識してくれていたのだろうか。
 そう感じると、ぶわりと込み上げてくるものがあった。それは今日、何度も何度も込み上げては押さえつけてきた感情だった。
 まずい、と本能が警告を鳴らしている。二人きりの今、これが奔出したら。この気持ちが溢れ出るままに行動してしまったら。
 恐らくきっと、コントロール不可能になる。

「おら、乾杯」

 千空はそんな俺の葛藤にはおかまいなしに、グラスを一つこちらに寄越してくる。

「――ありがとう」

 その祝福を受けざるを得ず、俺はかれとグラスを合わせると、赤い液体を吞みほした。
 芳醇な香りと深い味わい。不純物の一切ないなめらかな喉ごし。ワインのよしあしは解らないが、旧世界で売られていてもおかしくない出来だと感じる。

「うん、美味しい。今夜思ったけど、君、酒もすきなんだね」
「あ゙あ、酒は人類の友だからな」

 満足気に笑って俺の顔を見る千空にふと酩酊感が襲い、自分も笑みを返したい衝動を覚える。いたたまれない、後ろめたい、という感覚は、不思議ともうなくなっていた。
 ゆっくりと口唇を曲げ、感謝と幸福と親愛の情を込め、目を細めて相手の顔を見つめる。
 うまく笑えているだろうか、と思ったところでふと千空の表情が固まり、緊張が走ったのが空気を通して伝わってきた。

「千空?」
「あ゙ー、じゃあ俺はそろそろ戻るわ」

 グラスを机に置き、耳を掻いて顔を逸らす。自然を装ってはいるが、不自然な動きだ。分析しようと、俺は目をこらし、耳を澄ませ、匂いを嗅ぎ分ける。

「どこに? 君はゆっくりする時はここで過ごしていたと聞いた。今こそ、ゆっくりする時じゃないのかい」

 反論できないことを言うと、千空がちっと舌打ちする。

「じゃあ、テメーはどこで寝るんだよ」
「そこの椅子ででも寝るよ。気配が気になるんなら、俺の方が出て行く」
「いや、別に気にならねえが……」

 かれにしては歯切れが悪い。俺は眉を寄せ、本音を聞き出すために哀し気な表情を作った。千空言うところの「物憂げな」顔だ。

「今、笑ったら一瞬緊張しただろう。また含み笑いになっていたかな。どうも、俺はうまく笑えなくて」
「あ゙ー、違ぇ」
「また、君に警戒されたのかと思った」
「違う」

 今度は間髪を入れずに千空が言った。

「テメーの顔面の破壊力が凄すぎた。ちっとぐらい嬉しそうにしやがれと思ってたが、実際こっち見て笑われると心臓に悪ィわ。はたで見てる分には愉快なだけだったんだがな――」

 しきりに首を傾げているのを見て、気が抜けると同時に苦笑が漏れる。
 それはもしかしたら、俺が今日あの視線を向けられて感じていたいたたまれなさと同種のものではないだろうか。
 そんなことをかれに言うわけにもいかないので、話を切り上げる。

「まあうん、警戒されてないならよかったよ。気にならないならもう休んでくれ。早く寝かせろと言っていただろう」
「あ゙ーでも、もう目ェ覚めちまったんだよな」

 千空はガリガリと耳を掻いている。
 もうちっと呑んだら眠くなるかな、と更にワインを注ごうとするのを押しとどめ、細いからだをひょいと抱え上げる。

「うおッ!?」

 そのまま先ほどのように横抱きにすると、かつて器用な男が俺のために作ってくれた広い寝台まで再度運んだ。

「眠れないならそれでもいいから、せめて横になって休んでくれ。怪我してるんだろう、君」

 先ほど嗅覚を集中させた時、確かに血の匂いを嗅いだ。ふさがっていない傷があるのなら、酒など呑んでいる場合ではない。

「大した傷じゃねえ。今日ぐらい好きに呑ませやがれ」

 言いたいことを察した千空が、覆いかぶさる態勢の俺を見上げるようにして拗ねたように言う。少しでも早く寝たいから宴会は遠慮する、と言っていた人間とは思えない。見た目からはあまり解らないが、多少は酔っているのかもしれない。
 傷を探そうとして千空の服に手をかけたところで、「いや、この態勢でそれはまずいのでは」と内なる声が聞こえ、一瞬固まった。
 身を引きながら寝台を見下ろし――敷布の存在に気づく。思わず手に触れて確かめた。

「これも布だ」

 かつてこの寝台を覆っていたのは大量の藁と皮だった。それが、一体何が入っているのか弾力を感じる素材を、ぴったりと麻布が覆っている。限りなく旧世界のベッドに近い。

「あ゙ぁ、気球作った時に大量に麻布が余ってな。布は割と豊富なんだわ」

 俺の驚きが伝わったのか、千空が種を明かす。

「それはすごいな。俺がここにいた時は、杠が少しずつ作ってくれていたけど、貴重で」
「去年、一気に大量生産できる織機を作ったからな。あん時杠が皆に服を作って――多分テメーのも作ったんじゃねえか。それともアイツのことだ、今日ぱぱっと作りやがったのかもしれねえが」
「どちらにせよありがたいよ。寝る時に布の服を着られると、それだけでも元の時代に戻ったような気分になる」

 寝台に乗り上げた態勢のまま、自分の格好を見下ろす。千空は口唇を曲げて、またあの表情を見せた。

「な、科学文明も悪いもんじゃねえだろ」
「――うん。特に今は、未来がいるから身に染みるよ」

 宴でも感じたことをすなおに言う。

「科学の発展に懸念を抱いていたのに、調子がよすぎるだろうけど。未来が楽しそうで、豊かになった生活に本当に感謝できた。ありがとう、千空」
「子どもが安心して過ごせる世界、って考えると悪くねえだろ。誰か一人が必死になって守って、そいつがいなくなったら終わりっていうんじゃなくて。誰がいなくても、みんなで育てていける世界の方がいいだろ」
「ああ――そうだね」

 本当にその通りだと思った。
 俺が未来を守る、俺しか未来を守ってやれない、という目的意識と責任感は悪くないものだったが、それは俺の精神衛生上の問題だ。俺がいなくても未来が生きていける世界の方が勿論ありがたい。
 首肯した俺に向ける千空の笑みが、さらに甘いものになった。

「守るもんがあるとないでは人間、変わるのかもしれねえな。テメーは以前、『大切な人間などいない、だから俺の勝ちだ』とか、すげえ怖い顔で言ってたが、ほんとはそういうもんがある人間の方が強いんじゃねえのか」
「弱いのではなく?」
「あ゙ぁ、信用できるし、俺は今の方が好きだぜ」

 いきなり全肯定されて、全身が焼けつくように熱くなった。おそらく頬も紅潮しているに違いない。
 「すげえ怖い顔」だった頃の自分と比べているのだから当たり前だ、そういう意味ではない、と言い聞かせるが、そういう意味とは――? と解らなくなって、片手で顔を覆う。
 千空はククク、と喉を鳴らして笑った。

「俺は仲のいいきょうだいを見るのは嫌いじゃない。俺にはいないから、どんなもんか想像つかねえがな」

 そういえば、ルリコハク姉妹、金狼銀狼兄弟に向ける千空の眼はやさしい。大樹や俺に向けるような「我がもの顔」ではないが、近しいものを感じる。

「ああもしかして、君は大樹のことを兄弟のようだと思ってるのかい?」
「どんなもんか知らねえから、似てるかは解んねえがな。でもまあ、家族みたいなもんだ」

 そのうち俺もそこに追加されるのだろうか、と考える。そういえば先ほどは、「腹を痛めて産んだ子ども」扱いされた。
 それは嫌だ、とはっきり感じる。

「なら千空、俺は――君と、一番親しい他人になりたい」
「あ゙?」
「それがどういう名前の間柄でもいい。一番近くにいて許される他人になりたい」

 赤い眼を見つめて真剣に言うと、ふいっと視線を逸らされる。

「あ゙ー、友達に順番はつけらんねえし、何人いてもいいものだと思うぜ? カレシカノジョは一人じゃねえと色々面倒そうだが」
「一人しかなれないものがいい」

 ここだ、と突破口を見つけた気分になる。意気込んだ俺に、「しまった」という顔で、千空が尖った声を出した。

「は? カレシカノジョ? どっちがどっちだよ」
「どちらでもいい。君を独占したい」

 先ほど「この部屋を誰かとシェアしているのかもしれない」と考えた時の、ひりついた感覚を思い出す。
 そんなことを邪推しないでいい間柄になりたかった。

「酔ってんな、司テメー」
「あれくらいで酔わないよ」

 しばらく睨み合いの様相になる。
 だがすぐ、そうではない――と思い直して、俺は自分の気持ちを言い直すことにした。

「千空――俺は、君が好きだ」

 今日何度も込み上げた気持ちを、あふれそうになった感情を、ついに言葉にする。
 その大きさ複雑さに比べて、なんて幼稚で陳腐で軽い言葉だろうと思う。だが、それ以外の表現は思いつかなかった。
 こういうものは、何万言費やしたから伝わるというようなものではないと思う。特に相手は千空だ。いくら言葉を飾っても、だめなものはだめだろう。あっさり振ってくれるならまだいいが、またホモだのなんだのと言われるのかもしれない、と身構えていると、情緒を解さない男は口に手を当て何やら考え込んでいる。

「千空? ちなみに、俺はホモではないつもりだ。男に言い寄られることがあっても、嫌悪感しか湧かなかった。かといって、女性に言い寄られるのも苦手だった。向けられる好意がすべて疎ましかったし、煩わしかった」

 大体が旧世界でのことだが、この石世界でも多少のいざこざがあった。
 そのたび、超然としていよう、俺は誰のものにもならないし誰に縛られる気もない――そう決意してきた。

「でも今日、君が俺にしてくれたことを皆に聞いて、色々なことが解って――君のことがどんどん好きになっていった。勿論、元から友人として好きだったけど。だから大樹にも嫉妬してたんだけど――」
「あ゙あ?」
「すまない、こんなこと突然言われても困るだろう。だから言わずにいよう、抑え込もう、そう思っていたのに――気持ちがあふれて、止められなくて」

 手で口元を覆う。今になってひどく恥ずかしくなってくる。相手が何も言わないから余計にだ。
 ふと千空がどんな表情をしているのか気になって、恐ろしいと思いつつも目を合わせる。そこに嫌悪を見てしまったらすぐさまこの部屋を出ようと決意しつつ、赤い瞳の奥を覗き込んだ。
 戸惑いはあるが、嫌悪の色はない――と思う。
 目の前のからだから、息づかいが伝わってくる。それに集中して気配を探れば、様々なことが感じ取れた。
 鼓動の速さ。体温の上昇と発汗。わずかなふるえ。瞳孔の開き方。

「――千空?」
「殺し殺されて、何かバグってんのかもしれねえな」

 あきらめたような顔で千空が笑った。
 吐き出された言葉に、一時の気の迷いだと言われた気分になる。眉をひそめると、「あ゙ー」という声と共に手が伸びてきて、眉間に触れられた。

「お気に召さねえか? それを言うなら、恋愛感情自体が脳のバグだ。俺はそう思ってる。だからそんなものには近づかねえように、慎重に、お綺麗に生きてきたってのに、」

 目の前の笑みがひどく深くなる。

「テメーが復活して、狩りしたり飯食ったり、お元気いっぱい動きまわってて、もう二度と気にかけなくていいはずなのに、」

 頬に、大切なもののように触れられて、ふいに泣き出したくなる。

「このお綺麗なツラは何を見て、ご立派なガタイはどう動いてるのか、つい目で追ったり考えちまったり――これは一年半、テメーは無事かって常に考えてた名残りなのか? 笑っててほしいと思うのに、いざ笑いかけられると脳がバクるのは、眠ってるテメーばっか見てた後遺症なのか? 俺にはさっぱり解んねえわ。テメーにどう答えたらいいのかも」

 お手上げだというように、千空が目を閉じて首を振り、両手を上にあげる。
 充分だ、と思った。
 欲しいのは言葉ではない。この相手から、「好きだ」などという、幼稚で陳腐で軽い言葉が欲しいわけではまったくない。
 そんなものよりも今、もっと得がたいものを手に入れた――と思う。

「充分だ。充分だよ、千空――」

 かつてと同じ言葉を繰り返し言う。千空は目を伏せたままかすかに頷いた。
 そのまぶたに、せいいっぱいの敬虔さで、羽毛が触れるようなキスを落とす。
 かすかなふるえに、いとしいという気持ちが嵐のように胸に渦巻いた。
 俺は酒に酔わない。言葉にも、雰囲気にも酔ったことがない。
 だが今――、確かに自分に向けられた執着を感じ、酔いしれそうになった。

       ◇

 「この石世界で俺は一番の幸せものだよ」と、腕の中で寝入ってしまったいとしい人にささやく。
 何かを失った状態でこの石世界に復活する者が多い中、俺は、旧世界では手に入れられなかったものを沢山手に入れた。
 あの禍々しい光に感謝しようとは思わない。
 だが、確かにこの世界でなければ得られなかったものがあることを、いつも意識して生きていこうと思った。
 そして、俺を生かし、復活させてくれた様々な縁に感謝し、今度はこの手で守れるように。
 愛しい者を守る力が、いつも自分にあるように。
 祈りだけでなく、願いだけでなく、自分自身に誓う。
 久々の現世の感触は豪奢であたたかでやさしかった。いつまでもこの夜に浸っていたいと、俺は子どものように願った。

     了

2021.10.10 pixivへ投稿 司生誕記念

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