花と戦争
17862文字。
氷月撤退直後、ケータイ作り直前、死者が出たことに苦しむ二人千が互いを思いやるお話。
ゲ千を結びつけたものは色々あれど、「不殺」も大きいのではと思っています。
石像を破壊できないゲンを千空は知ってると思う。戦争より花を愛するゲンを書きたかった。
死について、真剣に考えざるを得なかったことがある。
エボラ出血熱の調査でアフリカに行った時だ。勿論、行く前にも考えてはいた。だからこその行動だったわけだが、人が死ぬことの切実さ、凄惨さを、本当には解っていなかったのかもしれないと今になって思う。
生きてきた環境とはまったく違う場所で、日々失われていく命を実際目にすると、自分というものが一から塗り替えられていく気がした。千空が現地に降り立ったのは、ワクチンが一定の効果を示しはじめた時期だ。それでも終息にはほど遠く、あたりには死の気配が立ち込め、悲憤と絶望の叫びが途絶えることはなく、少年の柔らかい感性を終始串刺しにした。
実際に医療行為を行ったわけではない。だが出来ることは何でもやった。やらざるを得ない環境だった。治安が悪かろうが言葉が通じなかろうが食事が不味かろうが、不満など言っていられなかった。気を抜けばその分人命が失われ、自分の命にもかかわる世界だ。
あの経験があってこそ、この原始の世界に適応できたのかもしれない、と千空は時折考える。人の命のはかなさと、だからこその尊さを知っている。人種や国籍を超えて手を差し伸べ、助け合うことの大切さも。
あの時出逢った医療従事者や現地のスタッフ、元感染者の必死なすがた、献身的などという綺麗事ではすまない赤裸々な現実を見てきたからこそ、今の自分があるのだと知っている。
目の前に、手を伸ばせば助かるかもしれない命がある時、千空はいつもかれらを思い出す。あの医者なら、あの地元ボランティアならどうするだろう。
自分が適切な対応をとれているかの確認であり、自己を客観視するためのスイッチのようなものだ。
またそれは同時に、神を信じない千空にとっての祈りでもあり、支えでもあった。
――大丈夫だ、できる。
そう己を鼓舞し、信じるための。
そして、人間の可能性に賭けるための。
◇◇◇
敵の退却を確認するため巡回していたコハクが硫酸湖で目撃したものは、凄惨な死体の山だった。報告を受けた千空は再びガスマスクをつけて現地に赴き、男六人が折り重なるようにして息絶えているのを見た。
損傷がひどすぎて遺体はろくに確認できなかったが、地面のえぐれや衣類の擦れ具合を見ると、そばの木から落ちたことは明白だった。氷月とほむらだけはいくら探そうが遺体が見つからず、少し先の水場で休憩した形跡があることから、二人は逃走したものと思われた。
毒ガスの充満する地で、それを吸引し絶命した死体であるとはいえ、六人の周囲には花の一つ、石の一つも見当たらなかった。埋葬など考えつかず放置したことは明らかだったが、それだけではないと千空は考えた。「木の上で待て」というアドバイスの後、六人の男全員が足を滑らせるわけがない。
様々な意味で気の遠くなるような作業を行いながら、自分はあの時、もっと別な行動がとれたのではないかと何度も自問した。氷月に冷酷な面があることや、他の連中との間に齟齬があることは、ゲンの報告から解っていた。だが、まさか味方を死に追いやるとは思ってもみなかった。
甘さがあったのかもしれない、と思う。これは戦争なのだ。本来戦争にもルールがあるが、この無法の世界では、敵を殺せる人間は味方も殺せるのだと思った方がいい。いくら千空が味方ばかりではなく敵すら殺したくないと思っていても、そんな甘さは相手には通用しないのだ。
――邪魔なら味方でも殺す。それが司帝国のルールか。それが、司の考えなのか。
そう思うと苦いものが腹に落ちた。
あの、ひどく極端なものの考え方をする理想主義の男のことを、千空は嫌いではなかった。相手もそうだろうと思う。ただ、かれの理想のためには千空の科学が脅威で、それだけの理由で殺されたのだと理解している。だから今も大樹や杠がかれのもとで暮らしているように、司は千空以外の者を殺すことはない。村を襲っても、人命までは奪わないだろう。そう思っていた。
だが、そうではないのかもしれない。かれは変わってしまったのかもしれない。千空一人ではなく他の人間も殺せと、女や子供、老人でも、味方すら殺して構わないと、そう命じる人間になってしまったのかもしれなかった。
吐き気を催す形状と色と匂い、埋葬作業中の音と感触。
凄惨な記憶は、普段は忘れていても、ふとした時によみがえって千空の胸に影を落とした。たとえば食事の後始末をしている時、肌を這う虫を手でつぶした時、就寝前に今後のことを考えている時。
多少夢見が悪かろうが食欲が落ちようが、こればかりは仕方がないと諦めている。かれらの死は、司と自分が戦うことを選択したその結果だった。
だから苦しいのは当たり前だ。そのことを、千空はよく知っていた。
獅子王司に従うことも、死を与えられることもよしとはせず、自らはじめた戦争だった。
◇◇◇
「――ちゃん、」
誰かに揺り起こされている感覚に、急激に覚醒する。
カッと目を見開く。だが体の他の部位は、動かそうとしても無理だった。全身に汗をかき、息が乱れているのが解る。喉がひりついて声も出ない。
暗闇の中、覆いかぶさるようにして肩を揺すっている相手が誰だか解らず、千空は一瞬戸惑う。大樹の手ではない。クロムでもない。
今この世界で、他にこんなに気やすく自分に触れる人間がいるだろうか。そして、触れられて違和感のない相手が。
――ゲンか。
花の香りが鼻をかすめて気づいた。たしかにゲンは現在、この科学倉庫に寝泊まりしている。夜中に自分を起こしてもおかしくない。それは納得できる。だが、この違和感のなさはなんだろう。
千空は人に触れられるのが得意ではない。体温をじかに感じるのがあまり好きではないのだと思う。触れられる前と最中には、ある種の緊張が走る。それなのに、体を揺さぶられ続けてもなかなか起きなかった自分が信じられなかった。
体温が低いからか、あるいはメンタリストは人に警戒されない術でも心得ているのか。それとも、よほど自分は悪夢にとらわれていたのか。
「大丈夫? ――ゴイスーうなされてたけど」
ようやく首を動かすことに成功し、千空はかすかにうなずいた。それが見えたのかどうか、ゲンはゆっくり体を離すと、枕元をあさり始める。
「はい、お水。飲める?」
竹筒が頬に触れ、そのひやりとした感触にほっとする。途端に全身のこわばりが解け、手を伸ばしてそれを受け取ることができた。わずかに首を上げて水を飲む。手のひらに水を受け、そのまま顔を濡らすと少しましな気分になった。
「灯りつける?」
「いい、それより戸を開けてくれ」
出入口は千空のすぐ右隣にある。だが、手を伸ばしてそれを開けるのも億劫だった。ゲンは枕元を膝行すると、木の扉を左右に開け放つ。
とたんに秋の夜風と月光がどっと室内に入り込み、浄められた気分になる。千空は思わず深く息を吸い込んだ。
現在二時二十分三十秒。夜が明けるにはまだ間がある。
「――クロムは?」
上体を起こすと、同居人のすがたを目で探す。今夜の月は明るく、クロムの分の敷布が畳まれたままなのがよく見えた。
「カセキちゃんとこから帰ってない。今夜中に完成させるつもりか、完成させてそのまま寝ちゃったか」
「あ゙ー、ありえるな」
石神村は現在、燃やされた居住区を復旧中である。子供や老人たちの住む家、生活に必要な場所を優先に再建しており、他に行き場所のある者の住まいは後回しになっていた。
科学倉庫やラボで雑魚寝することの多いカセキの家も再建が遅れていたが、昨日から着手している。「ゼッテーすぐに完成させてやる」とクロムがわめいていたから、今夜はもう戻らないだろう。
「おかげで俺はゆったり寝させてもらってたんだけど、千空ちゃんが隣で呻きはじめたからゴイスーびっくりしちゃった」
「そりゃ悪かった」
もう一口水を飲みながら、千空はぞんざいに謝る。
ゲンは目覚めたばかりという様子ではなかった。身のこなしや滑舌のよさを考えると、どうやら随分前から起きていたらしい。もしかしたら、自分を起こすかどうか、長い間ためらっていたのかもしれなかった。
「――クロムちゃんがいなくて安心できなかった? 俺、緊張させちゃった?」
注意深く発せられた言葉のひびきが意外で、千空はすぐ横に座る人物をまじまじと見つめる。若干の気落ちと遠慮を感じたせいだ。
「んなわけねー。単に夢見が悪かっただけだ」
クロムがいないことも、ゲンがいることも、千空はまるで気にしていなかった。マグマに刺された傷をここで治療した時から、ゲンは千空にとって懐に入れた猫も同然である。それはコハクに対しても、最近でいえば金狼に対してもそうだ。
手をかけて救った人間相手に、警戒心はまったく起きない。命の恩人というほど大げさなものではなくても、「さすがにもう自分を害することはないだろう」と安心してしまうのかもしれない。助けた相手ほど情が湧くという心理も働くのだろう。
それもまた甘さなのかもしれなかったが、友情や愛情という得体の知れないものより、千空にとっては解りやすい情のかたちだった。
だから変に繕わずありのままを答えた後、あえて肩書ではなく、相手の名を呼んだ。
「ゲン」
そうすることで、繊細なメンタリストの機嫌が浮上することを、千空はもう知っている。
「司が氷月にどういう指示をしたのか知ってるか。あいつは、何て言って村を襲わせた」
「え? えっとね、『村を制圧し、石神千空が生きていないか確かめてほしい』かな」
急に話を変えられたゲンが一瞬固まった後、上を向いて記憶をたどるそぶりを見せた。
「で、『生きていたら殺せ』か。村の人間については? 『抵抗したら殺せ』?」
相手が言葉を選ばずすむよう誘導する。だが、ゲンは首を横に振った。白い横髪が揺れる。
「ううん、そこまでは。単に『制圧してくれ』って。自分のことは『この手をどれだけ汚すことも厭わない』とか言ってたけど、人には誰のことも殺せとか殺していいとは言ってなかった。千空ちゃんのことだって、『確かめてほしい』だったから、報告だけでよかったと思う」
「なら俺が生きてることが解って、銃があるってテメーが言った後も村を狙ったのは、氷月の判断か」
「いや、氷月ちゃんは戻る判断したけど、死んだ連中が逸ったんだよね。氷月ちゃんは多分、様子見したんだと思う。ゴーザンたちが死んだら死んだで別にいいって」
「あ゙ー……」
千空は目を閉じて唸った。氷月という男が少しだけ理解できた気がした。
かれは恐らく、司よりよほど危険な人間だ。純粋な実力勝負でなければ、霊長類最強に勝ててしまうかもしれない。
「司は、あんな男と組んでんだな」
「今じゃ名実ともにナンバー2だろうね。何、もしかして司ちゃんのこと心配してる?」
「心配ってか、司に何かあったらあの体制はまずいだろ。アイツの人徳とかカリスマ性で保たれてるのが、一気に恐怖政治に変わる」
「ああ、大樹ちゃんと杠ちゃんいるしねえ、そりゃ心配だよね」
ゲンは納得したようだったが、千空の思いはまた別にあった。
大樹も杠も勿論心配だ。だがそれとは別に、司帝国が瓦解し、司によって保たれている秩序が崩壊するさまを想像すると気が滅入った。太古の昔から人類が繰り返してきた愚かな歴史を、現代日本の若者が再現するのは耐えられなかった。
「現代人の方が村の人間よりためらいなく人を殺すっていうのは、どうなんだろうな。そりゃマグマみたいな奴もいるが、あいつだってあの状況で味方六人も木の上から落とさねえだろ」
吐き出すように言うと、ゲンが息をのんだのが解った。千空が何にこだわっているのか察知したのだろう。
「そうね、マグマちゃんが俺を殺したのは、よそ者の妖術使いが橋壊したってとこが発端だもんね。この村にはこの村なりの秩序がある。よそ者だって橋渡らずに大人しくしてれば何もされないし、罪人は追放されるだけで死刑はないし、子供やお年寄りは大事にされてる。創始者さんの教えがよかったんだろうね。原始の世界でも、人は人らしくあれるんだってゴイスー解るよ」
ゲンは聡い上に口がまわる。千空の望む言葉を全部言ってくれた上に百夜まで持ち上げてくれた。
絶対口に出すことはないが、石神村の良心を感じるたび、関わる村人の美点を目にするたび、人間の善性と可能性を感じて千空は安堵する。それはかつてアフリカで感じ、これまで自分を励まし続けてきたものと同質のものだ。
「司ちゃんや氷月ちゃんはさ――ちょーっとバグっちゃったのかもしれないね。身一つでこんな世界に復活して、タガが外れちゃったというか。顔見知りの高校生が、人類を浄化するとか新世界を作ろうなんて思いついてジーマーで実行しちゃうなんて、想像もできなかったよ」
「なんだテメー、石化前から司と知り合いなのか?」
意外な接点に千空は少々驚く。だが考えてみれば、だからこそ司はあさぎりゲンなどという、石世界でどう有用なのか解りにくい人間を率先して起こしたのかもしれない。
「同じテレビに出たりしてたからね。石化の瞬間も一緒に収録中だったし」
「格闘技の試合にメンタリストが呼ばれるのか?」
「違うよ、心理マジックの特番。知らない? 司ちゃん割とバラエティ出てたんだよ」
「ほーん?」
違和感があった。千空の知る司の人物像とバラエティ番組はまったく結びつかない。
「べつに親しかったわけじゃない、挨拶してちょっと世間話する程度だったけどさ、あんなバイヤーなこと考える男だとは思ってもみなかったな。まっさらな環境と、妄想を現実化できる力があって、石化復活液の存在を知ったら――人間、ああなっちゃうのかねえ」
「復活液がアイツを狂わせたって言いてえのか」
司の変貌は自分のせいだと言われた気がして、千空は少々むくれた。
ゲンは慌てたように両手を前に差し出してばたつかせる。長い袖口が揺れて、暗がりの中、花の香りが少し濃くなった。
「いやいや、復活液はゴイスーよ!? 俺だってジーマーで千空ちゃんに感謝してるよ!? 人類を救うお宝なんだけど――でも、もし自分に力があって、復活液で起こせる人間を選べる立場だったら、好き放題したくなるのかもって。『人類全員平等に復活させる』なんてご立派なお題目となえられんの、千空ちゃんか大樹ちゃんくらいかもしんない」
「ほーん。テメーだったら? アイドル起こしまくってハーレム作んのか」
なかなかリアルな考察だと思って聞いてみる。千空は自分が特殊だという自覚があるから、普通ならどんな考えになるのか知りたかった。
しかしゲンは一瞬ぐっとつまった後、わざとらしくしおしおとうなだれて見せた。
「それさー、考えてみたんだけど、考えれば考えるほど行きづまる。可愛い子だけ起こしまくっても、食糧問題ですぐ詰むじゃん。で、狩りできる男なんか起こしたら最後、俺みたいなモヤシ、すぐ下剋上されんじゃん。なかなか無理ゲーよこの世界」
「メンタリストなんだから別の手で戦えよ」
「いや、この世界じゃ限界あるよ。それこそナンバー2にはなれても、トップはリーム―よ。そんなん考えたら、最初からあんまハメ外さずにいた方が安全じゃん。ハーレムなんかなくても、好きな子といちゃつければそれが一番幸せじゃん。だから、復活液牛耳るなんてバイヤーな立場、俺はごめんだね」
「テメー、割とリアリストだな」
千空はゲンのことを、ひどくプライドが高い男だと理解している。だから正直、トップは無理云々の台詞は意外だった。たとえそう自己分析していたとしても、口には出さないタイプだと思っていたのだ。
「『好きな子一人と幸せになれたらいい』って言ってんだからロマンティストでしょ!」
「そこはどうでもいいわ」
耳に指をつっこみながら吐き捨てると、ゲンはむうと唸った。そうして正座した膝の上で指をもてあそびながら、なぜか拗ねたような口調で、次のようにまくしたてた。
「――俺さあ、司ちゃん帝国に戻った時、内部工作しようと思ってたんだよね。時間かけて口八丁で周りから切り崩して、味方増やしてさ。司ちゃんのカリスマっぷりはゴイスーだから絶対厳しいし、村に戻るの遅くなって千空ちゃんに疑われるかもしれないけど、それで平和的に解決するならいいかなーって思ったわけ。でも、氷月ちゃん起きたから可能性ゼロになっちゃった。司ちゃんと意気投合したし、すぐこの村攻撃するってなったしさ」
その話のどこに拗ねる要素があるのか、先の話とどう繋がるのかよく解らず、首を傾げる。内部工作がうまくいかなかったからだろうか。それとも、力のある者の前ではメンタリスト的暗躍には限界があるということか。
だが、ゲンがそんな工作を考えていたというだけで、千空には充分な価値があった。
この男は自分で最適解を出し、実践する気概がある。その原動力は恐らく、「人の血が流れないように」という思いだ。最初にマグマと会った時、「戦争より花でしょ」と言って手品を見せ、退却させたゲンを思い出す。あれが恐らく、偽悪をきどりたがるこの男の本質なのだ。
血ではなく、花を好む男がそばにいることは、千空の心をひどく安らかにした。胸に巣くっていた重苦しいものが少しずつ溶け出し、流れていく感覚がする。
楽になっていっている自分とはうらはら、ゲンはしおれたままだった。白い横髪が右頬に垂れかかり、月明りの下でも表情はうかがいしれない。
「で? 俺らにそのことを知らせようと、『手引きする』っつって駆けつけて下さったんだろ」
再度こちらを裏切って、一人安全な場所にいることもできたのに。
その意味を含ませながら、千空は言葉を口の中で転がすように丁寧に発声した。
「――やるじゃねーか、テメー」
そうすると、ゲンはわずかに笑みを見せる。だが、その瞼は伏せられたままだ。
「うん、味方に犠牲が出なくてよかった」
ああ、と合点する。この男はこの男で、死んだ六人に対して罪悪感を抱いていたのだろう。
よく考えれば当たり前だ。司帝国に戻った時からずっと、ゲンはかれらを裏切り続け、騙し続けてきたのだ。
もしもかれがそれをよしとせず、あるいは保身のみを考えて、司帝国から出てこなければ。
コハクは死んでいただろう。金狼も助からなかったかもしれない。ハッタリの銃で一旦は撃退できても、刀を作る猶予もなく再来され、千空を含め全員が殺されていたかもしれない。
科学王国にとって、ゲンの活躍は値千金の価値あるものだった。
「テメーの働きに百億点やるよ」
ささやくようにそう言って、手を伸ばす。
かれの抱えるものは、決して他人と分かち合えはしないだろう。ちょうど千空が、自分の始めた戦争の重みに押しつぶされそうになっているのと同じように。それはそれぞれが抱え、背負っていかなければならない。
だが互いに、相手を思いやることはできる。
自分の荒れた手が、手入れもしていないのにつやつやした髪に触れていくのを、千空は不思議なきもちで眺めていた。
前髪に触れた後、頭の丸みをたどるようにそっと手を動かす。ゲンは無抵抗の証のように、ゆっくりと目を閉じた。
「百億点よりこっちのがいいな。ゴイスー気持ちいい」
目を閉じて微笑んだまま、うっとりした声でゲンが言う。月明りに照らされて、菩薩のような笑みだと思った。
修羅の中にいるはずなのに。
この男は、それを見せない。
「気持ち悪ィ」と言いながらも、千空は頭を撫でる手を止めなかった。
自分もまた、百夜に撫でられるのがすきだった。人が頭という急所を撫でるのも、大人しく撫でられているのも、ある種の情があってこそだ。それが解らないこの男ではないだろう。
復活してからこれまで、ゲンも一人で色々抱えてきたのだから、これくらいの見返りがあってもいいはずだ、と思う。
「千空ちゃんの手はね、安心するんだよね。最初にここで治療してくれた時からね」
撫でている手を掴まれ、冷たい頬に押しつけられて納得する。先刻目覚めた時の疑問が氷解した。
ゲンに触れられて違和感がないのは当然だ。かれが怪我をした時、ふつうの間柄では触れないようなところまで、治療のために自分がさんざん触ったからだ。
「金狼ちゃんが死んじゃうってなって、千空ちゃんが自分の存在隠すのあきらめて、鉄の筒に火薬詰め出した時さ、なんかゴイスー嬉しかったよ、俺。合理的だの何だの言ってても、やっぱ見捨てらんないんだなあって思ってさ」
「え~~っとか後ろで言ってたじゃねえか」
「それは、方法についてね。やろうとしてること解っちゃったからね。そうじゃなくて、そんな千空ちゃんだから、俺のことも助けてくれたんだろうし、全人類救おうとしてるんだろうし。だから俺も司ちゃん裏切って、戻ってきてよかったなって。科学も勝率も勿論大事だけど、何より千空ちゃんていう人についてくことにして、ほんとよかったと思って」
突然はじまった怒涛の語りが、どこから来てどこに着地するのか解らないまま、千空はぼんやり目の前の男を見つめる。左手はゲンの両手に拘束され、右頬に押し当てられたままだ。
自身に言い聞かせているのかと考えていると、心なしか左手の拘束が強まった気がした。
「俺はさ、ゴーザンたちの遺体は見てないけどさ――後で聞いただけでも、やっぱり色々思うことも、自分の選択が恐ろしくなることもあるわけ。俺でもそうなのに、かれらと敵としてしか関わっていない千空ちゃんが、毎日胸を痛めて、夜中うなされてて、それを見てるしかなくてさ――。すっごい痛ましいし、今さらどうしようもできないし、氷月ちゃん恨むしかないんだけど。でも、そういう千空ちゃんだから、やっぱりついていきたいと思うわけ。何もできないけど、そばにいたいと思ってしまうわけ」
「!」
ひどくやさしい口調と内容が身の内に浸透すると共に、込み上げてくるものがある。千空は目を見ひらき、呼吸を整えてその衝動に耐えた。
そうだ、こいつはメンタリストだった、と痛感する。
まさかそんなところに着地するとは思ってもみなかった。相手を思いやるつもりが、いつの間にか思いやるタイミングをうかがわれていたとは。
「何もできない」などと、どの口が言うのかと思った。
「誰のことも見捨てない千空ちゃんだもん、俺に何かあってもまた助けてくれるはずだし? 千空ちゃんのそばが一番安全だと思うしさ~~」
言葉を発せない千空に気づいたのか、ゲンがことさら軽く、打算的な台詞を付けくわえる。見えすいてはいるが、その気づかいに救われた。
だが、そのように偽悪を気どりたがる男も、もう初対面時のような台詞は吐けないだろう。かれは二度と、「誰が死のうが知ったこっちゃない」と言える人間には戻れないだろう。
人の死を知る前と後では、人間は変わる。そして。
「――自分や家族が死ぬか生きるかの目にあって、助かった時初めて、見える世界が変わってくんのかもな。ステージが変わるっつか」
千空は自分の手を取り戻し、かわいた喉からむりやり声を発した。以前から考えていたことだ。
かつて「戦争を知らない人間は、半分は子供である」と書いた作家がいるが、その感覚は近いのではないかと思う。
「助からなくても変わるやつは変わるんだろうし、助かってもなお懲りねえやつもいんだろうが」
千空も、随分人に助けられてきた。
一度は死んだ命を、大樹と杠が復活させてくれた。そしてこの男もまた、自分を救ったのだと思う。「千空は死んでいる」と司に伝えたことで。司軍の来襲を伝えに村に戻ったことで。
いつの時代も、たとえ目を覆いたくなる惨禍があったとしても、助け、助けられて人の世界は成り立っている。だからこそ生きていける部分がある。
ふと、司のことが思い出された。
愛する妹を失い、旧世界に絶望していた男。それゆえ千空と意見が合わず、「殺す」という選択をした男。
そして自らが復活させ、信じて送り出したゲンに裏切られた男。
かれのことを――千空は今でもかなうのならば、すくい上げてやりたいと思っている。
あの昏く狭い場所から。その凝り固まった思想から。
だがかれは強すぎて、生きるか死ぬかの目に合うことなどありそうもない。家族がいればまだしも――と考え、千空は先ほどの違和感を思い出した。
――愛する妹は、本当に失われたのだろうか?
「誰のこと考えてんの」
自分の思いつきに固まっていると、ゲンが怪訝そうにのぞき込んでくる。暗い色をしているのに闇の中でもよく光る、猫のような瞳だ。
「助かってもなお懲りねえやつ?」
「助かるとか助けるとかいう状況にならなさそうなくらい強えやつ」
「えっ待って待って、今そういう話になる流れだった? 俺、ゴイスーいいこと言ってたつもりなんだけど」
「それ俺にとってはお涙ちょちょぎれる話でも、司にとっちゃ単に酷ぇ話だろうが」
視点を変えると急に面白くなって、腹が打ちふるえた。霊長類最強も、まさかこんなところでそんな風に笑われているとは思うまい。
「ちょ、ちょっと、ここで俺の裏切り茶化しちゃう? これでも割と決死の覚悟だったのよ~~?」
「茶化してねえよ。ただ、俺がお有難えと思ってるのと同じくらい、あいつ今テメーに激怒してんだろうなって思って」
千空は基本的に他人に同情することはない。だが現在の司に対しては、やりきれないような、何とかしてやりたいような感覚がある。石化前、ゲンと顔見知りだったと解ったことも関係するのかもしれない。
「テメーに裏切られたばかりか、ナンバー2とたのむ男に、自分の知らないうちに仲間六人も殺されてな。そういうトップが今後どうなんのか、大概予想つくわ」
「何だ、やっぱ司ちゃんのこと心配なんじゃん」
「まあ司起こしたの、俺と大樹だしな。できれば、あいつの世界をガラッと変えてやりてえ――」
顎に指をあて思案していると、器用に感情を消した声で、ゲンがぽつりと言った。
「自分を殺した人間、今も殺そうとしている人間のこと気づかって、助けてやりたいなんてゴイスーね」
「あ゙? テメーだってマグマが目の前で溺れてたら助けんだろ、別にフツーだわ」
「目の前で溺れてたら助けようとするかもね。でも、見えない部分を想像したりしない。普段マグマちゃんのことは考えない」
よく光る目が、じっとこちらを凝視している。言葉そのままでないことを、何か言いたげな顔つきだった。千空は目で続きをうながす。
ゲンは目を閉じると、かなり早口に、一気に吐き出した。
「千空ちゃんは、神様みたいに心広すぎ。見えてるものが全然違って、まるで別の世界の人みたい。でも神様にしちゃ、ちょっと司ちゃんに振り回されすぎかな。千空ちゃん、起こしてからずーっと司ちゃんの対応してて、逃げて殺されて武器作って貴重な時間むだに使って、向こうのせいで死人出たことにまで苦しんでさあ。何で千空ちゃんばっかそんな目に合わないといけないの。何で千空ちゃんが司ちゃんのことそこまで考えないといけないの。大体、司ちゃんさえいなかったら――」
「ゲン」
たしなめるのではなくなだめる強さで、千空は自分の代わりに憤ってくれているらしい男の名を呼びかける。
「ゲン、」
なおも言いつのろうとする饒舌な男の口をふさぐため、再度名前を呼びながら手を伸ばす。白い横髪に触れ、前髪に触れ、頭頂部に触れた。
「俺と大樹が、自分たちが生き延びるために司を起こしたんだ。テメーも、司がいたから起こされたんだ。俺もテメーも大樹も、司が復活してなきゃ今生きてねえよ」
ささやくような声でそう言って頭を撫でると、ぶつかるようにゲンがしがみついてきた。
長い袖と、花の香りに上体が包み込まれる。相手の体温が低く着込みすぎていることもあり、伝わる熱はわずかで、やはりそれほど違和感はない。
嗚咽の気配に気づいて、千空は少しためらった後、宙に浮いた左手を相手の背中にゆるくまわした。たしかな鼓動が感じられ、自分が守った命だ、と痛感する。
この手が、ちゃんと人を救えたこともあるのだ。ゲンはその証だ。そして、そのことによって自分も救われ続けている。
そう思うと胸の奥がぎゅっとした。あの時、失われなくて本当によかった。そう思って、年上のはずの男のふるえる背をそっと撫でる。
ゲンの体からたちまち力が抜けたのが感じられた。弛緩して、脱力して、しがみついてくるというよりは、全身を預けてくるような重みに変わる。生きている人間の重みだ。
何だかよく解らないが、この石世界、手に入れたばかりの科学王国では、たった二人の現代人だ。せいぜい大事にしなくては、と考える。
長い沈黙と抱擁が続き、やがて千空の肩の上で、ゲンがゆるゆると長い息を吐いた。
「あー……、俺、千空ちゃんのことがすきだ」
息を吐ききった後、そう付け加えられて驚いた。
「ゴイスーすきだ」
顔のすぐ横で、ひどくまじめな声でそう言われ、千空は「気持ち悪ぃ」と嫌がることも、「待て、今そんな話になる流れだったか?」と突っ込むことも出来なかった。
ゲンにとってはそういう流れだったのだろう。恐らく惚れたはれたの話ではない。コハクと同じだ。非常時ゆえの、人としての生きざまの話だ。
だから千空は何も言わなかった。ゲンも特に反応を求めないまま、言いたいことを言う。
「千空ちゃん――神様になっちゃわないでね。司ちゃんに勝って、全人類救っても、皆にあがめられて乗せられて、どっか遠いところに行っちゃわないでね。いつまでも俺の手の届くとこにいてね」
千空は眉をしかめて吐き捨てた。
「なるわけねえだろそんなもん。何が神様だ。いつもこんなに行きづまって、ギリギリで、トライアンドエラー繰り返してる神がいるか。そんな超然としてられりゃもっと楽に決まってんじゃねえか。人間だからこんなに、」
そこまで言って絶句する。
折り重なった骸と、苦渋に満ちたいつかの司の表情が脳裏をかすめたからだ。それは切り離せない映像として、うすい胸に、焼印のように食い込んだ。
「――無力で、」
言葉が続かず、相手の背に回していた手を自分の額に当てる。ひどい顔と声をしている自覚はあった。
「……辛かったよね。自分のせいで村の誰かが死んじゃうかもって怖かったよね。ようやく全員助かったと思ったら敵が死んでて、その後始末までして、ずっとずっと苦しかったよね」
苦渋と悔恨が肌を通じて伝わったのか、ゲンがおだやかに、噛みしめるような声音で言った。肩を抱きしめられ、むせるような花の香りにくるみこまれる。
人工の香料による華美な香りではなく、ついさっきまで生きていた花のそれだ。名前は知らないけれど、自分たちに似合いの、素朴な野の花の匂い。
千空はそれを、とても好きだと思う。
「今後誰がどうなっても、たとえ味方が死ぬようなことがあっても、誰も千空ちゃんを責めたりしない。あれだけみんなを生かそうとした千空ちゃんを知ってるもん。でももし万が一、いつか誰かが責めたとしても、世界中が敵にまわったとしても、俺だけはずっと千空ちゃんの味方よ。それで死んでも悔いはないよ」
「ヤメロ」
極端な台詞は、慰めのためのはったりにしては、物騒すぎて恐ろしい。
「自分の損得しか見てない」「世界一ペラッペラな男」というゲンの設定は、先日からの行動を考えればすでに瓦解しているも同然だ。この案外律儀な男は、本当に自分の味方をすることで殺されてしまうかもしれない。先日、自分の身代わりのようにマグマに強襲され、負傷したことを思い出す。
考えてみれば、司はゲンを目にしたら最後、自分を殺すよりも先に殺してしまうのではないかと思った。あの男は、裏切りには容赦しないだろう。ゲンはどう考えても武力担当ではないし、今後は最前線に置かない方がいいかもしれない。
そんな千空の思考を読んだかのように、聡いメンタリストは、至極軽い調子で次のように言った。
「だから――だからさ。最期まで、俺をそばに置いてね?」
――ああ、そう繋がるのか。
瞑目する。
こんな重い台詞を喋っていてさえ薄っぺらく聞こえる男の軽妙さが好ましくて有難くて、千空は喉を鳴らして笑った。年上のメンタリストは、さすがに気づかわせる隙を見せない。
「何でここで笑うかなあ、ジーマーなんだけど。ま、嫌って言っても勝手についていくけどさ」
耳のそばでぶつぶつ言っているのがくすぐったくて、「いつまで張り付いてんだ、暑苦しい」と乱暴に突き離す。「ドイヒー!」と叫びながらゲンは案外簡単に吹っ飛んだ。
「あーあ、千空ちゃん抱っこしながら寝かしつける予定だったんだけどなあ」
後ろについた肘をわざとらしく擦りながら、とんでもないことを言う男に呆れ返る。
「キモいこと言ってんじゃねえ。全力でご遠慮願うわ」
「でも人肌とか、鼓動とかあった方が眠れない? 今の千空ちゃんの場合」
「絶対いらねえ、テメーのご丁寧なメンタルケアで充分すぎるわ」
ならいいけど、と言って隣の敷布に転がる男を見て、千空は出入口の扉を閉める。九月の明け方の空気は冷たい。このまま寝てしまうと風邪をひく恐れがある。
夜明けまで約二時間。ならあと三時間は眠れるだろう。
「ねえ千空ちゃん」
敷布に横たわると同時に、闇の中、ゲンの声が響いた。
「甘い、って言われるかもしんないけどさ。俺はこうなってもまだ、司ちゃん帝国の内側から切り崩せないか、って考えちゃうんだよね」
何でもないような声で話す内容の重みに、千空は胸をつかれる。
メンタリストがそう考えてしまうのは解る気がした。暴力の気配に対し、すぐさま花を用意した男である。自分がすぐに武器を作り、反撃を考え、戦争やむなしと判断したのとちょうど対照的だと思った。
クロスボウを作り、火薬を作り、刀を作った自分である。このまま人を殺す武器を量産し、訓練して、司軍の強さに対抗しうる軍隊を作ることもできる。
だがきっとこの戦争は、殺し殺され勝利して決着するものではない。
それでは、獅子王司をすくいあげることはできない。
「べつに甘かねえよ。いい案思いついたらすぐ言いやがれ。あっちにいたテメーが一番解んだろ、どこに突破口があるとか」
「うん、考えてみるね」
ゲンが微笑した気配がした。
――この男がそばにいれば。
自分は道を過たずにすむのかもしれない。生きるか死ぬか、いちかばちかの時にも、最適解を導き出し、最善の方法をとれるのかもしれないと思った。
それならば、多少の危険はあろうが、ゲンを最前線に置く意味はあるのかもしれない。
先ほどゲンが言った、「やろうとしてること解っちゃたからね」という言葉がよみがえる。金狼を助けるため鉄筒に火薬を詰めはじめた時、千空は誰にも何も説明しなかった。ゲンは千空の思考が読める上、その理想を共有できる、稀有な存在なのだ。
「俺がハッタリの銃思いついた時、テメーがマグマ動かしてくれたのは助かった」
自分が予想する範囲を超えていい、自由に采配していい、だからあんな当意即妙の活躍をもっと見せてほしい、と思う。
ゲンは再び、千空の考えを読んだかのように言った。
「ああいうこと、もっとやっちゃっていい? 千空ちゃんの意を汲んで、舌先三寸で人を操ったりしていいの?」
私利私欲のためにそんなことをする男ではないともう知っている。ナンバー2に甘んじても気にしない男だということも。
「あ゙ぁ、寝技はテメーに任せる」
信頼と許可を言外に伝えた後、千空はここ最近ずっと考えていたことを口に出した。
「だから、頼みがある。テメーには、居住区にこれから建つ『新村長の館』に住んでもらいたい」
「えっ」と心底驚いたような声が聞こえ、千空は闇の中、目をこらす。仰向けになっていた白い顔がこちらに向けられているのが解った。
「ジーマーで? 俺、こっちにいちゃダメ? そりゃここは狭いけど、ラボの隅でいいからこっちに住みたいなあ」
「ダメとかじゃねえ。俺が、あっちに住んでくれないかって頼んでる。現代人がいないのは不安かもしれねえが、基本的には害のないやつらだ。あるとしたらマグマぐらいだろ、で、テメーはアイツもう懐柔してんだろ」
「いや、マグマちゃんはいいんだけど……頼むって、何で? それも『新村長の館』って、千空ちゃん住まないと意味ないじゃん」
「俺とクロムは基本こっちにいる。クロムはもともとここに住んでるし、科学倉庫もラボもあるからその方が効率的だ。でも、科学王国のメインが全員こっちに住んじまったらダメだ。石神村の中心はあくまでも居住区だ。テメーはカセキみたく、昼はこっちにいても夜はあっちに帰ってくれ。俺もたまには行く」
「たまには、って……」
ゲンの声があまりにもしょげていて、千空は「月に一回」と思っていたところを脳内で修正する。約束が守れるかはともかく、とりあえず今は納得させることだ。
「週に一回は泊まる。それでいいだろ。人が住んでないと荒れるから、館の管理をテメーに任せる。内装とかすきにしていいから、せいぜい清潔に保ってくれ」
「ああ、そういう……ならしゃーないね。ほんとに週一は来てよ?」
「あ゙ぁ、それで、泊まった時は村のことを報告してくれ。コクヨウもそうだが、テメーも代理に置いとくこと皆に伝えるから、急を要する案件じゃなければ一旦溜めとけ」
「なるほど、村長代行ね、まあオッケー。コクヨウちゃんは村の奥にいるから、居住区で何かあってもすぐ解んないしね」
「そういうこった。これから雪解けまで司軍が攻めてくるとは思えねえが、万が一ってこともあるからな」
村長という立場になった以上、そして自分が村を戦争に巻き込んだ以上、目の届かない範囲を作りたくなかった。村の中心で代理を任せるならゲンが一番適任だ。すなおにそう思う。
「ただ、館に女は連れ込むなよ。テメーの痴情沙汰でも、一応新村長の家ってことになるからな。他所で逢引しろ」
「えっ、ないよそんなの。何なのいきなり」
「さっき、好きな子といちゃつきたいとか言ってたじゃねーか」
「それはいずれの話よ! この村の女子に手ェ出すとか怖くて考えられないよ! それこそ殺される!」
屈強な村の男たちに袋叩きされることを想像しているのか、ゲンが隣でぶんぶん首を振りまくっているのが解る。
「そうか? 案外祝福されんじゃねえか? すぐ結婚、子供、ってなりそうだがな」
「それが困るの! ばれたら即結婚させられるやつでしょ絶対。今はそんな場合じゃないってさすがに俺にも解るよ!」
「じゃあ、せいぜい誰にも惚れられねえよう気をつけやがれ」
笑いながら言うと、ゲンは先ほどと同じくむう、と唸った。
「大丈夫、この世界じゃ俺みたいな男は女子に受けないから」
「そうか? メンタリストなら常にモテモテじゃないのか?」
「そんな上手くいくんだったら苦労しないよ~~」
まるで現在苦労しているかのような言い方に、千空は首を傾げる。
ハーレム願望をあっさり捨て、「好きな子一人と幸せになれたら」とやけに具体的なことを言っていたことを思い出す。もしかしたらかれには、既に意中の相手がいるのかもしれなかった。ならあまり突っ込まない方が無難だろう。恋愛相談を持ちかけられても困る。
「あんま考えなくていいよ。とりあえずそういう心配は一切必要ないから! 女の子のこと考えてる暇なんかないから! もしそんな噂が立ったとしても完全に勘違いか嫌がらせだと思ってくれる!?」
やけに否定してくるのが面白くて喉を鳴らす。年上のメンタリストはこんな話題など朝飯前かと思っていたら、自分のこととなるとそういうわけでもないらしい。
案外可愛げがある、と思うと笑いが込み上げてきた。
「だから、何でそこで笑うかな~~」
恨めしげな声と、ふたたび起こる笑いの衝動に、ああ平和だ、と痛感する。
消えない爪痕は残ったが、常に針で全身を貫かれているようなぴりぴりした日々はとりあえず終わりを告げた。それがよく解って、そばの相手に感謝する。
夜が明けたら、本格的に司帝国をどう攻略するかを考えよう。武器ではなく、何をクラフトすべきなのか、何があればあの武力に対抗できるのか。少しでも平和的な解決方法を模索しよう。
前向きな気分になれたのが有難くて、千空は口唇に笑みをはいたまま隣の男に拳を伸ばす。祝福であり、尊重であり、友情のつもりだった。
怪訝な顔をしながら、ゲンがそれを掴む。
違うだろ、どう考えてもそこはフィスト・バンプだろと思うとおかしくて、千空はからだを曲げて息が止まるほど笑った。
「もう、何なの~~」
困ったように笑う男は、これまでそんなジェスチャーを必要とするような闘いの場とは無縁だったのだろう。そういえば、勝敗の決まる団体競技をしているイメージは全くない。石化前から、かれは骨の髄まで平和を好むマジシャンだったのかもしれなかった。
久々の、もしかしたら復活以来初めての、心の底からの笑いの衝動に、千空は涙を滲ませて身を任せた。
◇◇◇
夢とうつつのはざまで、こちらを向いて眠るゲンの顔を見つめている。
放射冷却による気温低下の後、朝の気配を感じるといつも少しだけ恐ろしさと煩わしさが頭をよぎった。だが、今はどちらもない。前向きな気分だけが千空の頭を占めている。
思えばこれまで、司の攻撃に備え対抗するというような、受け身の状態がずっと続いていた。それが一旦クリアになり、目的が明確になった。この男のおかげだ、と強く思う。
この、虫も殺せないような男の存在が、どうしてこんなに千空を安らがせるのかということ。
この花の香りに、どうしてこんなにいとおしむような感情が湧くのかということ。
この男は人を殺めない、という安堵なのかもしれない。生きている花を扱う男が、人を傷つけるはずはないと思っているのかもしれなかった。ゲンは恐らく、断面の風化した欠けた石像でも壊すことはできないだろうと思う。
そんな男が、この先も自分のそばにあり続けるということを考える。
――君の知見を、今後どう活かすのか、本当によく考えてみてほしい。
深みのある声が、あざやかな情景をともなって千空の脳裏によみがえった。
どこまでも広がる青い空を背景に、黒人の医師が、こちらの肩に手を置いてこう言った。
――恐らくこれから、世界中の様々な人が君を欲しがるだろう。でも、いつも間違えないでほしい。科学は力なんだ。
小学生の時からNASAの科学者に幾度となくされてきた話だ。だが白髪白髯の医師は、ゼノとは百八十度違うことを言った。
――人を殺すことも生かすこともできる。それをどう扱うかは君次第だ。科学自体に罪はない。それを罪にするのか宝にするのか、君の判断がすべてなんだ。
年齢不詳の顔にははじめ厳しい表情が浮かんでいたが、やがてそれは柔和な笑みに変わった。
――正しく扱えれば、科学はきっと、君や君の大事な人を守る盾になる。
あの時から、かれは千空の中の一つの基準になった。もうずっと長い間、祈りであり、支えであった。
そんな心の灯のような存在は、今では増え続けるばかりだ。
医師の顔に百夜の顔が重なる。そして幼馴染の顔が、目の前の男の顔が。
司がこの先、死ぬか折れるかするまで、戦争は続いていくだろう。
だが、自分は間違えてはいけない。
かつて司のことを警戒するあまり、「殺さなければ」と思いつめた千空である。だが今ではその判断を訂正することができる。すくいあげてやりたい、と冷静に考えられる。
この手は人を殺す武器を作ることもできるが、同時に人の命を守り、救うこともできるのだ。
ゲンが教えてくれたこと、自分を選んでくれたことを、いつも心の中を照らす光として、忘れずにいたい。
自ら選択した厳しい戦争のただ中、常にふるえるような焦燥と、重圧がある。
だが、決して一人ではなかった。
何に価値を置くのか。
何のための勝利なのか。
――誰が、何のために、どのような勝者たれと自分に願っているのか。
たとえ悪夢が心を曇らせても、決して忘れたくはない。強くそう祈った。
了
2021年8月20日 pixivへ投稿