恋に落ちた日
8768文字。
マグマ襲撃直後のゲン千。4巻17頁下段の小さなコマからのお話です。
「会う前から割と好き」だったのが、恋に落ちたのはこの時だったらいいな。
痛い思いをするのは大嫌いだった。
子供の頃から、血を見るようなことは真っ先に避けた。ゲンは誰かを殴ったこともなければ、殴られたこともない。そうなる前に、抜群の処世術でいつもどうにかしてきた。マジックも心理学も、その延長上にあったようなものだ。
だがこの石世界では、暴力も殺人も珍しいことではなく、口先三寸ではそれを防げない場合があるらしい。自分のように血を避ける人間は、今後は搾取され、蹂躙される側になるのかもしれない。遠ざかっていく意識の中、うそ寒いことを考える。
「出来るだけ動かすな。コハク、スイカ、テメーらは先に戻って寝床と湯の準備だ」
冷静で的確な指示が頭上から聞こえる。痛くて怖くて気を失いそうなところ、この声が聞こえると覚醒できた。意識を手放してしまった方が楽なのかもしれないが、これから何をどうされるのか知っておきたい気がして必死に耳をすませ、感覚を集中させる。
走り出す足音。転がる音。細い板か何かに乗せられる浮遊感。胴を固定され、運ばれていく感覚。
「クロム、テメー上から引っ張り上げろ」
「テメー下で支えてられんのかよ」
「梯子に板つけてっからいけんだろ。無理ならコハク呼ぶ」
横になっていた身体を板ごと縦にされて、腹の傷がひきつる感覚がする。痛みに呻くと、冷静なのに冷たく感じないあの声が、
「あー、痛ぇな。だがちーっと我慢しろ。動くと落ちんぞ」
と、顔のすぐそばで聞こえたから薄目を開けた。
目に血が入ったのか、目から出血しているのか、激痛が走る。欠けた視界の中、夜目にもきらめく赤い瞳と、白と緑の頭髪が見えた。ここ数日でだいぶ見慣れた異様な色彩が、こんな状況下、満点の星空を背景にして、ひどく神秘的なものに思える。
「見えてるし聞こえてんな、悪くねえ。頑張って意識保ってやがれ」
相手の顔に安堵が広がるのを見て、ゲンもまた安心する。目で承諾の意を示し、瞼を閉じた。
腰骨のあたりを両手で掴まれた、と思うなり、上方に引っ張り上げられる感覚がする。恐らくは科学倉庫の中に運ばれるのだろう。
頼りなく浮遊する感覚に思わず手を上げ、何かを掴もうとする。背後にあるはずの一本梯子を探したいところだが、そんな気力も体力もない。
「大丈夫だ、俺を信じろ」
えらく男前な言葉が響いたかと思うと、伸ばした右手を掴まれ、板の横に固定される。身体の右側は腰骨ではなく、その手ごと支えにされ、上に引き上げられた。
触れている手のあたたかさに、ゲンはまた安心する。この手には暴力の気配がない。ひどく荒れて乾いてはいるが、ゴツゴツ節くれだっていない子供のような手、恐らく一度も暴力などふるったことのない手だ。
この手は、あの光を生み出した手。
ラーメンを、鉄を、電気を生み出した手。
光そのものの手。
◇
「湯冷まし、もうちっといんな。どっかから調達してきてくれ。クロム、ヨモギ……ってもうやってるな。布がねえのが不便だ――って、何だテメー大量に持ってんじゃねえか。杠か?」
衣服をはだけさせられる間にも、次々と指示が飛ぶ。マジックのためあちこちに仕込んである麻布を見つけると、千空はかなり驚いたようだった。たしかに、特注で小川杠に依頼し作ってもらったものだ。
「もったいねえがこれ使うぞ。沸騰した湯に通して絞れ。湯冷ましとヨモギはこっち。よし、触診する」
濡らした布でゲンの身体を清めながら、腹から傷の具合をたしかめていく。殴られたところは、痛いがそこまで重傷ではないはずだ。だが石槍で突かれた傷は、ゲン自身にもどうなっているのかよく解らない。内臓まではいたっていないと思うが、それにしても痛すぎる。えぐられた腹の様子を想像するだけで叫び出しそうになる。
それなのに目の前の少年は取り乱すことなく、血が流れ続けているだろう傷口を観察している。いくら頭が切れようが知識があろうが、旧世界ではただの高校生だったはずだ。こんな事態に慣れているわけがない。そう思うのに、血にも怪我にもまったく動揺していない手つきや気配に安心して、何もかも預けていい気分になる。
彼がこの原始の世界にすでに適応していると知っているからだろうか。鉄や電球や、自分をよみがえらせた復活液を作ったと知っているからか。
科学者とはそういうものなのか、それとも彼の性格か、非常に几帳面で丁寧な仕事をする子だと思った。口から出る言葉は雑だし乱暴なのに、傷口を洗浄し、触る手つきにそんなところは微塵もない。雑菌が入らないよう、極力痛がらせないようにしているのがよく解る触れ方をする。
痛くて痛くて、何で俺がこんな目に、と泣き叫びたい気分なのに、絶対にみっともない姿を見せられないと矜持を保てているのは、高校生である彼がそうやって最大限に配慮してくれているからだ。必死に自分を救おうとしてくれているのが解るからだ。
手のひらに爪を食い込ませ、口唇を噛んで耐えていると、「ああ、痛ぇよな」と声がして、濡らした布を握らされ、口にも含ませられた。年下のくせにどこまで男前なのか、と感嘆する。
「口ん中切れてるとこあれば、とりあえずそれで拭っとけ。後でヨモギ入れる」
そう言われ、目を白黒させながら、舌先で痛いところに布を持っていく。そうこうしているうちに腹部の洗浄と止血が終わり、千空の指は上体へと向かっていく。
「骨にも内臓にも問題はなさそうだな。殴んのは超テキトーだったみてえだ。顔がちーっとひでぇが」
千空が座る場所をずらした、と思った途端、その上体が自分に被さった気配がして、ゲンは目を見開いた。
涙のにじんだ目を見られたくない、と一瞬思ったが、恐らく涙だか血だかもう解らないだろう。鼻からは血がダラダラ流れているし、布をつっこまれた口からは唾液だか水だかが垂れているし、みっともないことこのうえない。芸能人としてどころではなく、人間としてのプライドもズタズタになるようなありさまだが、不思議とそんな泣き言を言う気にはならなかった。
千空の態度が真摯かつ、紳士的だったからかもしれない。ひどい、と表現した顔を、彼は丁寧かつ几帳面に拭い清め、あちこちを確かめていく。
自分ならこんな汚れたガタガタの顔面、触れたくもないし、触れたとしてもどう扱えばいいか解らないだろう。瞼をこじ開け、鼻血を拭い、口の中を調べる千空の手にはためらいがなかった。低い声で異常のないことを確認し、時折ゲンを励まし、決して乱暴ではない手つきで顔に触れる。その冷静で温和な態度は、ゲンのささくれだった神経を随分なぐさめた。
この子はモテるだろうな、と思う。旧世界より、この世界でモテるタイプだ。自分とは真逆だ。同じように痩躯で非力で、力の支配するこの世界では真っ先に蹂躙されそうに見えるのに。
だが、彼は暴力のかわし方、向き合い方を知っていて、自分や他人が蹂躙された後も冷静さを失うことなく対応し、心身と秩序を回復させようとする気概と知恵がある。
さすが、原始の石世界でひとり生き延びられるわけだ。
そして――あの霊長類最強の男に、「殺した」と思わせつつ生き延び、いまだその心を奪い続けるという離れ業をやってのけるわけだ。
確かにこんな子、一度識ってしまったら、忘れられるはずがない。
「ん、終わり。あとは安静にしてやがれ」
ヨモギをいくつか貼り、口の中に放り込み、頬の一番ひどい部分にあて布をすると、千空は満足げにそう言った。
桶の水で丁寧に手を洗った後、立ち上がろうとする気配を、ひどく惜しいもののように感じる。
できればずっとそばにいてほしい。あたたかい手で触れていてほしい、あの声で話しかけていてほしい。彼の気配が遠ざかった途端、ひどく頼りない心地がして我ながら驚く。
必死に目で追うと、それに気づいたのか、千空が苦笑したのが解った。
「とりあえず身体洗ってくる。人の血は毒だからな。テメーらもたまにヨモギ換えるのはいいが、血には触れんじゃねえぞ」
後の台詞は他の三人に言ったのだろう。ゲンは納得し、引きとめる視線を消すために瞼を閉じる。自分の血が千空に変なものを感染させないよう祈るばかりだ。
この世界であの子に何かあれば、人類にとって損失以外の何ものでもない。自分を起こし任務を与えた人間とは真逆のことを、ごく自然に考える。
千空に救われ、その科学の恩恵を受けて、そう考えない人間はほぼいないだろう。大樹も杠も、この村で彼に救われた人間も、彼を守るためなら何だってするはずだ。そうなってしまう気持ちは解る。
すでにゲンも、そう思い始めていたからだ。
◇
ゲンは獅子王司に「復活させてもらった」と考えたことはない。端的に言えば、特に恩を感じていない。
状況把握できていないまま、いきなり突飛な依頼があったということもある。文明が滅び、自分を守れるのは自分のみという状態の中、霊長類最強の男に「依頼がある」と言われたら断れるものではない。
受ける以外なかった。そして最初は彼のもとに戻るしかないと思っていた。そのまま放浪してひとりで生きていけるほど知恵や力があるわけではない。司のもとにいれば、とりあえず衣食住が保証されることは明白だった。
それでも道々色々考えた。なぜ司は千空という男を殺したのか。無法となったこの世界で早速殺人を犯し、それを公言してはばからない男に従って、自分ははたして安全といえるのか。
千空というのが、洞窟横の日付を記した男であることは疑いようもなかった。彼のことを司は簡単にしか説明しなかったが、司帝国での生活でゲンが感嘆したもののほぼすべては、千空が編み出したものらしかった。
それは出立前、大樹と杠に会った時に裏打ちされた。復活液そのものも、千空が考え、大樹と共に作りあげたものらしい。だからそれを使って司が自分を復活させようが、司自身には恩の抱きようがなかった。彼は自分の役に立つと思ってゲンを起こしただけであり、立場的には対等に近いという気持ちがあった。
むしろ、復活液そのものを作った千空に恩義のようなものを感じた。司が現在復活液を独占し、好きなように使えているのは、単に彼が千空を殺したためだ。
大樹の話をそのように総括すると、ゲンはすぐ、千空が生きていた場合のことを考えた。
殺したと思わせながら生きているとすれば、霊長類最強に対抗できる能力があるということだ。そして、全人類を救うなどと考える人間である以上、彼が自分を殺すことはないだろう。今後自分が獅子王司に殺される可能性はあるが、石神千空がそうする可能性はほぼゼロだ。
その考えは、千空と対面して確信に変わった。力で人を蹂躙しない人間であることは一目で解った。彼の近くにはなつかしく慕わしい文明の気配があった。文明とは、科学技術や機械の発達など、物質的なものだけではない。ユーモアと遊び心に満ち、高い倫理性と道徳性に裏打ちされた、精神的なものも含まれるとゲンは考えている。
コハクが自分を害そうとするたび千空が押しとどめた理由は、勿論「ゲンが戻らなければ自分が死ぬ」という保身もあるのだろうが、それだけではないと確信している。彼は明らかに自分と同じく、血が流れるのを好まないタイプだ。
あえなく血が流れてしまった場合も目を背けず、冷静に的確に対応し、止血し治療してしまえる判断力と精神力を持ち合わせている。比喩ではなく本当に医療知識も豊富なようで、彼は二つの意味でドクターだといえた。
怪我や病気が命とりになりかねない、そして暴力が避けられないこの世界では、彼の存在は命綱だとゲンは考える。まるで神が絶滅寸前の人間を憐れみ、この世界に遣わしてくれたプレゼントみたいだ。
司帝国で病気になったらどうするのだろう。そう考えてぞっとした。自然の摂理とやらに従い、黙って死んでいくしかないのだろうか。健康で屈強で暴力に揺るがない人間だけが、あの完璧な孤高の王と共に生きていけるのかもしれない。
自分には無理だ、とあらためて思った。
◇
千空の指が、自分の傷や脈、体温を確かめる気配がする。
女性や子供は勿論、クロムの指との違いも、ゲンはすぐに解るようになった。几帳面で丁寧な触れ方、荒れてささくれた指先、子供のようにあたたかい体温。
これまでそばを通り過ぎて行った女たちの誰よりもやさしい指の感触に、不意に泣いてしまいそうになる。彼の指には、何故かそういった癒しやなつかしさを感じる。ずっと触れていてほしいと思う。
この世界に目覚めて十日と少し。こんなに優しく触れてくれたのは、彼が初めてだったからかもしれない。最後にこんな触れ方をされたのはいつか、もう覚えていないくらい昔だからかもしれなかった。
「まだちーっと熱があんな。でもそこまで高くねえし、傷口が化膿しているわけでもねえ。変な感染症の心配はもうねえだろ。やるじゃねえか」
顔を近づけてクククと笑われ、気分が浮上する。千空の笑顔と「やるじゃねえか」という言葉には、妙な中毒性がある。もっと笑っているところを見たい、その言葉を聞きたい、と思ってしまう。
普段笑わないわけではない。ここ数日しか知らないが、彼は基本的にいつも楽しそうだ。つんとすました顔や呆れ顔の時もあるが、それも含めて大抵機嫌よくしている。感情の起伏がないわけではないのに、情緒が安定していて落ち着いている。そのくせ、電球がついた時に見せた、子供のような笑顔ができるからたちが悪い。いやおうなく惹かれずにはいられない。
そういう人間は非常に付き合いやすいし、リーダーとしての素質がある。クロムのように科学を楽しむことはゲンにはできないが、この世界で生きていくなら、楽しんでいるリーダーが示す前向きな未来に向かって、明るい空気の中を歩きたいのが人情だろう。
ようするに――ゲンは科学王国に、千空サイドに寝返りたい。
決定的になったのは電球がついた時だが、千空を一目見た時から決めていた。そうでなかったら彼の前にすがたを現す必要はなかった。司のもとに帰って報告して終わりだ。危険をおかす必要はない。
復活してから司の笑顔を見たことはなかったが、千空は初めて見た時から笑っていた。周囲の皆も楽しそうだった。暑い中ついついラーメンを食べたくなった。その時点でゲンの、そして司の負けだった。
でもそう言い出すこともできず、逆に試すようなことを言って彼の出方をうかがった。少しでも高く自分を売りたかったのかもしれない。あるいはこちらについてくれと、彼に請われたかったのかもしれない。
だが千空は、ゲンに懇願することも、駆け引きすることもしなかった。
――そうしてくれると実におありがてえ。
「してほしい」でも、「しろ」でもない。
言葉で誘導し、色々なものを見せて、ゲンに選択肢を与え、決定権をゆだねた。ゲンの決定に千空自身の命がかかっていて、結論はたったひとつしかないにもかかわらずだ。
何という自信で、何という度胸かと思った。知恵も知識も出来ることも多いのに、彼は嫌な感じの思い上がり方をせず、ごく自然な自信を身に着けている。度量も視野も広く、ひねくれた物の言い方をするものの、心根はまっすぐで真摯だ。駆け引きが得意ではなく、ただ自分にできることを見せることで人を説得し、導いていく方法しか知らないように見える。
なら今後、自分が役に立てることはあると思った。彼に向かない権謀術数の部分を担い、そのメンタルをケアし、村の人間関係を調整する。司帝国の情報を流し、必要があれば諜報となり、信頼を築き上げて右腕となる。そうやって彼とともに科学王国を発展させていくシナリオは、今の自分にとってベストな選択だと思えた。この原始の世界に復活して、ゲンは初めてやりたいと思えることができた。
腹が決まった後はタイミングの問題だった。千空は最初の時以外、どちらにつくという話をゲンとしなかった。だから電球の光を見た後、わざとひとりになった。千空も手ごたえを得たと感じただろうから、皆が寝静まったら必ず自分のもとに来るはずだとにらんだのだ。そして襲撃され――怪我を負った。
あの時考えた交渉材料はまだ有効だろうか、と考える。
ゲンはうすく目を開く。千空がこちらを覗き込んでいた。灯の光に照らされ、宝石のような瞳がすきとおるように赤い。それがすっと細められた。笑ったのだ。
「おー、気分はどうだ」
たまらなく魅力的な顔だった。思わずゲンも口唇を曲げて笑ってみせる。
それだけで充分通じるだろう。傷は痛いし、全身熱いし、息は苦しいけれど、気分は悪くない。むしろ千空に気にかけられ、笑いかけられて非常に嬉しい。
恋する女子高生か、と我ながら呆れるけれど、今この世界で自分が頼れるのは彼しかいないのだから、これは仕方がない反応だと無理やり自己弁護する。
「本当に大丈夫なのかよ。死ぬようなことはないのか?」
「あー、このままいけば問題ねえはずだ。ただ、熱が下がるまで安静にしてた方がいい」
クロムにそう答えながら、千空は身を起こし立ち上がる。彼が遠ざかる気配にはいつも慣れない。
「クッソ、絶対犯人捕まえんぞ!」
「犯人捜しなどより今は重大な問題があるぞ」
すぐそばに座っていたコハクが口を開いた。
「この重傷ではいつ歩けるようになるかもわからん。だがゲンが司の元へ戻らなければ千空は殺される」
千空のいらえはない。目を向けると、こちらに背を向けて腰を下ろしたところだった。
その細い背中。項。
最初から強制も懇願も、交渉さえしなかった彼である。こんな状態になったゲンに戻れとは言わないだろう。今なら恩を売ることも可能だが、絶対にそんな手は使わないだろう。それは明白だった。
――また、殺されるのに。
どうやって生き延びたのかは知らないけれど、司が「殺めた」と言う以上、彼はひどい目にあったはずだった。痛みや恐怖は、今回の自分の比ではなかっただろう。
再度それを味わうことになるのに、今度こそ本当に死ぬ可能性が高いのに、手負いの自分に「戻ってくれ」という一言を言わない。それが彼の倫理観であり矜持だ。
この石世界では、未成年だろうと高校生だろうと、誰も守ってはくれない。理不尽な暴力で、あるいは病気や怪我で、旧世界なら考えられないような理由で、人の命は簡単に奪われる。そんな世界で、人としてあるべきすがたを保ち続けようとする姿勢は、ひどく尊かった。
たとえ司に殺されたとしても、この子の側につきたいと思った。自分にできることをしたかった。
彼が自分に与えてくれたものの、その半分でも返したかった。
――大丈夫だ、俺を信じろ。
あんな男前な台詞は、ゲンには言えない。
あんな、暗闇の中のただ一筋の光みたいな存在にはなれない。
それでも。
たった十六歳、まだ高校生の男の子。恐ろしいまでの叡智と健全なモラルを秘めた、人類唯一の切り札みたいな、神様からのプレゼントみたいな存在。駆け引きの何たるかを知らない、剥き出しの魂がきらきらして綺麗で泣きたくなるような子を、スマートでなくていい、自分なりのやり方でいいから、守れる人間になりたかった。
旧世界の倫理を知る、年上の男として。
◇
コハクとスイカが帰り、クロムが寝入って二人になったタイミングで、ゲンは背を向けたまま「千空ちゃん」と呼びかける。気づいた千空が視線を向けたのが感じられた。
「千空ちゃん、教えて?」
するすると気配が近づいてくる。ゲンが振り向かないのが解ると、千空はためらわずに身を乗り出し、耳を寄せてきた。容体が急変したと思ったのか、全身でこちらの様子をうかがっている。
そんなにやわくはないよ、と思った。
痩躯で非力で、血を見るのは大嫌いだけれど。そのためにあらゆる心理的テクニックを身につけて、軽薄を装って完全武装するような人間だけど。
外しちゃいけない時があるのは解る。
彼の心を掴むなら、今、ここだ。
「この石の世界で――作れる? 千空ちゃん」
そうして言った。
あの夜思いついた交渉材料を。
弾けるような感覚も、甘さも冷たさも何もかも好みの、刺激的な、けれどどこか郷愁をそそる味。ひどく幼稚じみた、だが科学を使わざるを得ない、恐らくは彼好みの炭酸飲料。
重苦しい霊長類最強を裏切るには軽すぎる、けれど軽薄で鳴らす自分には似合いの、その薄っぺらい取引を。
「コーラを、一本……」
予想以上におそろしく男前な返事が返ってきた時には、すでに恋に落ちていた。
◇
この非常時、自分を救った人間、それも男相手の惚れたはれたがどこまで本物なのか、それは明らかに勘違いだ、吊り橋効果だと彼は言うだろう。
だがこの胸に生まれた光は本物だった。それはゲンが一番よく知っていた。
今までそばを通り過ぎた誰よりもあたたかいものをくれたから。それが自分を救ったから。
今度は自分が彼を救わなければならない。役に立たないといけない。そうやって一歩ずつ認めさせていく。心を手に入れていく。
ゲンには展望がある。千空の側でその右腕となり、科学王国の発展に貢献し、文明を復活させることだ。自分の才能を活かせる、やりがいがあるというだけでなく、それが結果的には自分を守り、千空を手に入れることになると知っている。
恋も仕事も地位も、身の安全もコーラも、何もかもを手に入れる。
このクッソふざけた、理不尽と無法と暴力のはびこる、原始の石世界の中で。
唯一の、文明の光と共に。ずっと。
了
2021年07月24日 twitterとpixivへ投稿