SHINE
龍千

SHINE

7831文字。
七海の日合わせの龍千。千空の司へのクソデカ感情を受容する度量のある龍水です。
「成果上げたヤツには見返りねえと士気上がんねえ」(11巻136頁)の下段2コマの話。


「千空」

 自分を呼ぶ声に、無理やり瞼をこじ開ける。憎らしいくらい精悍な男の顔が、目の前に大写しになっている。
 その背景は、まだほんの薄く色づいただけの闇だ。差し込む月明りにぼんやり浮かび上がる内装から、科学倉庫でも展望台でもなく、ここが村の中心地だと解る。昨夜は恐らく、宴の後そのまま寝入ってしまったらしい。
 瞬時に状況を把握すると、自分に被さるようにしてこちらを見る男に、千空は冷静な声で問いただした。

「何バッチリ着込んでんだテメー、まだ夜も明けてねえじゃねえか」 
「とりあえずは二樽で足りるか? もっと欲しいだろうが、重量の問題があるからな!」

 油田探索に出発するため、龍水にこうやって起こされたことは一度や二度ではない。だが、油田は昨日発見された。探索に行く必要はもうない。
 むしろ、「二樽」というのは石油のことだろうと思う。そして「二樽で足りるか」というのは――自分がまさに昨夜綿密に計算して、計算して、「足りる」と回答を出したその挙句、意識の外に放り出した考えだ。
 ――まさか。
 妙な符合に胸がざわめく。
 そんなことがあるだろうか。自分が放り出したものを、大事に拾う人間などいるはずがない。ましてや、口にも顔にも出していないのだ。
 何も言わない千空に焦れたのか、龍水は枕元に並べられた皮袋やらの荷物を掴み寄せ、敷布の上にぽんぽん放り投げた。どうするのかと思って見ていると、敷布の両端を掴み、寝ている千空ごと簀巻きにしようとするから驚いた。

「いや待て待て、起きるから!」
「面倒だからこのまま連れていく。大声を上げるなよ? 村はまだ眠りの中だ」
「荷物みたいに運ぶんじゃねーよ!」

 敷布ごと小脇に抱えられながら、それでも抑えた声で抗議する。
 明け方のひやりとした空気が剥き出しの腕や足に触れ、外に出たのだと解る。布に覆われた部分は温かく、龍水に触れている部分はもっと熱い。
 抜群の安定感で抱えられてはいるものの、自分が暴れたらバランスが崩れる可能性は高く、大人しく運搬されることにする。千空の読みが当たっていれば、このまま吊り橋を渡り、展望台に向かうはずだ。橋の上で落とされたりしたらひとたまりもない。

「着いたぞ」

 千空が簀巻きから解放されたのは、科学倉庫の真下だった。
 案の定、気球は夜明け前の空に大きく膨らんで浮かび、展望台の頂上にはクロムがいた。
 強引かつスマートな手段だ。簀巻きのまま搭乗部に運搬されていれば完璧だった。しかしさすがの龍水も自分を抱えたまま頂上までは行けなかったのだろう、と、そばに聳え立つ男を見上げる。

「早く準備するといい。しばらくは戻らんだろう?」

 穏やかな眼と声で言われ、今度こそ胸を突かれた。
 ――この男は。
 千空の希望を見抜いている。昨日皆に伝えるか一瞬迷い、すぐに放棄した考えのことを。
 採れた石油をテストをする必要があった。無論それは石神村でも出来なくはない。むしろカセキもクロムもこちらにいる現在、村でしない方が不自然だろう。万が一品質に問題があった場合、油田に近いこちらの方が、奥を掘るなり周囲を掘るなりできるのだから、合理的ともいえる。
 なのに、千空は別の場所でテストしたいと考えた。そちらの方が、必要なものが揃っているといえば揃っている。だが代わりのものを作れなくもない。物理的なことだけでいえばどちらでも変わりない。五分五分だ。
 だからこそ、千空は自分の希望――感情を優先することができなかった。自分から言い出して、皆に色々邪推されるのが面倒だったというのもある。
 だから結局は、なりゆきに任せようと思った。カセキに相談して、必要なものや環境を考え、働く人間が一番合理的だと考える場所でやろうと決めたのだ。

「いると思うもんはクロムが積んでんだろ。準備なんざ必要ねえ」

 ククク、と笑って一本梯子をするする登る。腰に巻く革袋さえあれば大抵はこと足りる。それを敷布ごと抱えた男は、黙って後からついてくる。
 展望台の上に着くと、クロムが忙しく立ち働いていた。離陸の準備は万端である。こんな時に余計なことを言い合う仲ではないので、僅かに口唇の片端を上げると、相手は両側を吊り上げて笑った。有難い存在だ。
 搭乗部に手をかけ乗り込もうとすると、後ろから肩に手を置かれた。振り返る間に龍水がひらりと先に乗り込み、こちらに腕を差し伸べてくる。

「何の真似だ、テメー」
「昨日、『成果上げたヤツには見返りがないと士気が上がらん』とか言った奴がいるとか聞いてな」
「羽京の奴……」

 クロムと違って余計なことを言いたがる奴らだ、と思う。ゲンも一枚噛んでいるのだろうか。思えば、龍水が思いつくようなことではない。
 「見返り」の発案者がいて、説得者がいて、実行を了承した人間がいるのだろう。面映ゆくはあるが、それでも気分は悪くなかった。

「では皆より一足早く、凱旋と行こうじゃないか?」

 王のように傲然と笑い、なおも手を差し出してくる男は、本来こんな朝早くから、一文の得にもならないことをやるような人間ではない。
 ――だからこそ。

「……いいぜ」

 千空はその手をとると、相手が自分の体を支えて引き上げるままに任せた。映画のヒロインのように優雅に気球に乗り込み、いつになく自分は何もせず、龍水とクロムが出発準備を整えるのを眺める。
 これは「見返り」なのだと龍水は言った。
 ならば自分が放棄したものを、願望を、感情を、大事に拾ってくれる人間たちがいるのだ。
 ふと眼下を見下ろすと、羽京とゲンとフランソワが見えた。「またすぐにね」とゲンの口元が動く。頷くかわりに、千空は今度は口唇の両端を曲げた。
 精一杯の感謝の念を込めるうち、気球は静かに屋根を離れ、空へと飛び立っていく。

       ◇

 航空写真を撮る必要も、何かを探す必要もない搭乗には慣れなかった。
 思えばここ最近、毎日のように龍水と二人で気球に乗っていた。散々色々なことを話した気もするし、沈黙が支配する時もあった。だがこれまでは共通の目的があったし、それに集中していたので、会話に困ったことはない。
 千空は青みを増した空を見上げる。水平線の向こうには黄金の気配があるのに、星と月が未だきらめく不思議な空だった。おかげで眼下の景色がかなり見分けられる。黙って見つめていると、様々な思い出が去来して落ち着かない気分になるほどだ。
 石神村に来る時にはそんなことはなかった。クロムが騒がしかったのもあるし、千空自身も気球初搭乗だったため、あれこれチェックしたり考えることに忙しかったという理由が大きい。積乱雲を見つけてからは景色どころではなかった。

「もうカメラ持たなくていいのは楽だが、何か変な感じがするな」

 離れていく石神村も前方も見ていられず、夢のような空を眺めたまま、先ほどから考えていることを口に出す。
 昨日の油田発見の余韻と疲れ、若干の眠さもあり、これから先のことはあまり話す気分になれない。

「ハッハー、暇なら思い出のある場所について俺に解説しろ」

 東への帰路はクロムに説明したとおり気楽なもので、龍水もいささか手持ち無沙汰のようだった。
 思いがけないことを言われて、千空は思わず相手の顔を凝視する。眼下をなるべく見たくないから空を見上げていたというのに、わざとか、この男は。

「懐かしくも痛ましい思い出がつまっている、という顔をしているぞ」
「んなわけねー」

 にやりと笑って見せる男に毒づいたものの、他にすることもない。沈黙にも耐えきれず、結局千空はあれこれ話すはめになった。
 龍水はこれで意外に人の話を聞きたがるし、またそれをよく覚えている。特に、千空が目覚めてから自分が復活するまでの話に興味があるらしい。
 また、彼はこの道のりについては、気球で一度通過したことがあるだけだ。自分の足で歩いたことはない。話を聞きたいというのは解らないでもなかった。

「あの辺が、俺が初めてコハクに逢った場所だ。大きな木の下敷きになっていたところを助けた」
「フゥン千空貴様、ヒョロガリのくせに王子さながらのご登場だな」

 感心したように言う龍水に苦笑する。コハクが何故「木の下敷きになっていた」のかに触れずにいてくれるのは有難い。

「あー、科学の知識が使える範囲なら、そういうこともできるな。コハクは、ルリのために温泉の水を汲みに来ていた。あの辺が箱根だな。あの湯には俺も大樹も杠も入った。硫黄を採りにきたんだ、東京からはるばるここまで」
「硫黄?」
「火薬を作るためな」

 龍水は聡い男だ。あるいは誰かに聞いて知っているのかもしれない。何にしろ、それ以上尋ねることはなかった。
 その配慮の後で言うべきか迷ったが、あまりにもはっきりとその場所が見分けられ、感慨深くなったため――千空は結局、その言葉を口にした。

「で――この辺で司に殺された、と」
「……火薬は間に合わなかったのか?」
「間に合ったんだがな――」

 当時の司の非道ぶりを言わずにすまそうとすると、どうにも不自然になる。知っている人間なら気にしないが、後で起きた龍水には、司の紳士的とはいえない過去をべらべら話す気になれなかった。終わった話でもあるし、フェミニストの気がある龍水に、変に先入観を持たれたくない。

「不意をつかれたというか、まあ火薬の出番はなかったな。いや、後で大樹が使ったんだったか」

 火薬の跡さえ見分けられる気がして目を細める。だが、薄闇の中そんなものが目視できるわけもなく、そのまま気球はあっけなく箱根を通過した。

「大樹は殺された貴様を守って逃げたのだな。そうして復活させた、と」
「ああ、ちょうど石化が残っていた場所を司に攻撃させたからな。そこに復活液ぶっかけてくれた」
「他の方法で殺されていたら無理だったということか? 司がたまたま貴様の思惑どおり攻撃しただけで――もしも、」

 絶句した龍水に気づき、その顔を見上げる。顔色までは解らないが、こちらを向いた顔からは表情が消え失せていた。

「一撃でやれ、血は流させんなって言ったし、『苦しみは与えない』ってあいつも約束したから、そう選択肢はないだろ。計算ずくだ」
「貴様は――無茶すぎる。そのまま殺されていれば、今頃は司がこの国を支配し、俺は復活しなかったというわけだ」
「あー、テメーは間違いなく復活できなかっただろうなァ」

 いくら若者でも、司が既得権益者の権化のようなこの男を起こしたとは思えない。そう思うと何だかおかしくて、からかう口調になる。
 だが龍水は真剣な顔で千空を覗き込んできた。

「千空、俺は何度考えても、なぜ貴様がそんな人間を命がけで助けたのか、今も様子見にいの一番に帰りたいのか、全然解らん」
「あー、俺にも解んねえわ」

 あけすけに言われて、ガリガリと耳を掻く。景色を見るふりをして、まっすぐな視線から思いきり目を逸らした。

「羽京に誰も死なせねえって約束したしな。司に死なれちゃ寝覚めが悪いっていうのもある。手のかかる子ほど――ってやつじゃねえ? 放っておけないところがあるっつーか」
「フゥン、今度は眠り姫を起こす王子になりたいわけか」
「科学の知識が使える範囲かは解んねえし、あんなゴツいプリンセスはいねえがな」

 龍水の疑問は微妙なところに着地したが、千空は反論しないことにした。何しろ自分でもよく解っていない。
 眼下の景色はどんどんと移り変わっていく。この辺りになると、大樹たちと逃げるように歩いた行程より、司帝国に進軍した時のことが思い出された。身振り手振り付きであれこれ説明していると、随分気球の位置が低くなっていることに気づく。

「オイ、何かどんどん下がってきてるが」
「心配するな、下げてるんだ」

 燃料を焚かないどころか、天頂部の排気弁を開けて熱気を抜いているらしい。みるみるうちに山の木々が近くなる。急降下といっても差し支えない下がり方をして、ぞくりと肌が粟立った。
 山間部を抜けたのだ、と頭で理解していても、一度外に投げ出された身としては不安になる。手すりとロープをきつく握りしめるが、いかにも心許ない。
 強い風に吹きつけられ、千空は思わず隣にある腕を掴む。いまいましいが、この腕は馬鹿みたいに安定感があることを先ほど学習した。 

「大丈夫だ、俺を信じろ」

 落ち着いた低い声が耳元で囁かれ、それだけで不安が消え失せる。体から緊張感が抜けた。
 こんな声でこんな台詞をさらっと言えるような男でなければ、やはり王や王子役は務まらないのではないか、と千空はぼんやり考える。何しろ判断力と決断力と安定感が桁違いだ。
 石油探索で気球に乗っている時から思っていたが、この男に決定権を与え、何もかも任せていられる時間はとても楽だ。石化からの復活以降、自分だけで判断し決定していくことが多く、正直精神的な負担が大きかった。司がコールドスリープしてからは、また別の負荷がのしかかった。人一人の命を抱えている重責に押しつぶされそうになり、眠れない夜もあった。
 だが石神村に行ってからというもの、徐々にそれらが半減されていった。東京までの距離の問題ではない。メンバーの問題でもない。何が変わったかといえば、龍水が変わったのだ。それ以外に心当たりはない。
 彼と共同で作業し、自分がやるはずだったことまで任せられるようになると、各段に楽になった。やはり船を作り上げるまで遊ばせておくには惜しい男だった、気球を作ったのは正解だった、と千空は自分の選択に納得する。
 笑みを含んですぐそばの顔を見上げると、龍水は何もかも心得たような表情でこちらを見ていた。
 この男は話が早い。面倒臭くない。有難い。

「どうした、もう解説は終わりか?」
「あー、まだ何か聞きたいのかよ」
「むしろこれからが本番かと思い、降下したんだが」
「テメー、嫌がらせか」

 ここからの景色は、千空には酷くなじみ深いものだ。幾筋もの川とそれに挟まれた平野。
 それらが徐々に朝に暴かれていくさまを間近で見つめる。辺りはかなり明るくなっている。

「ここが、俺と司が氷月と闘った場所だな。あの辺で突き落とされて――ここまで流された」

 共闘の場所と、川に落ちた地点を指さす。今思えばかなりの距離だ。自分も司も、よく生きていたものだと思う。

「あそこからここまで、ずっと怪我人を抱えていたのか? 貴様のこの腕で?」

 龍水が驚いたように、自分に掴まっている千空の腕を見下ろす。聞いてはいても、実際見ると聞くでは違うのだろう。
 黙って頷くと、掴まれていない方の手で髪を分け、頭を撫でてきたから驚いた。

「それは……恐ろしかっただろう。千空貴様は、強い男だ」

 頭を撫でられるのはどれくらいぶりだろう。そんな歳ではないのに、父性を感じさせる仕草だった。吐かれる言葉も声も、穏やかでやさしい。

「そこまでして助けた相手なら、気にかけて当然だな。ずっと眠っているのなら、尚更」

 ――ああ、解られている。
 そう思って目を閉じた。
 きっと誰一人本当には解っていないことを、この男は少し現場を見ただけで見抜けるのだ。そうして、余計なことは言わないくせに、欲しい言葉は惜しまず伝えてくる。
 こんなもの、信頼せずにはいられない。自分を預けずにはいられない。
 安定感に満ちた腕を、再度力を込めて握る。頭上で心得たような微笑の気配がする。
 ふと額に不思議な熱を感じ、千空は瞼を開いた。目の前に、笑み一杯の精悍な顔が大写しになっている。光そのもののような笑顔だった。

「な、んだ、テメー今、」
「俺は貴様に心配をかけたりしないと誓おう! 武力で貴様を守るとは言わん。だが、どんな手を使っても貴様を支え、欲しいものを与え、行きたい場所に連れて行こう」

 問いただそうとしたことも忘れ、その言葉に目を見開く。
 石神村に行くまでの彼であれば、到底考えられない言葉だった。

「知っていると思うが、俺は誰にも跪かない。誰かの言いなりになるのは御免だ。だから、これは俺のやりたいことだ。貴様の隣は絶対に譲らん。貴様が貴様の役割に疲れ、代役が欲しくなった時、支えが欲しくなった時、頼るのはこの俺だ。そうするにふさわしい男であり続けると誓おう」

 宣誓の言葉が、夜明け間近の空に荘厳に響いた。
 自信に満ちたそれを聞きながら、千空は心が満ち足りていくのを感じる。
 自分が探していたのは、求めたのは、間違いない、この男だと感じた。

「テメーを起こしたのはやっぱり正解だったな。自分の慧眼に惚れ惚れするわ」

 にんまり笑うと、頭上の手を外させる。
 たまに頼ったり、支えてもらうのはいいが、基本的には対等でいたい。恐らく、この男は自分に弱みを見せないだろうから。
 眼下は既に、氷月に突き落とされた辺りや、未来の目覚めた病院跡を通り越している。
 ツリーハウス跡が近づいてくる。そして大樹を見つけた辺り。奇跡の洞窟。
 いつも自分が何かを判断し、決定し、皆を先導し、支柱になり、ここまで進んできた。勿論常に誰かに助けられ、支えられてもきたけれど、何もかもを預けて共有できる感覚は得られなかった。
 だが、この男ならできるのかもしれない。
 そう、この男は決して自分に心配をかけさせたりしないだろう。こちらが心配する暇も与えず、やるべきことに立ち向かい、自分たちを正しい方向に導いていくだろう。
 それは予感というより確信だった。

「龍水、テメーは心強い相棒だよ」

 逞しい肩に顎を乗せ、その耳元に精一杯の言葉を囁いてやる。
 それが龍水の心にかなうかは解らない。差し出されたものに比べ、全く足りないと言われるかもしれない。
 だがすぐに長い息が吐かれ、相手が満足したことを知る。体にゆるく手がまわされ、一瞬抜け出そうか迷った後、思い直して留まった。

「見ろ、千空」

 その言葉に、相手の肩から顔を離し、指さす方向に目を向ける。
 ちょうど今、水平線から太陽が顔を出そうとしていた。
 旧司帝国の拠点である建物が、まばゆい光に照らされて幻想のように浮かび上がっている。かつては日本経済を象徴する巨大ビルだったはずのそれが、今、科学王国の新拠点として、その繁栄を約束されたかのように輝いていた。
 裏にある滝の横穴、その中にいる司ごと、祝福された気分だった。
 こんな景色も、龍水を起こさなければ見ることはかなわなかったのだ、と思う。
 ふと、爆発的な多幸感が湧きあがった。
 去るものがいれば来るものがいて、失うものがあれば得るものがあって、だから今日は昨日より必ずよくて、今年は去年より絶対にいい。そう素直に信じられる。自分の体に染みついていた重苦しいものが溶けて消えていく感覚が嬉しくて有難くて、目の前の肩に再び顎を乗せる。
 強い力で抱きしめられ、拒絶感の代わりに笑いがこみ上げてくるのが不思議だった。
 こんな甘えるような感覚も、この男でなければ感じなかっただろう。
 価値観が塗り替わり、関係性が塗り替わり、遠い未来が塗り替わっていく。そうやって世界は変化していく。そのことを、千空はよく知っていた。
 気球から降り立ち、科学王国の長の顔に戻るまでのわずかな間は、手に入れたものの手ごたえに酔いしれていたい。
 早く到着して冷凍庫の具合を確かめたいと思う気持ちと同じくらいの強さで、その時間が一秒でも長く続けばいいと願った。

   了

2021.07.03 twitterへ投稿

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