第二章・デ・プロフンディス
15360文字。
恋の手前にいる二人です。
気球メンバーが決まった直後、嵐になり、千空が向かった場所に龍水もついていきます。
千空が司に向ける気持ちは恋ではありません。が、深く重い感情があることは自明の理なので、そこをどう龍千に持っていくかという話です。次章で光明が見えます。
次に千空が話しかけてきたのは、気球に乗るメンバーが決まった後、嵐の気配が色濃くなった時だった。
あれから龍水は天候にことさら注意を払い、造船作業や気球作りがスムーズに進むよう気を配るようになっていた。雨が降らない時間が続くと解ると前日から準備させ、降雨を察知すればすみやかに撤収できるよう自分も立ち働いた。
梅雨時の、当日の作業可否の見極めの困難と頻繁な撤収作業は人々の負担となっていたようで、そのことは皆に広く受け入れられた。頼られることや期待されることも増え、現在特に任務を持たない龍水の仕事として、次第に認識されるようになっていった。
今回の嵐も前日には予測していたが、昼すぎまでの晴れ間が貴重だったのでギリギリまで作業させるつもりだった。そうして無事気球は完成し、龍水にとってはある種予定調和の、搭乗員を決める茶番まで行われた。予想より嵐の接近は早く、その規模は大きいようだったが、今から撤収すれば問題ないタイミングだった。
完成した気球が分解され運ばれていくのを確認すると、龍水は急速にたちこめる暗い雲の下、造船チームの撤収作業に加わった。多少の雨なら皆もう慣れたものだが、今回の嵐の規模は龍水の復活時に匹敵する。木材に被せた布だけでなく、あらゆるものが勝手に動かないよう、飛んでいかないよう、重しをつける必要があった。
強まっていく風になぶられつつ大樹と作業していたところ、「オイ」という声が聞こえた。振り向くと、千空が珍しく神妙な顔をして立っている。
この横柄な口をきく想い人は、相変わらず龍水の名前を呼ばない。今も、顎を持ち上げ視線を合わせてきたから、ようやく自分に話しかけていると判断できたくらいだ。
「今回はどのぐらい酷くなる。テメーの復活時と比べて」
「大差ない。さっさと撤収しろ。朝まで続くぞ」
「台風か? 物が飛ぶレベルか」
「海面水温が低いしそこまで大きいものではない。しっかり括りつけたり重しをしておけば、物が飛んでいくことはないだろう」
「雨の降り方は?」
「前回以上だな。梅雨前線を刺激してかなりの大雨となる」
「――横殴りに降るか?」
顎に手を当て思案する様子を見つめる。この男は一体、何を心配しているのか。
「千空貴様、何を知りたい?」
もの言いたげな視線が自分に注がれる。灰色の海と空を背景に、特徴的な赤い眼が揺らめいているさまがひどく心をくすぐった。今まで見たこともない、少し不安気な、自分を頼るようなまなざしに、一気にテンションが上がる。
誰かに頼られ、心が奮い立たない男はいないだろう。想い人ならなおさらだ。何でもしてやりたい。もっと頼ってほしい。以心伝心の仲になりたいのに、相手の望むことが即座に伝わらないのがもどかしかった。
「何を気にしている? 言ってみろ」
恋人に対するような優しげな声が自然と出た。眼差しも、態度も、明らかに普段とは違うものになる。周囲に何か悟られても構わないと思った。ただただ、千空の望みに応え、その力になりたかった。勿論、無償で。
だがその決意を知ってか知らずか、見事に雰囲気をぶち壊しにする言葉が背後からかけられた。
「ダメダメ千空ちゃん、そんなゴイスー物欲しそうな顔しちゃ! また足元見られちゃうよ~~! 交渉すんなら俺に言ってくんないと~~!」
千空の参謀を気取るゲンである。ついさっきこの相手にしてやられたことを思い出し、龍水は鼻白んだ。当然、あの茶番の意味にはすぐ気がついている。
先刻もあんな言われ方をせず、千空本人から気球に乗ることをふつうに要請されていたら、無償で応じていただろうと思う。だがゲンに千空のフォローをする形で煽られると、ついつい天邪鬼なきもちが頭をもたげた。
「フゥン、ゲン貴様が何故この場面でしゃしゃり出てくるのか解らんな。俺は今千空と話をしている」
「だ・よ・ね~~、解ってる! でも千空ちゃんは交渉直球すぎだからさー、俺が責任持って見張っとかないとねー」
得意気なゲンの表情と言葉に、龍水は胸中に不穏なものが広がるのを感じる。
かれの年齢は、たしか現時点では自分と同じ二十歳のはずだ。参謀というより、もしかしたら未成年の後見気取りなのかもしれない。
「千空、貴様が直接話すなら、そんな顔をしているのに免じて情報料は大幅にまけてやろう。だが、メンタリストが出ばるなら話は別だ」
後方のゲンをじろりと睨んでから、千空に向き直ってそう言う。想い人相手、それもあんなやりとりをした後なのにとは思うが、衆人環視の中、ああまで言われて今さらタダでいいとは言えなかった。
「情報料」という言葉に、前回と同じく、凛々しい眉がひくりと寄った。やはり金の話を持ち出すと、解りやすく拒否の表情が出る。千空自身が「テメーは金だけ要求してろ」と言ったにもかかわらず、心が急速に閉ざされていく感じがした。
嫌なら嫌で、「誰が払うか馬鹿」と笑い飛ばしてくれればいいのに、と思う。誰が起こしてやったと思ってる、テメーは俺に逆らえねえんだよ等、恩に着せてきてもいい。だがそういう軽口をたたかず、黙ってしまうのは本当に意外だった。
そして今回千空は、珍しく迷うような表情を見せた。ちらりとゲンの方をうかがった後、ぼそりとこう言う。
「――いくらだ」
「え?」
「いくらにまける」
龍水は瞠目した。まさか金を払うことにすなおに応じるとは思わなかった。思わず後方を気にするが、後見役はだんまりを決め込んでいる。
「パイロット報酬が百万てことは、本来一万くらいか? そこから大幅にまけるって何割だ? 俺の顔で一つでまけてくれんなら、泣いて縋ったらもっとまけて下さるのか? ゲン、いくらまでなら出せる?」
「ええ~~、ジーマーで?」
後方にいるゲンが嫌そうな声をあげた。千空が交渉しているのは自分のはずなのに、かれに金額を確認する意味が解らない。財布を預けてでもいるのだろうか。
交渉相手を認識させようと、龍水は思わず千空の肩を掴んだ。元より金の問題ではない。龍水は千空に頼られたかった。泣いて縋らずとも、自らの言葉で依頼してほしかった。
「なに、」
しかめた顔すらいとしい。その表情が、一瞬白い光に包まれた。
「千空、俺は前に言ったように、」
勢い込んで、そのまま「本来天候のことで金をとるつもりはない」と続けるつもりだった。
それをさせなかったのは、天地も裂けるかというような轟音だった。
「空の怒りだ!!」
金狼銀狼兄弟が慌てふためいている。随分詩的な物言いだと思うが、要は雷である。
一呼吸置いて大きな風が吹き、大粒の雨がバラバラと音を立てて降ってきた。千空は苦虫を噛みつぶしたような顔で空を見上げると、龍水の手を強く振り払った。
「あ゛あああ面倒臭せえ、もういいわ!」
そう言うなりくるりと踵を返すと、強まった風に服の裾をはためかせて走り出す。
「ちょっと行ってくる! おい、大樹!」
振り向いて、恐らくはゲンに声をかけてから、少し離れたところで作業し続けていた幼馴染を呼びつけた。
「おおお、すぐに行くぞー!!」
大声で応じた大樹が千空に追いつき、二人が造船場から立ち去る頃には、風雨はかなり勢いを増していた。
「えええっ、千空ちゃんジーマーで!? 台風の中、畑見に行くおじいちゃんじゃないんだから!」
振り向くとゲンが目を白黒させている。状況が見えない龍水は彼の襟を掴むと問いただした。
「何なんだアイツらは。これから嵐だというのにどこへ行く?」
「嵐だから、でしょ~! 龍水ちゃん、これで千空ちゃんたちに何かあったら恨むからね!」
「何だというんだ、この辺りなら大丈夫だ。まさか、石神村のことを気にしているのか?」
今年の春まで千空が本拠地にしていたというその村は、箱根を越え、かつての伊豆半島あたりにあると聞いている。今から向かったところでどうにもならないだろう。
「石神村は嵐に慣れてるし、今までもそんな被害なかったみたいだし大丈夫でしょ。前の嵐でちょーっと被害出かけた場所があるんだよね~」
「どこだそれは」
連れていけ、と目で言うと、自身は行くつもりのなかったらしいマジシャンは目を剥いた。
「嵐の中行くところじゃないよ! ええ、ちょっと、俺は無理だよ!」
四の五の言う細身の男を、引きずるようにして走り出す。降りしきる雨の中、千空たちのすがたは既にもう見えなくなっていた。
◇
「ドイヒー」を連発するゲンをどうにかこうにかなだめすかして道案内させ、ずぶ濡れになって走り続ける。
造船場から本拠地までの道のりは、実はそれほど近くはない。そして、人の手はほぼ入っていなかった。大雨の中走ってそれがよく解った。普段は踏みかためられ歩きやすくなっている土の道は、今は泥と石が混じったぬかるみでしかない。そこを革靴の龍水と、裸足のゲンが、服の裾を泥水で濡らしながら進んでいく。
本拠地に近づくにつれ泥濘はひどくなり、二人はついに走るのを諦めた。呼吸が楽になった代わりに、龍水は何とか情報を得ようと試みる。
「さっき、千空が貴様の顔色をうかがいながら金額交渉したのは何故だ」
「そりゃー、俺が財布握ってるからでしょ」
ゲンが幾分不機嫌そうに、だがあっさりと答えた。これは秘密でもなんでもないらしい。
そうでないかと思ってはいたが、改めて驚く。何故千空の私財をゲンが握っているのだろう。
未成年だからだろうか。だが千空は科学王国の事実上のトップであり、基本的にはすべての権利を有しているはずだ。参謀だろうが後見役だろうが、そんなことを許す意味が解らない。
「何故貴様が? 身内として金の管理を任せられているということか?」
イメージとしては秘書、番頭、女房役といったところか。
龍水にとっては理解不能なことではあるが、学者肌の人間などは浮世離れしていて金の扱いが解らず、人に管理を任せる者もいるらしい。千空はそういうタイプではないと踏んでいるが、いかにも「面倒だから任せる」と言いそうでもあった。
「身内、ね。それは解らないけど。千空ちゃんには基本、公私の別はないから」
「公私の別がない?」
龍水は眉を跳ね上げた。トップに立つような人間にそんなことがあるものか、という気持ちがあった。
表情に出ていたのだろう、ゲンは顔に張り付いた髪を剥がしながら、「それがあるんだよねえ」と何でもないように言った。
「千空ちゃんは、あれ全部素よ。大樹ちゃん杠ちゃんはやっぱ別格って感じだし、あともう一人二人、そんな感じの人もいるけど。でもそれを感じさせないくらい分けへだてはないよ。誰に対しても同じ。俺がお金を預かってるのは、単に俺が申し出たから。龍水ちゃんに払う分のドラゴ貯めて見せるよって。だから任されてるだけ。千空ちゃんはドラゴなんて持ってない。多分、一枚も持ってないと思う」
「何だと?」
ドラゴを創設し貨幣制度を導入した際、龍水は本拠地にいる科学王国民全員に一律数万ドラゴを配っている。千空が受け取らなかった記憶はない。
「誰かから貰うなりなんなりしたら、俺に全部持ってくるからね。だから千空ちゃんは、自分では龍水ちゃんに払うことはできないんだよ」
「面倒臭せえ、もういいわ!」と言ってこちらの手を振り払った際の、千空の顔を思い出す。心底嫌気のさした、うざったいという表情だった。
一度は金を払おうとして、ゲンの顔色をうかがった結果難色を示され、自分とも問答が続くのが面倒になっただけなのだろうか。あるいは、雨が降り出したことで時間がなくなったのか。
――本当に?
「ドラゴだけじゃない。解ってる? 龍水ちゃん。『千空ちゃんは、私財というものを一切持たない』んだよ」
思考の糸を断ち切るようにゲンが言った。
龍水はそれを無視できなかった。馬鹿な、と思った。
「仕事に対価を払うのは当然だという価値観だった。資本主義経済を否定しなかった」
「それはまあ、そうかもしれないけど。でも、千空ちゃんは誰かから対価を受け取ったことはないよ。労働力――マンパワーは別だけど。相手のために何かしてあげても、恩に着せることも、労働力以外のものを望むこともない。ずっとずっと、与えるばっかでさ」
悔しさをにじませた口調でそう吐き出すゲンの横顔は、これまで見たこともないものだった。
「千空ちゃん、人類救うとか文明復活させるとかが望みだって言うけど、自分のために何かしたことなんかあるのかな? って思っちゃう。でも、さっきのは珍しく個人的なことで何か聞きたかったんだと思う」
薄暗い周囲の中でもよく光る黒い目が、龍水に向けられる。
「だから、石油代貯めてる財布からお金払うのためらったんだと思う。で、スムーズにいかなくて、天気なんて読めなくても自分が行けばいいや、って発想転換したんじゃないかな。あるいは、自分の望みにお金のこと持ち出すのが嫌だったか」
それだ、と思った。
先日自分がこてんぱんにやられたのも、それなのだと思った。
「テメーは間違ってない。高い技術に等価を払うのは当たり前だ」と言っていたはずの千空が、「気持ちの問題だ」と言った途端豹変した。「俺の顔見るたび金のことしか言ってこなかっただろうがよ」と突きつけてきた。
それは半ば本当のことだった。創設したドラゴの価値を、龍水は誰よりも千空に解ってほしかった。物々交換の原始的な生活から、また一歩文明に近づいたのだとアピールしたかった。だがそれらは、すべて裏目に出た。
翌日謝った龍水に、千空は「欲しいものがあんならテメーは金だけ要求してろ」と言い直したが、それは、「金は払うから二度と気持ちの問題に踏み込んでくるな」と言われたも同義だ。
踏み込みたい龍水としては、今後はやり方を変えなければ、いつまでも同じことのくりかえしになる。
胸中に広がる苦いものを飲み込んでいると、隣を歩くゲンがぽつりと言った。
「お金を持たない千空ちゃんが、払ってもいいって思うほどの情報持ってるのが、龍水ちゃんだなんてね」
読めない横顔だった。張り付いた横髪。黒いヒビ。雨に濡れる頬。
「さっき、俺に天気が読めたら、って思っちゃった。あんな風に千空ちゃんに頼られたかった。個人的な願いをかなえてあげたかった。ちゃかしたのか本気なのか、あんな風に焦らした龍水ちゃんのこと、ちょっと嫌いになっちゃった。千空ちゃんだってそうじゃないかな」
龍水は眉をひそめた。痛いところを突かれた思いだった。そんなつもりはなかったのだが、隣の男のおかげで、結果そうなってしまった可能性はある。
「龍水ちゃんてさ、千空ちゃんに嫌われて何か楽しいの? 本人がいいなら別にいいんだけどさ。誰でも千空ちゃんのこと大好きかと思ってたけど、そんなこともないんだね。千空ちゃんに頼られるチャンスふいにするなんて、俺なら絶対しないけどなあ。起こされて迷惑してるの? 勝手に未来決められるのいやだった? この世界はつまんない? 千空ちゃんがいても?」
矢継ぎ早に言われる。俺は今多分ボロクソに言われているんだろうな、と龍水はやけに冷静に思った。ゲンは恐らく、半ばやつあたりしているのだ。
「俺は、この世界で初めて日付を見たその時から、千空ちゃんが一番大事だよ、変な意味じゃなくてね。俺がこの世界で見つけた光り輝く逸材なんだから、大事にしなきゃっていう気持ちがあるんだよね」
そうしてゲンは、龍水の目を睨めつけてはっきりこう言った。
「だから龍水ちゃん――傷つけるならゆるさないよ?」
◇
やがてゲンが「俺たちはここまでね」と案内したのは、本拠地の南側――巨大建造物跡正面から見て左端――滝に近づきすぎない、だがそれを一望できる場所だった。真上に木々が生い茂っており、少しだが風雨をしのぐことができる。龍水はようやく一息つくことができた。
今、雨によって勢いを増した滝は、真上から大きな音を立てて流れ落ちている。下にあるのは地面に穿たれた深く大きな穴であり、水はそこから地下水として方々に運ばれていく。科学王国は、天然の水源を本拠地の中に持っているのだ。
大穴のへりから、膝をついた想い人が身を乗り出すようにして下を覗き込んでいるのが見えた。コハクほどではないが、龍水も視力はいい方である。今まで見たこともない深刻な顔で、いつもより幅の広がった滝すれすれにからだを近づけ、千空が何かを叫んでいる。雨と水しぶきでずぶ濡れであることは、ふだん逆立った髪が下りていることからもよく解った。
「まさか、誰か下にいるのか!」
思わず走り出そうとした龍水の服の端を、マジシャンの長い指が強く引いた。
「大樹ちゃんだから、大丈夫」
「大樹が? なぜ?」
ゲンは口を噤んだ。答える気のない顔だった。
地下水源に繋がっているとはいえ、穴の中は今増水しているだろう。滝の幅も広がっている。嵐の中、そこを降りていくのは常人のすることではない。だが大樹を連れて行った千空が上で見守っているということは、予定調和の行動なのだろう。
やがて下から大声が聞こえ、千空があからさまに安堵したのが見てとれた。ふだんクールで表情を見せないかれが必死な顔をしているのも、それがゆるやかに解かれていくさまも、龍水は初めて目の当たりにした。
一体何だというんだ、と思う。だが隣の男は解説するでもなく、滝から目を離さない。大樹がすがたを見せるまでは安心とは言えないのだろう。
「あれ、他にも誰かいる……?」
はっとしたようにゲンが呟く。目をこらすと、千空が今必死でひっぱり上げようとして掴んでいるものは、大樹のものではない小さな手だった。それがまるで奈落の底から差し伸べられているように見えて、龍水は冷たいものがぞわりと背筋に走るのを感じた。
「ジーマーで、バイヤー……」
見れば隣のメンタリストも青ざめている。再度視線を戻すと、千空が小さな少女を引き上げたところだった。続いて軽い身のこなしで、大樹が穴から這い上がってくる。千空に預けるまでは、かれが少女を抱えていたのだろう。頼もしいやつだ、と思うと同時に、なぜこんな穴の中に子どもが、とも思う。
少女の存在はゲンの想定外のようだった。ならば千空と大樹は、彼女を助ける目的で嵐の中ここに来たわけではないのだろう。
千空の首にかじりついている少女に、龍水は見覚えがあった。名前も知っているはずだった。だがどうしても出てこなくて、隣の男を見る。ゲンは何もかも見透かした顔で、薄い口唇を曲げて笑った。
「龍水ちゃんて――ここに誰がいるのか知ってる?」
質問の答えは否だったが、龍水は突然、雷に打たれたように理解した。
少女の名は、獅子王未来。
ならば――ここに「いる」のは――、
「ゲンくん」
背後から思いがけず細い女の声がして、二人の男ははっと振り向いた。見れば、傘を差した小川杠が立っている。片腕には大量の麻布を抱えていた。今にも風に吹き飛ばされそうな粗末な傘を差してはいるが、頭からずぶ濡れだった。
「未来ちゃんをケアしてあげて。私も後で行くから」
そう言って、傘と布をゲンに手わたす。明らかに気圧された体のメンタリストは、今しがたこの辺りで調達してきたのだろうそれを黙って受け取った。
傘を差し、大雨の中ふらふら滝に近づいていくゲンを、龍水は杠と共に並んでながめる。彼女は自分に用があると気づいていた。
「追いかけてきたのか、千空と大樹を」
龍水が造船場から立ち去る時、杠は近くにいたと記憶している。幼なじみたちの目的も場所も理解して、嵐の中走り、必要なものを集めてからここにたどり着いたのだろう。足元の汚れと疲労の様子から間違いないと確信しつつそう尋ねる。
「龍水くん、これで解ったよね、千空くんの知りたかったこと」
イエスでもノーでもなかったが、その台詞は龍水の問いの答えになっていた。杠は、千空との問答を聞いていたのだ。あどけない顔をしているが芯の強い女だと感じる。
「この雨は、横殴りに降るかな? あの穴から、水は溢れると思う?」
そう言って真剣に滝の方向を見つめる凛とした横顔を、うつくしいと思う。さすがは大木大樹の想い人であり、石神千空の幼なじみであり、この石世界を早くから生き抜いてきた女だと実感する。答えを引きのばすことは考えられなかった。
「風向きと雲の流れからして、横殴りに降ることはまずないだろう。俺は一度あの滝壺を覗いたことがあるが、地下の空洞が広いのか、水はけは悪くない。地上まで浸水することはない」
「半分の位置までなら?」
「半分?」
その位置に何かあるのか、と察する。自分がかつてあの穴を覗いた時――確か木材の一部が見えた。流水を利用した仕組みがあるのだなと思ったものの、深く考えることなくその場を離れた。
木材があるということはおそらく深い横穴があり、あの少女はそこにいたのだろう、と推察する。
「前の嵐で被害が出かけた場所がある」というゲンの言葉が思い出された。少し不安気な、自分を頼るようなまなざしで見てきた千空のことも。
龍水はしばらく計算した後、「大丈夫だ」と自信をもって答えた。
「雨は一晩中降るが、朝には止む。どんなに増水しても、この雨量なら地上と普段の水面の中間地点を超えることはない」
安心させるようにもう一度大丈夫だと繰り返すと、杠はようやくほっとした顔になった。はりつめていたものが少し解けたのが感じられる。
「ありがとう、安心した。いくら払えばいい?」
だから、まさかそんなビジネスライクな台詞が飛び出してくるとは思わず、龍水は思わずまじまじと女の顔を眺めた。
「何を言う」
こんな事態だと言うのに、という言葉は、杠の台詞にさえぎられた。
「このあいだ龍水くんに沢山洋服買ってもらったから、私、意外にお金持ちなんだ。石油代にって渡しても、千空くんもゲンくんも、全部は受け取ってくれないから」
無邪気な声はどこまで何を解っているのか、龍水の胸をやわらかく刺した。俺はまた詰られているのか、と苦笑しながら、龍水は少々情けない思いで言う。
「こんな展開で金を搾り取ろうとするほど、俺のことをがめつい男だと思わないでくれ」
杠は、花のように笑った。
「そう、得しちゃった。情報ありがとう、伝えて来るね」
そう言ってくるりと踵をかえしたかと思うと、「あ、」と思い出したように上を向き、ふいに爆弾を落としてきた。
「龍水くんって、千空くんのことがすきなの?」
思いがけない言葉に龍水は目を見開く。ニッキーに引き続き、一体どういうことなのだろう。そんなにも自分は解りやすいのか。それとも、女子の間で噂にでもなっているのか。
言葉も返せないでいると、
「ごめんごめん、こないだの雨の日、ラボの隣にいたら聞こえちゃったんだよね」
と頭を掻いて言われたので納得した。確かにあの日、杠は隣の小屋にいた。
「あ、私、偏見はないよ。男の人だって千空くんに惹かれるの、解るもん。昔からどっちにもモテてきたし」
興味深いことを杠は言った。現在の千空から色恋の匂いはしないし、本人も不要だとはねのけるが、かつて高校生だったかれはどうなのだろう、と思う。
幼なじみであるこの女なら、それを知っているはずだった。
「千空が応じたことはあるのか? 女でも、男でも」
龍水の問いに、杠は笑ってはぐらかした。
「さあ、私は知らないな。でも今は――このままだと龍水くん、間違いなく負けるよ?」
「フラれるよ」ではなく、「負けるよ」と言われたことに眉が跳ね上がる。
負けるということは、勝負する相手がいるということだ。そしてそれは勿論、千空ではない。
「誰にだ」
「私、知ってるの。千空くんが生まれて初めて、誰にどれだけ心を傾けてるか、ずっと見てきたの」
相手の名を言わないまま、杠はどこか懐かしむような目をした。
「千空くんが大樹くんと百夜さん以外の人にあんなに執着してるの、初めて見ちゃった。あれが恋愛感情なのかは私には解らないけど――違う気もするけど――多分もういっぱいいっぱいだと思う。だから、生半可な気持ちならやめておいた方がいいよ」
先日、「この非常時に余計なモン背負いこむ余裕はもう一ミリもねえんだよ!!」と吐き出すように言った千空の顔が思い出された。
あの時かれは確かに、「もう一ミリも」と言った。この非常時に、「お気持ちの話」である「余計なもの」を既に背負いこんでいるということだと、今さらながらに理解する。
呆然としていると、何もかも心得ている顔で、石神千空の盟友であるところの女はこう言った。
「龍水くん、この世界で、麻酔なしの手術ってできると思う?」
「――手術?」
「そう。自分で執刀する決意するのも、相手が絶対我慢できるって信頼できるのも、並大抵のことじゃないと思わない?」
「麻酔なしの手術」という言葉に、脳裏にいくつかの名前が浮上する。
華佗と関羽、高峰と伯爵夫人、そして石神千空と――獅子王司。
「私、縫合手伝ったの。それ以前にも――色んなこと沢山手伝ったの、千空くんからの依頼で。それがどこから来たものなのか、今ならよく解るの」
何も言えず雨の中立ち尽くす龍水を、杠は慈愛のこもった眼で見つめてきた。
「千空くんはそういうこと、あんまり人には知られたくないんだと思う。龍水くんはあの時いなかったから尚更。だからごめん、ちゃんと伝言伝えるから――今日は、ここまでにしてくれるかな」
有無を言わせない口調でそう言って、杠は大雨の中駆けだした。
一人残された龍水は、風の音に紛れさせるようにして盛大にため息をつく。
そこまで言われて、追っていく気には到底なれなかった。
◇
身も心も冷えきりながら、広場へと続く坂を登りきる。
最悪な気分だったが、共同風呂に寄り、湯に浸かってあたたまると少し人心地がついた。貸し出しの簡易な服を着て、本日はその場で振る舞われている食事をとり、あたたかい酒を呑む。ここは江戸時代でいう湯屋のような造りになっていて、二階には休憩所があり男たちがたむろしている。嵐のため暇を持て余している連中が集まり騒いでいたが、それに救われる思いだった。
幼い頃からそう仕込まれてきたからか、龍水は簡単に情緒を乱されることはない。気分のコントロールや立て直し方を心得ており、マイナスな気持ちを引きずることはそうそうない。先日生まれて初めて「失恋した」と感じた時は流石に自棄酒に走ったが、今はそこまでではなかった。千空本人に決定的なことを言われたわけではないということもある。
まだあの滝付近にいるだろう面々のことを考えると少し胸がふさぐが、新参者のさだめと思えば堪えられた。
現段階では、龍水はあのメンバーに混じることはできない。だがこの共同風呂の中で、前からいた人間のように振る舞うことはできる。陽や銀狼などを相手どり、ダーツやカードゲームに興じていると時間を忘れられた。
「オウ龍水、テメーも気球乗るって聞いたけどよ、こんな嵐だぜ、いつ出発できんだよ」
板敷きの床に大の字に伸びているクロムが、半分眠りながら話しかけてくる。そういえば、かれは石神村から走って戻ってきたということだった。
「フゥン、嵐は朝にはおさまるがな、燃料や装備品の問題もある。あらゆるチェックを行い万全の状態で出発せねばならん。今はこうやって遊んでいられるが、明日から忙しくなるぞ。強行軍でここに来たのなら、今のうちによくからだを休めておけ」
生意気だが純朴そうな人類の生き残りにそう諭すと、意外にもすなおに頷いたので拍子抜けした。千空と同い年だと聞いているが、段違いに扱いやすい少年である。
「だな。ようやくからだも解れたし、帰って寝るわ」
どうやら満身創痍の身を湯で癒していたらしい。よろよろ立ち上がろうとするので、龍水は送りがてら自分も帰宅することにした。この様子とこの体格では、たちまち嵐に吹き飛ばされかねない。
服はそのまま借りることにし、キャプテンコートを雨避けにして外に出る。あたたまり清めたばかりのからだが、滝のような雨でたちまちずぶ濡れになった。地上と違い地面がほぼ石づくりなので、足元のぬかるみだけはまだましな状態である。
「クロム、貴様はどこに帰るんだ」
復活後すぐ相手が旅立ってしまったので、龍水はほとんどクロムのことを知らない。
「特に決まってねーけど、大抵ラボで雑魚寝してる」
その答えに、龍水は一瞬眉を寄せた。
ラボはここからそう遠くない。だから距離の問題ではない。問題ではないのだが――先にたどり着いているだろう人間のことを考えると、微妙な気持ちになった。
だが乗りかかった船である。近くまでは送ってやろうと、クロムの腕を引きずるようにして雨の中を歩く。辺りはすっかり暗くなっている。
「あのラボに雑魚寝できるような場所などあるか?」
「奥にあるんだよ。千空が先に寝落ちたら、隣の小屋とか空いてるとこ使ったり」
「貴様が奥を使っていたら、千空は近くの小屋で寝ているわけか?」
何だか不用心だな、と思いながらそう聞く。クロムは一瞬首を傾げ、何でもないように言った。
「千空は、色んなとこで寝てんだろ」
「色んな?」
「いや、よく知らねーけどよ」
明らかに何かをごまかした顔でクロムが言った。かれはどう見ても嘘が苦手なタイプだ。だがそこで突っ込んで聞き出すのは何だか無粋な気がして、龍水はそれ以上問うことができなかった。
夜な夜な違う女や男の元で寝ているわけではないことは解っている。石神千空はそういう人間ではない。だが、一体相手の何を知っているといえるのか、と思う。
たとえばクロムが知っていることの半分も、自分は千空を知らないのではないかと考えてしまう。一年と少しの差はそれほどまでに大きいのか。過去を共有しているということは、それほどまでに大事なのか。
では新参者は――愛することもゆるされないのか。
「クロムは、千空のことがすきか?」
他に聞きたいこともあるのに、何故だか言わずもがなのことを聞いてしまう。「誰でも千空ちゃんのこと大好きかと思ってたけど」と言った時のゲンの顔が脳裏によぎったからかもしれない。
「そりゃそうだろ。嫌いなやつとかいねえだろ」
「――そうだな」
この男ならばそう答えるだろうという、予想通りの回答に苦笑が漏れる。まったく、大樹といいクロムといい、ひどく気持ちのいい男たちである。
そういういわゆる「人のいい」人間が、千空の周囲に大勢いることを考える。食わせ物だと感じるのはゲンくらいか。だがそのかれも、千空のやり方にすでに馴染んでいる。
「最初はすげー生意気なやつだと思ったけどよ、アイツヤベーほど頭いいし何でも知ってるのに、意外に謙虚なんだよな。出し惜しみしねえで何でも教えてくれるし褒めてくれる。さっぱりしてるのに面倒見いいし、ヒョロガリの癖にからだ張っていつも最前線に出るし――男の中の男だと思うぜ!」
憧憬とともに語られる千空の人物像を、龍水は感嘆の思いで聞いた。この原始の世界で、神のように王のように振る舞うこともできるのに、人間らしさを失わず、男としての矜持を持ち、少年漫画の主人公のように颯爽と皆を率い、導いていく存在。
自分が恋情と劣情をいだく相手は、そんな清廉とした気高い男なのだと、今さらながらに痛感する。
「ああ――そうだな」
頷きながら、だが今の龍水の目に映る千空は、もう少し奥行き深いという気もした。
「さっぱりしている」とクロムは言う。龍水もそう思っていた。だが、本当にそうなのか。
合理的でクールで感情を見せないその一方で、あんなにも必死な顔をすること。死にものぐるいの選択をすること。
例えば、この世界で麻酔なしの手術の成功を信じ、自ら執刀するような。
手負いの大男を救おうと共に川に落ち、相手を抱えたまま泳ぎきるような。
滝の増水や雨の降り方を心配して、普段は避けている自分に声をかけ、金を払ってまで情報を聞き出そうとするような。
――そんな情熱を、隠し持っている。
そういう部分まで、龍水は石神千空の何もかもが欲しい。焼けつくような想いで、それを改めて感じる。
「どんなにキツくても、もう無理だって時でも、アイツに『やるじゃねえか!』って言われてえんだよな。言われたらヤベーほど嬉しくて、もっともっとやってやろうと思えんだよ。あれには常習性とか依存性があるぜ」
解る、と思った。
千空に見直した、という顔をされた時、どんなに心が弾んだか。もっとそんな顔をされたいと、こちらを見てほしいと、どんなに願ったか。
進んでその役に立ちたい、そう思わせることができるから、千空は科学王国のリーダーなのだ。これまで、好いてはいたもののそういう態度をとってこなかった自分が、相手の目にどう映っているのかを考える。
「フツー考えられねえだろ」と言った千空の気持ちがよく解った。「俺のものになれ」と言われて、契約結婚をイメージしたのも無理はない。何の冗談だ、と思ったことだろう。
千空は誰かのために必死になることを知っているのに、自分はこれまで、相手にそんなところを一切見せてこなかったのだ。
思わず大きなため息が漏れ、はっとクロムを見る。今のやりとりでため息はない。
だが純朴な科学少年は、龍水に腕を引かれながら既に半分夢の中のようだった。ふつうに受け答えしていたようで、もしかしたら明日になればすべてを忘れているかもしれない。
苦笑しながら相手の腕を自分の肩にまわし――龍水は息を止めた。
ラボに、灯りがついていない。
千空が宵っ張りなのは知っている。少なくとも、日付が変わる頃まで眠らないのだという。この時間にいないということは、まだ滝のあたりにいるのか。そう思うと、黒い塊を飲み込んだような気分になる。
現在、風はまだ激しいが、雨量は先ほどより落ちている。杠の質問に答えた内容は間違っていない。今夜滝のそばにいる必要はない。だが、千空は果たして自分の言うことを信じるだろうか。
暗澹たる気持ちのままラボの垂れ布をめくり、石造りの床を踏む。案の定、人の気配はない。
さて、クロムをどこに寝かせよう、確か奥に寝場所があると言っていたが、と室内を見渡すも、暗くて勝手が解らない。もしも薬品入りの瓶でも倒したらことである。
結局キャプテンコートを床に敷き、その上に細いからだを横たえたところで、龍水は動きを止めた。
風と雨の音にまぎれて、何かが聞こえた気がする。
思わず耳をそばだて、意識を集中させる。途端、闇の奥から、深い長いため息のような音が聞こえてきた。先ほど龍水が漏らしたような寂しげなものではなく、もっと苦悩と悲哀に満ちた、地獄の底からひびくような、重みのあるため息だ。
冷水を背中に浴びせられたような気になって――ふと気づく。
このラボで、もし奥を使っている人間がいるとしたら。クロムがここにいる限り、可能性は一人しかいないのではないか。
別の意味でぎくりとして、慌てて身を起こそうとしたところに、今度ははっきり声が聞こえた。
それもまた地獄の底から届いたようでいて、ほとんどすぐそばで囁かれたようにも思われた。
「司――」
千空の声だ。
確信して、震撼する。
千空が奥にいて、うなされている。かつて自分を殺した敵のことを考えて。おそらくは、夢に見て。
こんなにも感情を剥き出しにして誰かの名前を呼ぶ千空を、初めて見た。
それが養父の名前であればどれほどよかっただろうと思う。
獅子王司。司帝国の長。未来の兄。
何度も何度も聞いた名前だ。
その男をよみがえらせるのだとどこかで聞いた。そのため石化光線の謎を解くのだと。
そして、そのために千空は地球の裏側に行きたいのだと、今でははっきり解る。
闇の中、目を見開いたまま、龍水はある確信をいだいていた。
――自分は、
ゆっくりと、手で顔を覆う。
何もかもやり方を間違えていたことに、今さら気づいた。
石神千空は龍水が思い描いていたよりはるかに、クロムが憧憬とともに語るよりはるかに、海のように深く、底知れない。
その深淵を知る者が、他にいるのだろうか、と思う。
自分の他に――気づいている者はいるだろうか。
ならば教えてほしいと切実に願う。
その冥い、夜の海より深い淵の中に、日の光を、この腕を、差し伸べることは可能なのか。
今日のようにすげなく振り払われることはないのか。
今は壁を隔て届く苦悶の声に、駆けつけることも、その手を握りしめることもできない己だけど。
今すぐここを出て行きたいという欲求と戦いながら、龍水はしばらくそうすることができなかった。
この深淵そのものの闇の中、そして、苦渋と情念と妄執のさなか。
――妄執のさなか。
to be continued……
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