伸ばした手のその先に
司千

伸ばした手のその先に

3351文字。
司千川流れに人魚姫を絡めてみた初投稿。
自覚のないまま恋に落ちていく。



 司と再会して、初めて気づいたことがある。
 どんなに脳が否定しても、どんなにそれをうまく隠蔽し、他の何かに変換し得たとしても。
 人間の持つ、原始的な衝動にはあらがえない。
 肉体的な反応は時に、脳の処理を超えることがある。
 頭で考えるよりも早く、体が動くことがあるのだと。

 たとえば誰かの目を見て、背に痺れを覚えた時。
 声を聞いて、心拍数が上がった時。
 それを警戒や恐怖のせいにすることは容易い。相手が自分に危害を加えようとしている場面ならなおさらだ。肉体的反応の理由を、あえて探る必要はない。
 ツリーハウスで暮らした数日間、司が自分たちに危害を加えようとしたことはなかった。ただ千空が、一方的かつ断定的に彼を警戒していただけだ。「自分や大樹に危害を加える可能性がある人間」だと認識していたから、痺れも動悸の速さも当然の結果だと自分を納得させた。
 それが停戦後――相手はもう自分たちに危害を加えない、と認識しているはずなのに。警戒していないはずなのに。
 病院の位置を説明する司と目が合った時。
 「俺と南はこっちを掘るよ」と声をかけられた時。
 以前と同じ反応が起こった。
 内心首を傾げつつ、まだ自分は警戒を解いていないのだ、と判断するしかなかった。
 他に理屈をつける余裕もなければ必要性も感じなかったので、彼と接した時に起こる反応や衝動は、すべて綺麗に無視し続けた。
 だが、司が誰にも危害を加えられない状況だったら?
 警戒心など抱く必要もない場面で、体が勝手な反応をしたら?
 それにはどんな意味が付与されるのだろう。

 咄嗟に走り出した脚。
 伸ばした腕。
 単純な反応どころではない。脳が判断するよりも早く、明確な意思を持って、体が勝手に動く。
 そんな自分がいるということが、信じられなかった。

「千空……」

 奇妙な笑みにも似た表情が、目の前の美麗な顔に張り付く。まるで他人事のように見える顔だ。
 泣きたいような気持ちになる。これもまた、勝手な肉体的反応だった。
 焦っているのも危機感丸出しなのも、自分だけのように思えるからか。相手が何かを諦め、達観しているように見えるからか。
 思考する暇などなく氷月に突き落とされ、その後はひたすら、共に助かるために脳を働かせた。
 水中で司の体を掴まえると、両手でそれぞれの傷口を押さえる。衣服や腰の革袋に入った空気を使い、体が浮上するのを待って、互いの顔を何とか水面から上げる。下流側に足を向けて、二人とも仰向けで流されるよう体勢を整えた。
 呼吸を確認するため、司の顔に手のひらを近づける。乱れてはいるもののあたたかな息づかいを感じ、気が遠くなるような安堵を覚える。司はこちらにしがみつくことも藻掻くこともしなかったので、意識を失ったのかと思っていたが、救助される人間として最適な判断をしただけらしかった。
 川の流れは速く、千空の体力では、人一人抱えて泳ぐことはできない。仰向けに浮いて流されているだけで精一杯だ。
 氷月が続いて飛び込んだことは解っていた。簡単に溺れ死ぬような川ではないのだろう。どこかで浅瀬になり、岸に流れつくことになると思われた。水温もまだそれほど冷たくは感じない。
 だからといって、悠長には考えられない。司の体から血が失われること、傷口に菌が入ることが心配だった。背面の傷口から手を離し、相手の頭を強引に掴む。何度か溺れかけながら自分の胸に乗り上げさせると位置を調整し、自分の腹で傷口を防ぐようにぴたりとつけた。
 空いた片手で腰の革袋を扱い、頭を持ち上げて視界を確保する。近くに手ごろな流木を見つけて引き寄せると、ようやく体勢が安定して一息ついた。
 途端に、かすれた声が耳に届く。

「――君一人なら泳げるだろう。離してくれ。俺はもう助からない」

 水の音にほぼかき消されていても、大体何を言っているかは解る。
 千空は司の胸の傷口を押さえる手を強くして、吐き出すように言った。

「うるせえ。勝手に諦めんな」
「千空、」
「役目が終わったとか、自分は必要ないとか考えんな。これからは俺を危険ってやつから守ってくれるんだろ。それとも、テメーはまた約束破んのか」

 なおも言いつのろうとする瀕死の男に、そんな風に発破をかける。
 相手の責任感と矜持に訴えかける。目的意識を持たせる。自分の生命を最後まで諦めさせない。
 そのための言葉なら、いくらでも吐くつもりだった。

「そうじゃなくて。――何故、」

 途切れとぎれに司が聞き出そうとしていることは、何となく解った。
 何故自分で走ったのか、何故その手を掴んだのか、何故これほど助けようとしているのか――。恐らく、そんなところだろう。
 その答えは、千空自身も知らない。
 勝手に体が動いたのだ。いち早く氷月の意図に気づいたということもある。だが、誰かに指図するのではなく、自分で走って自分で手を差し伸べた理由は、まったくもって解らない。
 思えば、元海上自衛官で水難救助活動に慣れているだろう羽京がすぐ後を走っていた。誰より素早いコハクの気配もあった。だが、彼らに指示を出すということは全く思いつかなかった。
 考えるよりも早く脚が動き、手が伸びたのだ。
 そんなことが、どうして出来たのか解らない。

「人魚姫が何で王子様を助けたのか、っつー話だわな」
「え?」

 川の流れに身を任せ、時折足先を使って岩や木を避けながら、彼の妹が愛する童話をたとえに出す。
 現実感もなければ緊迫感もなくて、千空は喉の奥で笑った。

「恩があるわけでも親しいわけでもない、落ちる前に目が合ったわけでもない、そんな相手を何で助けるのか――そんなん、考えてから動くわけじゃねえ」
「うん、確か……その直前に一目惚れしたから、じゃなかったかな」
「そりゃ結果論だろ。一目惚れした相手が溺れたから助けよう、とか思って体が動くわけじゃねえ。むしろ、後から何で助けたのか考えて、その理由しか思いつかなかったんだろ」

 目の前で、水に落ちる寸前の人、落ちれば死を免れない人を見て、咄嗟に体が動いただけだ。
 相手が誰でも同じようにできたのかと問われると、自分も人魚も否だと言うだろう。
 そこに、どんな意味を付与するのか。
 行動が先にあって、理屈は後からついてくる。
 世の中には、そういうこともあるのだと知ってはいた。そういう人間もいるのだと。
 だが――自分がそんな経験をするとは、思ってもみなかった。

「なら、君は……後でどんな理由を思いつくんだろう」

 司が自分の胸の上で笑う気配が、肌を通して感じられる。
 瀕死のまま流されているこんな状態で、本当は話したり笑ったりしない方がいいに決まっている。そう思うのに、司が笑っているというそのことだけで、途方もない、弾けるような感覚が湧き上がってくる。
 名前をあえて探したくはない。それが何なのか、解る気はするけれど、今は向き合いたくない。
 とりあえず疲労が一気に回復するような、前向きな感情が爆発するような何かだ。
 こんなに非合理的で、情緒過多で、知的探求心がストップするような状態には、さっきからちっとも慣れない。
 千空の武器、自身が唯一頼みとしている脳よりも早く正確に、体の方が答えを導き出すことがあるのだ。

「あー、知りたきゃ生き延びるんだな。後のお楽しみだ」
「そうだね、うん――すごく、知りたいな」
「だったらもう喋んな。体力温存しとけ」

 気がつけば周囲は夕暮れの気配が立ち込めている。
 体温をこれ以上奪われる前に、岸にたどり着かなければならない。そうして味方が来るまで氷月と闘いつつ、持ちこたえなくてはならない。
 ――この男を死なせず、妹の元に無事返さなければならない。
 胸に抱く人間の命が、刻一刻と奪われていっているのを感じる。だが同時に、生きている司の気配を、呼吸のあたたかさを、どんな科学の武器よりも心強く感じている。
 一連の行動の理由が、脳のバグのせいでもいい。後で何一つ納得のいく理屈をつけられなくてもいい。
 今この瞬間は、体が――本能が命じるがまま、導くままに。 
 手を伸ばした先の命を、霊長類最強と呼ばれるこの男を。
 ただ、守りたかった。

   了

2021.06.01 twitterへ投稿 司千1weekドロライ お題【人魚姫】

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