第一章・運命
21,906文字。
何とか距離を縮めたい龍水が千空に差し入れに行き、勢いで告白しますが見事にフラれます。
千空が無茶苦茶言ってて龍水が少し可哀想なとこがあるので注意。最後に救いは見えます。
あと一、二回仲良くない期が続きますが、そのうちちゃんと龍千になります。
名前を、呼ばれたいと思っていた。
叩きつけるような雨の音で目を覚ます。
船乗りの習慣で、龍水は覚醒後すぐに動くことができる。だがここが己の寝室であること、夕方から警戒していた雨が降り出しただけだということが解って、起こしかけた上体を再び寝台に横たえた。
闇の中、未だについ時計を探してしまうが、そんなものがあるはずもない。灯りすらすぐに点けられない不便さにも、人の気配のないわびしさにも、慣れたつもりで、実はまだ順応していないのかもしれない。思わずため息をつく。
ふと、雨音に混じって、ギイと軋んだ音が響いた気がした。龍水は腹筋一つで起き上がると窓辺に寄り、ブラインド替わりの布を持ち上げる。
案の定、窓の下の坂道を下りていくぼんやりした光が見えた。特徴ある白っぽい髪が時折それに反射する。
千空だ。
実は、雨の夜や明け方、こんな風に坂を下りていくかれを見るのは初めてではなかった。
先ほどの音はすぐ下の岩屋から響いた気がするのに、かれが普段そこを使っている気配はない。だが気づかないだけで、実はよく寝泊まりしているのかもしれなかった。
龍水がこの巨大建造物跡の真上に屋敷を構えたのは、最上階がすでに人のものだと知ったからだ。そしてその持ち主は、今はいないと聞かされてきた。
なのに何故、時折千空がそこから出てくるのか不思議だった。朝方ならラボに戻るのだろうが、夜中の場合もそうなのだろうか。
聞いても教えてはくれないだろう、と思う。
千空とは、最近ではめったに口をきくことがなくなっていた。喧嘩したというわけではない。ただ、顔を合わせても話しかけられることはないし、話しかけてもひどく反応が薄い。だから段々話しかけなくなっていった。当然、窓から声をかけることもしない。
興味がないわけではない。いやむしろ、興味は多分にある。
石神千空。この原始の新世界に科学という光ををもたらした男。
合理主義の塊で、誰に対してもつゆほどの情緒も見せず、今では龍水に一切興味を示さない男。
そのかれが雨の夜、誰もいないはずの部屋を出て、傘もささずに一人坂を下りていく。
まるでホラーか三題噺だ。
その先の物語を、知りたいと願わずにはいられなかった。
◇
七海龍水が復活した時、小さいながら社会はあるていど成立していた。文明は滅びていたものの復活の兆しを見せており、納得できるレベルではなかったものの、衣食住に困ることはなかった。
原始の世界で一人きり復活したわけでも、誰かとアダムとイヴを気どったこともない。気の遠くなるようなトライアンドエラーを経験したことも、生死をかけた戦いに身を投じたこともない。一足飛びに「石神千空の生み出した科学文明」の恩恵を受けることができた。
そのことについて最初、特に感慨はなかった。龍水は自力で起きたわけではない。無論起こされたことに感謝し、報いたいとは思っていたが、やるべきことを決められ、他の選択肢がない状況には少なからず抵抗があった。
自分を起こしたという特徴ある髪色の少年は、ただ「神腕船長」という役割のみを期待して、それ以外には一切興味がないようだった。
かれは最初きらきらした眼で龍水に現状を語り、未来を語り、「この船で行けっか? 地球の真裏まで」と、作りかけの船を見せてきた。それを見て純粋に欲しいと思い、新世界を航海したいと胸が躍ったことは確かだ。復活させてもらった恩義もあるし、望まれるとおり、黙って船長としてかれらに貢献しようかとも思いかけた。
だが、千空の参謀を気取るメンタリストに煽るようなことを言われ、千空本人にも「安請け合いするマヌケかどうか試された」と感じたことで、龍水の反骨精神に火がついた。
復活させてもらったとはいえ、そして海に出るのは自分の望みでもあるとはいえ、他人の思い通り、歯車としてのみ生きていくのは矜持が許さない。だから油田という報酬を求め、また、石油を金で買い取らせる要求をつきつけた。原始の世界ではない、ある程度成立した社会に復活した成人男性としては、至極当然の感覚だった。
「試される」つまり「ナメられる」ような真似は二度とごめんだったし、自分の価値を上げるためにも、また船の完成まで自分の存在を忘れさせないためにも、通貨を生み出し牛耳ることは重要だった。
だがそのやり方は、純粋素朴な人類の生き残りと、まだ経済社会の荒波に揉まれていなかった少年少女が大半の復活者には歓迎されなかった。特に千空には不興を買ったらしく、かれは最初のようなきらきらした眼で龍水に語りかけてくることは一切なくなった。
それを惜しくは思ったものの、始めてしまったものは仕方がない。ナメられるよりはマシだと考える旧世界の既得権益者的思考で、龍水は豪奢な生活を一人きり満喫していた。
◇
「ご苦労だった。今日の分のドラゴだ、受け取ってくれ」
本日も自分の望みどおり、まめまめしく立ち働いてくれた手伝いの男に報酬を渡す。モヒカン刈りのかれは少し気が弱いが親切な男で、復活当初から龍水の面倒を何くれとなく見てくれ、気にかけてくれた。「これで今日もラーメンを食べられるよ」と嬉しそうに去って行く男を見送り、満足の吐息をつく。
龍水は決して身の回りのことを自分でできないわけではない。大抵の人間ができることなら、平均よりうまくやれると自負している。だが世話されることに慣れており、またそういう存在がなければ寂しくなるたちだった。だから、自分のことをあれこれ気にかけてくれた男を世話係として雇いたくなった。ドラゴを作ったのは、かれに報いるためという意味もあったのだ。
親切にしてもらった時、何かを頼みたいと思った時、報いるものを差し出せないのは至極不便だった。復活直後から感じていたことだ。船が完成していない現在、龍水は天候と造船の知識くらいでしか周囲に貢献できることがない。石油云々の話が出なかったとしても、いずれは通貨を生み出していただろうと思う。
だがドラゴも、それを使っての雇用も不評を買った。お坊ちゃんは自分のことも自分でできないのかと揶揄する声も聞こえた。龍水は気にせず、雇用は男女平等でなければと女性も雇ってみたのだが、これがまた不評だった。頼みを断れない気の弱い女性を選んで、思い通りにしているとあらぬ疑いをかけられた。
いわれなき中傷の犠牲にするわけにもいかず、可憐な容姿の女性とは雇用関係を解消する他なかった。かわりに目をつけたのがニッキーこと花田仁姫である。頑強な男をも打ちのめすパワーを持ち、物事をはっきり言う彼女なら、頼みを断りきれなかったとは思われまい。
そう考えた龍水だったが、ニッキーは龍水の世話をしてくれることはあっても、報酬を受け取ろうとはしなかった。先日貨幣の価値を説明したにもかかわらず、だ。
「いずれ必要となる日がくる。とっておいてくれ」
そう言っても、「アタシはお金を払ってまで欲しいものなんかないから。みんなと分け合ったり交換し合ったりする、それで充分さ」などと言う。龍水には理解できない感覚だった。
「ニッキー貴様は、この国の幹部と言っていい立場なのだろう? 俺はなぜ貴様らがいつまでも原始共産制に甘んじているのか解らんな。千空がそういう人間だからか? トップが清廉すぎるのも困りものだな。それでは自由にできんだろう」
手伝いの男が帰った後、交代するかのように現れたニッキーに向かい、龍水は首をひねって見せる。
健康美にあふれた女は、もともと吊り上がっている短い眉を更に吊り上げた。千空を悪く言ったつもりはないのだが、彼女にはどうやらそう聞こえたらしい。
「龍水、アンタとアタシらじゃ感覚が違いすぎる。復活した時の生活レベルが全然違うから、仕方ないのかもしれないね。アンタの方が現代人の感覚としてはまともなんだろう。でもアタシにはもう、千空のことをそんな風に思うなんてできないよ」
あさぎりゲンや大木大樹などからこの世界のことを聞き、千空についてはひと通り説明されてはいた。だが、女性の口から千空について聞くのは初めてだった。ニッキーは存外、千空に一目置いているようだった。
「冬に凍え死ぬかもしれないと思ったことはあるかい? 夏に腐ったものを食べて腹を壊したことは? アンタみたいな屈強な男なら平気なのかもしれないね。でもアタシら女にとっては、この世界はきついことばっかりだよ。不便で、怖いことや恥ずかしいことだらけで、楽しみも少なくてさ。千空と会ったのはつい最近だけど、アイツはこまめにアタシらの相談に乗ってくれて、たちまち生活を便利にしてくれた。欲しかったものを作ってくれて、守りたいものを守ってくれてる。それがどんなにありがたいか、アイツの言うことなら何だって聞いてやりたくなるか、アンタには解らないだろうね」
驚いたことに、ニッキーは目に涙を浮かべていた。
「でも千空は、王様みたいにはふるまわないんだ。やろうと思えばいくらでもそうできるし、誰も文句ないだろうにさ。アンタみたいに自分だけいいもの食べて、いいとこに住んで、人を雇って――アイツは絶対そういう風にはしない。アタシらと同じもん食べて、同じようなとこに住んでる。手伝ってほしけりゃ頼んでくる。手伝うことでもっとよくなることを知ってるから、断るやつなんかいない。そうしてアイツはアタシらと同じ生活をする一方で、人類とか文明とか、もっとずっと遠くを、大きなものを見てる。だからアタシらはここにいて、毎日喜んで働けるんだよ。アンタがしたいようにするのは勝手だけど、アタシらをそのやり方に巻き込まないでくれ」
そう言って涙を拭いて出て行った彼女を、龍水は呆然と見送るしかなかった。何を言われたのか、しばらくよく解らなかった。
酒を呑んで気を落ち着け、石神千空という男のことを考える。
そして「科学王国」という、王不在のこの国のことを。
龍水には、今の体制は危ういものだとしか思えない。千空にせよ、獅子王司にせよ、子どもたちばかりで理想の楽園を創り上げようとしている。司という男の理想には微塵も共感できないが、望み通りの世界を作りたかった野望はまだ解る。千空の方が解らなかった。
「科学文明を取り戻す」「七十億人を復活させる」。それはいい。だが、「石化の謎をつきとめるため、光の発生源である地球の裏側に行く」? この段階でそれはどうなのだろう、と思う。
全員が船に乗れるわけではない。いつ帰るか、帰ってこられるかも解らない冒険である。その間、残された者はどうなるのだろう。現在の体制はひとえに千空あってのものだ。かれがいなくなった後、一人でも司のような人間が出てくれば瓦解しかねない。下手をすれば人類が再び滅亡する可能性すらある。
龍水は時折、どうすればこの国がうまく成り立つのか、立ち行くのか、知らず考え込んでいることがある。
世界のすべてが欲しい。何もかもを手に入れたい。それは龍水の幼い頃からの望みだ。七海家の庶子として生まれ、家や財閥だけでなく、貪欲にこの世のすべてを手に入れたいと願ってきた。
だが今、自分はこの国を牛耳りたいのだろうか。王になりたいのだろうか。石神千空になりかわって?
そこまで考えると、いつも思考は停止する。
このまま油田を手に入れ、経済を牛耳り、世界中の人間を起こして恩に着せていけば、おそらく何もかもを得られるだろう。望みどおり世界を手にできるだろう。石神千空さえ思い通りに操ることができれば、であるが。
だが、そのように考えるのは――あまりにも味気ないと感じた。手に入るものに比べ、失うものが多すぎるという結論になるのが不思議だった。
千空という少年に、それほどまでに価値を見出している自分に、驚くような気分がある。
あの奇抜な髪の男が自分を復活させたのだということはすぐに解った。一目見て欲しい、と思った。
眼前の石が砕けた直後に見えた、自分を求め、待ち望んでいた顔。すぐにそれは青ざめた引き顔に変わったが、龍水は最初の表情を死ぬまで忘れないだろうと思う。
鳥の雛が孵化直後に見たものを親だと思いこみ追いかける、刷り込み学習のようなものだろうか。美女が三人もいたというのに、不思議なもので、最初は千空しか見えなかった。
起こされて以降も、かれの特異な容姿以外、ほぼ目に入らなかった。
のびやかで細いからだ、緑と白の髪、赤い大きな瞳。お伽話に出てくる妖精にも似た、夢見るような風情なのに、合理的で現実的で、驚くほど口が悪かった。そしてその頭に詰まった途方もない知恵と知識、見識、科学力と人心掌握力。何千年に一人というようなレベルの天才で、誰もが惹かれる稀有な存在であるのが途方もなく魅力的だった。
かれの作ったものを見てまわり、これまでの活躍を聞きまわり、その軌跡と奇跡を何度も想像した。龍水にはそうするだけの充分な時間があった。本人と話す機会は少なく、またそんな素振りは微塵も見せなかったが、千空という人間にどんどん惹かれていき、欲しいというきもちが膨れ上がった。
それは最初、魔法のランプやドラえもんを欲しがる子どもと同じで、何でもかなえてくれる存在が欲しいという、欲にまみれた願望だったかもしれない。
かつての世界であっても欲しがっただろうと思う。千空の興味と関心をひくため何億何兆をつぎこみ、あらゆる手段を使ってその身柄を手に入れていたはずだ。自分のそばに置き、ブレーンとして雇い、タッグパートナーとして遇し、かけがえのない友人として――
そこでまた龍水の思考は途切れる。
あの男ともっと近しくなれたら、とは思う。だが友人になりたいのかと考えると、少し違う気がした。
幼馴染に向けるようなとびきりの笑顔を向けられたら、それはさぞ嬉しいだろうと思う。屈託なく笑い合って肩を組んで、信頼と友情をはぐくんで、支え合い高め合って生きて行けたら――とも思う。船ができれば船長として活躍することで、それは不可能ではないはずだ。
だが、それだけでは到底足りないと船乗りの勘が告げていた。
鹿革の服の色と馴染むからだろうか、肌の面積が多く見える気がして、そのからだにいつもひどく欲を感じた。
うすい肩、ほそい首筋、白いうなじ。しなやかな腕がよく動くのにつられて、袖から見え隠れする脇や胸元。折れそうな腰、小さな尻、むきだしの脛、時おり裾からチラチラ見える腿。すべてが目の毒で、保養でもあって、つい追わずにはいられない。
そうして、手を伸ばさずにはいられない、と思ってしまう。無意識に指がうごめきかけたことは一度や二度ではない。そこにあるのは女のやわらかでなめらかな肌ではなく、荒れてかさついた肌だと解っているのに。この原始の世界で生き抜いてきた証である、それこそが尊いのだというような思いがある。
肌の熱さを直接感じたい。赤い瞳に間近で見つめられたい。ほっそりした肢体を抱きしめて、くちづけて、吐息を分け合って、そして――
そんなことを望んでしまうのは欲求不満なのだろうか、とも思う。この世界では性欲を満たしたくても、気軽に相手をしてくれるような人間はいない。復活者も人類の生き残りもみな純情素朴で、最初に雇った女性などは少しからかっただけで泣き出して辟易した。
その場面を誰かに見られていたら、今以上に叩かれていただろうと思う。そういう空気がここにはあった。この世界で簡単に女に手を出せば、居場所を失いかねないとすぐに悟った。
ならば男だ、と目を転じても、こちらも武骨が服を着て歩いているような者ばかりで、ラブ・アフェアを楽しめそうな相手などいない。龍水は男も守備範囲だが、無粋な性欲処理――いわゆるハッテン場のようなノリは絶対ごめんだった。
そうして苦労して相手を見つけても、誰を抱いても、きっと千空の顔がちらつくのだろうという気もした。足りない、つまらないと思うのだろうな、と。世界のすべてが欲しかったはずなのに、何をおいても手に入れたいものは、復活直後にもう決まってしまったのだ。
ただ、欲だけをぶつけるには千空はあまりに凛としすぎていたし、龍水の方も、ただいつくしんで貪り合って、といよりは、もっとおごそかなものを相手に感じていた。畏敬の念を抱いている、と言ってもいい。欲望と同時にある神聖な気分は、見慣れないもので戸惑った。
もしかして、これが恋というやつか。そう考えてため息が出る。
龍水はグラスの酒を一気にあおった。石神村製のきつい蒸留酒だ。ここのところ、昼はワインを、夜はこの酒をずっと呑んでいる。
いつから自分はこんなに純情になったのだろう、と思う。恋はシチュエーションを愉しむものだ、惚れたはれたと騒ぐのは野暮だ、相手に魅入られる前に自分を魅入らせるのだ、などと豪語していた自分が、今さら、本気の恋などと。
あるいは、そんなにも起こされた恩を感じているのか、とも思う。千空の価値に目がくらみすぎているだけではないのか、とも。
この世界では何しろ千空の価値が高すぎた。ニッキーだけでなく、誰にとっても唯一無二といっていい。かれに恩を感じ、慕う者は後を絶たない。今後どんなに文明が発展し、誰が起こされようとも、最初の復活者として、救世の英雄として、千空は万人から崇敬され求められていくだろう。数多の人間がかれを欲しがるだろう。
今の龍水は、相手に差し出せる対価をほぼ持たない。唯一、機帆船を操れるという切り札があるだけだ。そしてそれは、船が完成するまでは紙屑同然の価値だった。ドラゴが千空にとってそれ以下であることはいうまでもない。
どうすれば、何をすれば、かけがえのないただ一人の相手として、相手に認めてもらうことが出来るのか。
龍水はこれまで、そんな発想をしたことがない。初恋の相手にも、夢中になったはずの女たちにも、そんな風に考えたことはなかった。
所有していたすべてを失ったことについて、今さら惜しむきもちはない。旧世界で出逢ったとしても、それらが千空の興味をひけるとは思えないからだ。そして、この世界だからこそ千空に出逢えた。
だが――もう少し早く出逢えていたら、とつい考えてしまう。
せめて皆と同じスタートラインで。できれば、ここまで文明が発展しない時期に、二人きりの時間を持てていたなら。
おのれの価値をもっと認めさせることができただろう。唯一無二の存在になれたかもしれない。そう考えてしまわずにはいられない。
IFを考えない龍水が、ついつい「もしも」と想像をめぐらせてしまう相手。
幾多の浮名を流し、酸いも甘いも噛み分け、一人の人間に執着することなどなくなっていた百戦百勝の男が、「どうすれば相手にとってかけがえのない存在になれるか」などと真剣に考えてしまう相手。
それが、石神千空だった。
◇
雨の中、傘もささずに家を出て、巨大建造物跡の長い坂を下りていく。
別にそうすることで千空の心境を推しはかろうとしたわけではない。傘は貴重なもののようで一度か二度しか見たことがないし、どこにあるのかも解らない。金にあかせて手に入れたところで、龍水はふだん雨の日に行きたい場所があるわけでもないから、無用の長物になるだけだろう。そんなことで反感を買うのも面倒なので、これからも手に入れるつもりはない。
今は――行きたい場所というより、会いたい人物に会うため、革布の包みを手に家を出た。
坂を下りきってすぐの広場。雨が降ると科学王国はのきなみ作業中止となり、ここには人気がなくなる。だがラボの辺りだけは灯りがつき、人の気配があった。
ラボの隣の小屋からは、バタコンバタコンと大きな音がしている。小川杠が、普段は屋外でしている機織り作業を中でしているのだろう。龍水は布の中から果物をいくつか選ぶと包みなおし、小屋の入り口の、雨のかからない場所に置いた。作業に没頭している職人の邪魔をするような無粋はしない。
ラボの方には用があったから、ためらいなく声をかける。
「千空、入るぞ」
長い垂れ布をめくり、首をくぐらせる。石造りの小屋の中はひんやりしていた。奥の方でカセキと何やら話していた千空が、すいとこちらに視線を寄越す。
怪訝そうではあるが、普段ほどつめたい表情ではない。それだけで少し心が浮上した。
「何だ、珍しい。雨ん中こんなとこまで」
「差し入れにきた。少し休憩したらどうだ」
そう言って、むき出しで持っていた肉の塊や果物を、ガラス加工の作業机の上に置く。千空は耳に指を入れるいつものポーズをして皮肉気に笑った。
「ほーん。気が利くじゃねえか。だが、こっちよりあっちに持ってってやれ」
そう言って、杠のいる小屋の方を顎で示す。そう言われることは解っていた。
「もう置いてきた。熱中していて、気づくまで時間がかかりそうではあるがな」
千空は読めない表情でもう一度「ほーん」と呟くと、そばのカセキに顔を向けこう言った。
「カセキテメー、おありがたくいただいて杠と食ってこい。あいつもぶっ通しで働いてやがるから」
「オホー、了解!」
陽気な老人は机の上から林檎を取ると龍水に礼を言い、跳ねるようにして出て行った。それを見送ると、龍水は勝手に作業椅子を出して腰を下ろす。
「貴様も食え」
机の上を示すと、千空はため息をつき、手近な椅子に座った。
「あ゙ー、後でいただくわ。それよりテメー、何か話あんだろ」
「何だ、手が汚れるからか? 貴様も糖分をとった方がいい。剥いてやろう、ほら、」
そう言うと葡萄を一粒手に取り、中の実に触れないよう半分ほど皮を剥き、差し出してやる。かぐわしい香りの中、千空は目を丸くした。
「ご親切すぎてぞっとしねえな。何企んでやがる」
「フゥン、人聞きの悪いことを言うな。単なる親切だ。食わないのか? 甘いぞ」
そう言って、果汁したたるそれを歯でかじり取る。次の実を剥いて差し出すと、湿った空気の中、うっとりするような香りが更に濃くなった。この世界の葡萄は酸いものが多いが、中には甘いものもある。特別甘そうなものがあれば譲ってくれるよう、龍水は手伝いの男に頼んでいた。
甘い匂いに引き寄せられるように、千空の顔が近づいてくる。
「ン、」
眼を伏せ、自分の黒い指すれすれに口唇を寄せ、それを開いていくさまに胸が高鳴る。白い歯で実をくわえ、ぱくりと喰いついてきた時は喉が鳴るかと思った。
間近で咀嚼し、舌で口唇を舐めまわすのを見ていると、葡萄など放り出してそこに吸いつきたくなった。ほの紅い口唇は、果実よりはるかに甘く美味そうに見えた。
込み上げる欲望を抑えて何とか気を落ち着かせる。派手な髪と細いからだが離れていくのが寂しい。その肩に手を置いて引きとめたくなるのを堪える。
買い取った麻布のハンカチで手を拭い、相手が椅子に収まったところで声をかけた。
「千空、」
赤い瞳がいつになく無防備に見上げてくるのがいとしい。餌付けに成功したような気分だった。
「差し入れは食い物だけじゃない、情報もだ。喜べ、明日から数日間雨が止むぞ」
「梅雨の中休みってやつか」
千空の声がわずかに上ずった。喜んでいるのだ。
「ああ、本州上と黄海に中心を持つ移動性高気圧に覆われ晴天が続く。放射冷却の影響も加わって朝晩は涼しくなるだろう」
「ほーん、そりゃ助かる。テメーのお天気情報はお役立ちだな」
「気象予報士について習っていたからな」
「本格的だな」
見直した、という顔をされて心が更に浮上する。もっとそんな顔をさせたくなる。もっとこちらを見てほしくなる。
そして自分の名を、呼んでほしくなる。
龍水はまだこの相手に名前を呼ばれたことがない。誰に対してもそうなのかと思って観察してみたが、勿論そんなわけはなかった。単に、自分が避けられているのだ。
だからここで一気に距離を縮めたかった。二人きりの時間は初めてといっていい。下手は打てない。
そう思うと流石に気が逸った。初めて女を抱いた時も、初めて操縦桿を握った時も、こんなに緊張したことはない。千空は、龍水にいくつもの「初めて」を味わわせる、稀有な男だ。
「そうだ、俺は風と海のプロだ」
自分の価値を明確にして印象づける。船の操縦だけではないことを強調する。
だが千空は、意外なことを気にしてきた。
「なのに、タダで教えて下さっていいのか?」
「それは勿論協力するさ。船も気球も、俺が欲しいものだからな」
「そいつはおありがてえな。おプロ様から何かしていただくたび金がいんのかと思ったわ」
皮肉な口調に眉根が寄る。今この瞬間、金の話は無粋だ。
プロの仕事には、当然報酬が必要だ。だが天気の話は自分が勝手にしたことだし、特に労力を必要としたわけではない。
その境目は、しかし千空には解りにくいだろう。そもそもは自分から持ちだした問題だ。
「千空、――これは率直に言ってほしいのだが」
そう前置きすると、ずっと確認したかったことを聞いてみる。どんな答えが返ってくるのか恐ろしくもあったが、ここで聞かずにはいられなかった。
「俺が通貨を作ったことが気に入らないか? 貴様の統べる世界を乱したか? 俺は」
「あ゙ぁ? ――早かれ遅かれ必要なもんだろ。それに、俺は別に統べてねえわ」
細い腕が持ち上がり、また耳に指が入れられる。この癖はどのタイミングで出るものなのか、龍水にはまだ見抜けないでいる。ただ、「嘘をついている時」でないことは確かだ。
「科学『王国』っつっても、王政敷いてるわけじゃねえ。王は俺じゃなくて、科学だ」
ゲンに何度か聞かされたのと同じことを言われる。龍水には、その感覚はまだ解らない。だからこそ、この体制をあやういと感じているのかもしれない。
「俺もこの際聞いておくが――テメーはよく、世界は俺のものだとか、この世のすべてが欲しいとか言ってやがるが――王にでもなりてえのか?」
よく光る赤い眼がまっすぐこちらに向けられる。その中には、明らかに警戒の色があった。やはり、と思う。常々そう思われているのではないかと感じていたことだった。
この男は、一度殺されたのだという。以前この地にあった国の王――獅子王司に。
だから自分のことも警戒しているのだろう、と思う。大樹によれば、千空は司の武力に期待し、その復活に同意したものの、当初からひどく警戒していたらしい。結果、司は千空と対立したわけだから、龍水ともいずれそうなると考えていてもおかしくなかった。
本当に殺されたことを考えれば、野望を持った、体格差のある相手を警戒するのは無理ないことなのかもしれない。たった一人で原始の世界に目覚め、本当の意味で死地をくぐってきたかれの防御本能を、過剰だなどと笑うことはできない。
だが、勿論そんな風に思われるのは心外だった。自分は決して千空を脅かす存在ではない。
千空になりかわって王になりたいのか、何度も考えた。だがそのたび違う、と感じた。世界のすべてが手に入る可能性があったとしても――そうすることでこの相手から見切られるのは絶対にごめんだというきもちがある。
だがそれを、どう伝えればいいのだろう。敵ではないのだと、むしろ好意を寄せているのだと。
そのまま口にしても、かれは鵜呑みにするような性格ではない。司に評価された時も、千空はただただ警戒を強めただけだということだった。本当に信頼を得るには、やはり航海まで待たなければならないのかもしれない。
フランソワがいればな、と思う。これは甘えだと充分自覚しているが、自分を全肯定してくれるあの執事さえいれば、もう少しましな人間だと証明できる気がするのに。
だがいくら欲しがりでも、皆が肉親の復活を切望しつつ耐えていることを知っていて、自分の身内だけ優先させるようなことは出来なかった。それにいくら金を積もうが、復活液を使わせる合理的な理由がなければ、千空は首を縦に振らないだろう。
むしろフランソワを復活させるためにも、龍水は自力で相手の信頼と信用を得なければならない。
――復活液。
もう作れないものだと聞く。あとどのくらい残っているのだろう、と思う。自分が今考えても貴重すぎるほど貴重なものだ。そのうちの一本を使って、自分が選ばれて起こされたのだということを考える。
選定役が反対し、周囲が躊躇する中、千空が迷いなく自分を選んだのだとニッキーに何度も聞かされた。
千空は、龍水の運命そのものだ。運命の相手というよりも、千空自体が、その一挙手一投足が、行く末が、龍水の命運を握っているといっていい。幸不幸も苦楽も、生死すら千空によって左右される。
かれをこの先、痛みなしに切り離せる日は来ないだろう。
そんな相手に――なりかわりたいなどと思うわけがない。
「千空。俺は、獅子王司じゃない」
まずその区別をはっきりさせたかった。司の名前を出した途端、目の前のきりりとした眉がひそめられた。
「貴様の目にどう映っているかは知らんが、俺は何かを支配したいとは思わない。そういう人間じゃあない。覚えておいてくれ。俺は資本主義経済の恩恵を受けて育ったし、それを復活させたい気持ちはあるが、絶対王政に興味はないんだ」
きっぱり言うと、千空が何か言いたげにしているのが解った。司も絶対君主ではなかったと言いたいのだろう。だが、龍水にはそれはどうでもいいことだ。
「俺は商売人だからな、対等な関係が好みだ。千空、貴様の言葉で言うなら等価交換だ。何かを得るには対価が必要だと考える。そのために、通貨を作った」
再びぴく、と眉が寄る。必要なものだと解っていても、やはり金の話は嫌いなのだと感じる。
不思議だった。嫌なら嫌で拒否すればいいだけのことだ。新参者が通貨など作る権利はない、自分は認めていない、あんな紙くずは無効だ、と。千空ならそれが出来る。だが、そういうことは言わず、黙ってしまうのは意外だった。
まだ経済社会の荒波に揉まれていなかった純粋な若者だから、という印象ではない。この男はそんな価値観は持っていないだろうと思う。だが、一応聞いてみる。
「ことあるごとに金を要求するのは意地汚いと思うか? 金でしか動かんケチな男だと、貴様も俺のことを思っているか?」
「いや、思わない。テメーは間違ってない。高い技術に等価を払うのは当たり前だ」
意外にも、千空は龍水の顔を見てはっきりそう答えた。
「旧世界なら当然のことだ。違和感があるのは――だから、俺の問題なんだろうな」
そう独白して遠い眼をする。首を折り、広げた腿に両手を乗せ、腰を折るようにする。翡翠のような色の髪と、立てた襟から覗く白いうなじに目を奪われた。
その一方で、龍水は近づいてその顔を覗き込みたいと思った。どんなふうに違和感があるのか聞いてみたかった。
だが問いを続ける前に、ふたたび相手から逆に質問された。
「テメー、他に欲しいモンはねえのか」
視線の位置が更に下がった相手から覗き込まれるように見上げられ、心臓が跳ねる。戸惑っていると、思いがけないことを言われた。
「等価交換は、金じゃねえとダメなのか?」
「金以外か。――人でもいいのか?」
思わず声が浮き立つ。ぐっと喉が鳴りそうになった。
初めての恋に戸惑い、相手とどうにか近しくなりたいと思っている人間が、その言葉を聞いて好機到来だと思ったとして、誰が責められよう、と思う。
心の動きが解ったのか、千空は牽制するように言った。
「あ゙ぁ、女はダメだぞ。了承する権利なんざ俺にはねえからな。欲しいやつがいんなら、それは直接本人と交渉しろ」
「フゥン、無粋を言うな。勿論解っている。本人と交渉するさ」
そうして千空、と名を呼んで、おもむろに相手の肩に両手を置き、
「――貴様が欲しい。俺のものになってくれ」
早鐘のように打つ鼓動を感じつつ、精一杯余裕のある態度でそう言った。
赤い大きな眼が、これ以上ないほど見開かれる。
「といっても勘違いするな、対等な関係だ。俺も貴様のものだ。俺を抱いてもいいし、俺の持つ技術をすきに使っていい。貴様と唯一無二の仲になりたい。俺たちが二人でいれば、この先何だって成し遂げられると思わないか?」
千空が自分の運命ならば、自分もまた、千空の運命になりたい。
手を取り合って支え合い、共に並び立ち、同じ夢を見る存在になりたい。
情熱たっぷりに言ったつもりの言葉は、だが、失意の表情で受け止められた。
「あ゙ー、そういう……」
千空はため息をつくと、肩の上から龍水の手を振り払った。ハエを追いやるような仕草だった。
「テメーの技術を使っていいから、俺の科学もすきに使わせろって? ついでに性欲処理させろってか?」
見上げてくる顔は、普段見せる表情より更につめたく、すさんだ口調には嘲りと失望が感じられた。
龍水はただただ混乱した。
自分は一体何を間違えた? どこで? どういう理解でそうなった? そんな言葉が頭の中でぐるぐる回る。
「俺が言うこときく関係になりゃ、テメーは楽に科学王国を牛耳れるわな? この先もご安泰なわけだ。考えたなあ? あれだけ女女言ってたんだ、ホモとも思えねえし、契約結婚みたいなモンなんだろ? そんな風に言って俺が一ミリでも心動かされると思ったのか? いくら俺が合理的だからって限度あんだろ」
しまった、言い方を間違えた、と思った。まさかそんな風に聞こえるとは思わなかった。
「俺は以前司に、科学を捨ててほしいって迫られたことがある。言ってることは真逆だが、本質的には同じだよな。邪魔だから捨てろとか、便利だから使わせろとか。結局都合いいように、コマみたいにしか考えてねえよな。科学も、俺のことも」
「違う、千空、」
「ま、科学者ってのは古今東西そういうモンかもしれねえ。権力持ちたがる奴にとっては邪魔だったり便利だったりすんのかもな。で? 俺はあん時断ったら殺された。テメーも、そうすんのか?」
「違う!!」
耳をいじっての挑発的な口調と視線に、強い言い方で否定する。余裕などもう持てなかった。
「科学の問題じゃない。そんな合理的な話じゃない。俺の言い方が悪かった」
まずかった――と龍水は口元を覆う。等価交換の話をしていたこともあり、そういう言いかたの方が相手の興味を引けると無意識に判断したのだろう。
もっと真摯に告白すべきだった、と苦いものが込み上げる。
「何だ? まさかお気持ちの問題とか言うんじゃねえだろうなあ?」
「まさに、気持ちの問題だ。俺は貴様に惚れている。だから、貴様のすべてが欲しいんだ」
思いがけずしめされた道筋に勢いづいて、ここぞとばかりに言う。千空はその赤い眼をすっと細めた。
「ほーん、俺はほんとに口説かれてたってわけか。そりゃ盛大に勘違いして悪かったな――」
そう言って明後日の方向を向き、ガリガリと後頭部を掻く。
「でも、フツー考えられねえだろ。冷静に自分のこと振り返ってみろよ。俺が今テメーになびく要素が一ミリでもあると思うか?」
赤い眼だけがこちらに向けられる。一瞬、何を言われたのか解らなかった。
「俺の顔見るたび金のことしか言ってこなかっただろうがよ。無視してたら昼間から酒かっくらって、働いてるやつ偉そうに見物しやがって。一体どこになびく要素があんだ、今のテメーに。セレブやら昼寝三昧の専業主婦なんか成立しねえこの世界じゃ、女だってドン引きだろうよ」
詰られているのだと理解するのには時間がかかった。龍水は惚れたはれたの場面で、これほどはっきり拒絶されたことはない。あったのかもしれないが記憶になかった。いつも、何を言われても傷つかない程度の関係だった。
今は――明らかに傷つけるため発せられた刃のような言葉に、黙って耐えるしかない。すべて本当のことだったからだ。
「俺は勿論合理性優先だ。でも、木石じゃねえんだわ。いくらテメーと寝た方がお得だったとしても、そこまで割り切っちゃいねえ。頑張って石油見つけて船長報酬払った方が断然マシだ。お気持ちだのなんだのは一切絡まない、純粋なビジネスですむからなぁ?」
千空はいっそ晴れやかといっていい笑みを見せてそう言った。耳を塞ぎたい思いだった。
「等価交換なんざ、勿体つけて言うほどのことでもねえ。そんなことは当たり前だ。テメーは知らねえだろうがな、ここには頼んでもねえのに無償で命かけられる奴がごまんといんだよ。大樹と杠以外は全員石化後からの付き合いだ。それでもからだ張って俺に命預けて司帝国と戦ってくださった。ゲンやクロムみたいなヒョロガリも、銀狼みたいに普段適当言ってるやつも、寝返った羽京もニッキーも……そう、女も、子どももだ」
そう言って、残酷な想い人は顔を近づけてきた。おのれの顔が近づいた時龍水にどんな影響を及ぼすのか、把握しているような表情だった。
「俺の好みを教えてやろうか? 進んでよく働く奴、文句言わずによく働く奴、文句言いながらもきっちり働く奴、の順に好みだ。今のテメーに惚れる要素が一ミリでもあるか? もっとも、出航したら勿論違うって信じてるぜ? 俺が見込んで起こした神腕船長だ、きっとすげえ働きをするに違いねえ。でも、それが判明するまでは全く好みじゃねえな」
断罪の言葉はいやに優しげに響いた。千空はまだ笑っていた。
龍水は、針の筵とはこのようなことをいうのかと生まれて初めて思った。全身が鋭利なもので切りつけられて、血を流しているかのような気分だった。
痛みはいつまでも続き、夜になっても消えることはなかった。
◇
失恋そのものも、その後呑む酒の味も、ひどく苦いものだと龍水は初めて知った。
自棄酒というのだろうか、そんな呑み方をした自覚はある。目覚めると既に昼近かった。窓から注ぐ陽の射し方でそれが解った。どうやら、窓に布を垂らすのも忘れて寝落ちしたらしい。
昨日予測したように、梅雨とは思えない見事な快晴だった。造船も気球づくりもさぞかしはかどることだろう。だがさすがの龍水も、今日ははりきって下に降りていく気にはなれない。
――昼間から酒かっくらって、働いてるやつ偉そうに見物しやがって。
千空の言葉がよみがえる。
そんな風に思われていたのか、とため息をつく。
――俺の好みを教えてやろうか? 進んでよく働く奴、文句言わずによく働く奴、文句言いながらもきっちり働く奴、の順に好みだ。
では、今までさぞかし言いたいことを飲み込んできたのだろう、と思う。
千空は、これまで直接苦言を言ってくることはなかった。誰かが龍水のことを悪く言ってもすきにさせていた。昨日のように想いを伝えることがなければ、ずっと何も言わなかったに違いない。
話すのも嫌だったのか。
そう思うと、チリチリ胸が焦げつくようだった。
自分を嫌っている相手に対して無様に恋を打ち明けたことを考えると、痛む頭がますます痛くなってくる。
こんなみじめな思いをしたのは、生まれて初めてだった。
――また、失うのか。
ガンガン痛む頭の中で、そんな言葉が木霊する。
開かれた窓。はためくカーテン。
昼から一人部屋にこもり、窓の向こうの青空を見ていると、あの日の光景がフラッシュバックする。
――本気で欲しいものだけ、近づきたいものだけ、どうして。
寝台に座り込み、頭を抱えていると、
「起きたかい、二日酔い」
そんな声と共に、玄関の扉が開く音がした。龍水は弾けるように顔を上げた。
大きな籠を背負った花田仁姫が、あきれたような顔で居間に入ってくるのが見えた。
「ニッキー、なぜ、」
そう言いかけて、戸締りした記憶がないことに気づく。この石世界では扉すらない住まいも多いが、龍水は毎晩眠る前に扉につっかえ棒を立てている。昨夜はその習慣さえ忘れてしまっていたらしい。
そもそも、ラボからどうやって帰りついたのかもよく覚えていなかった。
「――が」と、ニッキーは手伝いの男の名を出した。
「朝行ったら戸が開いてて、アンタが酔いつぶれてて起きそうにないって言うから放っておいたんだけどさ。さすがに死んでんじゃないかって、アイツが言うから」
そう言って笑いながら、持ってきたものを居間の机に並べはじめる。彼女は時折こうやって、食糧や水、生活用品を届けてくれていた。
さすがに寝ているわけにもいかないと、龍水はのろのろと起き上がり、手近にあったキャプテンコートを羽織る。無言で居間に足を踏み入れると、ニッキーはこちらを見て苦笑した。
「なんだい、こてんぱんにやられた顔だね。アンタが無精髭生やしてんのなんか初めて見たよ」
そう言われて思わず顎を擦る。一夜を共にした相手と執事以外には見せたことのないものだ。
普段、龍水の朝は早い。どんなに呑んだ朝でもさわやかに目覚め、きっちり身支度をすませてから人前に出るのが常だった。つくづく、失恋とは無様なものだと思う。
「アンタにそんな顔させるってことは、千空だろ。いっつも見てるもんね」
その言葉に思わずぴくりと眉が動く。
まさか、知られているとは思わなかった。女性の勘というやつだろうか、と考える。
「何だ、貴様は意外に俺を見ているのだな。惚れているのか? なら、傷心の俺をなぐさめてくれるか?」
無様なすがたを見られたことや、その原因をあっさり指摘された羞恥もあいまって、ついそんな風に言ってしまう。以前雇った女性なら真っ赤になって逃げ帰るところだろうが、ニッキーなら大丈夫だろうという甘えもあった。
案の定、「バカだね、そんなわけないだろ」と凄まれる。
「アンタは女好きなようでそういう馬鹿なこと言わないから、その点だけはマシだと思ってたのにさ。違うのかい? まったく、千空も見る目がないよ」
「――千空?」
どうせ自分を選んで起こしたことを言っているのだろうに、その名前に思わず反応してしまう自分が恨めしい。未練がましい、と思う。
だが、ニッキーは思いがけないことを言った。
「そうだよ! 惚れてるわけでもないのに、アタシがアンタの世話なんか進んで焼くわけないだろ。普通なら、男の新入りは男が手伝うもんさ」
「何だと? 貴様、千空に言われて俺の手伝いをしていたのか?」
思わず声が上ずる。急速に酔いが醒めていく気配がした。
「他にいるかい? アンタ、一度――を雇って泣かせたろ。あの子別にそれを言いふらしゃしなかったけど、千空は何かあったって勘づいたんだよ。アンタのこと、注意して見てたんだろうね。『きっとまた別な女に声をかける、そうなる前にテメーが面倒みてやってくれねえか』って頼まれたんだよ」
龍水は、ニッキーが初めてこの家に来た時のことをよく覚えている。自分に気があるわけでもなさそうなのにずかずか中に入ってきて、この世界での様々なルールと注意事項を言い渡し、こまめに世話を焼いてくれた。物おじせず、余計な口を聞かず、よく働く彼女を気に入って、ぜひ雇いたいと声をかけたのだ。
まさか、お膳立てされていたとは思ってもみなかった。
昨日のニッキーの涙を思い出す。そして、どんなに言っても決して報酬を受け取らなかったことを。
彼女は千空に頼まれたから、自分の手伝いをしてくれていたのだ。
――アイツお坊ちゃんみてえだから、こんな世界でうまくやれるか解らねえ。悪ィがちーっと面倒見てやってくんねえか。放っておくと手当たり次第女に声かけてく可能性もある。テメーなら、アイツみたいなのもうまくかわせんだろ。
「って言われたんだよ、うちのリーダーに!」
きっぱり言い放った情の厚い女は、その後続いた千空の言葉も教えてくれた。
――アイツ起こすって決めたの俺だからあんま不祥事は困るっつーか。でも、ほんとに嫌なこと言われたりされたら俺に言え。まああれで割と、そういうやつじゃねえと思ってんだが……
そう言って、斜め上を見ながら耳をいじるすがたが、目に浮かぶようだと思った。
千空は、龍水に愛想を尽かしていたわけではなかった。野放しにしていたわけでも、ただ不満を募らせていたわけでもなかった。船長としてだけではなく、人としても評価してくれていた。
ゆっくりと、何かが心に降り積もっていく。
それはまるではかない雪のようでもあり、あたたかいものでもあるようだった。それは龍水の胸をしめつけ、満たし、泣きたいような、叫び出したいようなきもちにさせた。
遠い昔、子ども時代に感じたことがあるような、ないような、記憶さえ曖昧な、懐かしい感覚だ。
人間の一番原始的な、根幹の部分を揺すぶられている気分だった。
「千空に言われてるからね、当分は面倒みてやるよ。アイツがアンタを評価してるみたいだからね。今はどこがすごいのか解らない、ただのごくつぶしの能無ししにか見えないけど、つまりアタシの好みじゃ全然ないけど、きっとほんとはすごい船長なんだろ? 船が出来たら見せてもらえるんだろ? その神腕をさ」
ニッキーは龍水の胸に軽く拳を入れながら、千空と同じことを言った。千空がそう言ったのだろうということがありありと解って、龍水は思わず笑った。笑いながら、顔をてのひらで押さえた。
「千空がそう信じてるからね、アタシもそう信じるしかないね」
微笑を含んだニッキーの声は、まるで聖母のそれのようにひびいた。
勿論だ、信じてくれ、という思いは言葉にならなかった。
言葉ではなく、行動で示す他ないことだからだ。
◇
顔を背けるな、と自分に言い聞かせながら、浜辺に出来た人の輪に近づいていく。
気球づくりは、どうやら布を縫い合わせる段階に入ったようだった。晴れたのでようやくそれが可能になったのだろう。輝く海と空を背景に人々が立ち働いている光景は、やはり壮観だった。
いずれ自分の船員になるかもしれない者たちである。それぞれの特徴を観察し、頭の中で人員配置を考えながらそれを見ているのがすきだったのだが、偉そうにしていると思われるのならやめておいた方がいいだろう。
とりあえずは、話したい相手を探す。
そう決めた途端、探すまでもなく、妖精じみた色彩が視界の隅に現れた。心臓が口から飛び出しそうになるのをこらえ、相手に向き直る。
鹿革の服の袖や裾を潮風になびかせて、夢のように千空がそこに立っていた。
「千空、昨日は――」
「ようやくお目覚めか、酔っ払いが。貴重な酒一人でガンガン呑んでんじゃねえよ」
謝る隙もなく毒づくさまに、らしい、と苦笑が漏れる。気にしていないことは話しかけたことで充分解るだろう、というのがかれの流儀なのだ。
「当たったな、天気予報」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている」
そんな軽口にようやく調子を取り戻すと、相手もわずかに口の端を上げた。
「そこのテントにでも入ってたらどうだ」
「ん?」
意外なことを言われ、思考が追いつかず目を瞬かせる。指さされた方向を見ると、無人のテントが潮風にはためいていた。
昨日こてんぱんにされたからか、「俺の視界に入るな」と言われているのかと、らしくもなく後ろ向きな考えがよぎる。
だが勿論、千空はそういう人間ではなかった。
「働いてるとこ見ていてえなら。日よけや雨よけになんだろ」
「――なるほど?」
自分のやりたいことをゆるされ、印象の悪くない方法を提案されたのだと解り、龍水は思わず破顔した。
心がたちまち浮上して、相手を抱きしめたい気分になる。が、勿論そうできる間柄でもないので何とか堪え、「フゥン、では、そうさせてもらうか」と鷹揚にふるまった。
そうして厚い布に手をかけ、テントの中に入る体勢をとった後、おもむろに背後を振り向く。
まばゆいばかりの空と海。あざやかなその青を背景にした千空は、本当におとぎ話の主人公のようだった。
この男の元に、皆が集まり、新しい世界を作っていくのだということが、すなおに信じられた。
本当に尊敬に足る、そして自分が愛や恋を捧げるにふさわしい、運命の相手だと実感する。
だから昨日のことを何も言わず、このままうやむやにする気はなかった。
「千空、昨日はぶしつけにすまなかった。あの言い方はなかった。忘れてくれ。もっと俺の価値が上がってから、もう一度ちゃんと言い直させてくれ」
今度は相手に遮られることのないよう、やや早口で謝罪の言葉を述べる。
千空は毛虫でも見たような顔になって口を曲げた。
「何言ってんのかいっちミリも解んねえしどうでもいいわ。俺にお気持ちの話をごちゃごちゃ言ってくんじゃねえ。欲しいものがあんならテメーは金だけ要求してろ。その方が話が早え」
相変わらずその風情に似合わない、ぞんざいな態度と言葉づかいである。だが、充分想定の範囲内だった。
「それは、約束できないな。いつかまた、俺に気持ちを伝えさせてくれ。そのチャンスをくれ。俺は貴様にふさわしい、釣り合う男になるから」
「だ、か、ら! お気持ちの話すんなって言ってんだろ! この非常時に余計なモン背負いこむ余裕はもう一ミリもねえんだよ!!」
「では文明が復興した後ならいいのか? 『科学文明作った後ならいくらでもドキドキ純情少年してやる』と言ったらしいが」
どんどん悪くなっていく相手の口調と表情に、苦笑しながら譲歩してみせる。千空はケッと吐き捨てるように言った。
「テメーがそんな殊勝なタマかよ。その頃にはテメーのおすきなあらゆる美女が復活してんだ、百億パーセント俺のことなんざどうでもよくなってるわ」
「それはないな」
そんな仮定の話は聞き捨てならないと、龍水はきっちり訂正を入れた。
「俺にとっては貴様が運命だ。俺の未来も、命も、すべて貴様のものだ。それを忘れないでくれ」
「そんな重いモンはいらねえ」
真剣に真情を述べると、赤い眼が一瞬揺れ、すぐふいっと逸らされる。
「千空、俺はお得だぞ? ――いや、この話はまたにしよう」
このまま自己アピールを始めるとまた等価交換の話になりそうで、龍水は今の段階ではこれ以上深追いしないことを決めた。
やはり自分の価値を一度はっきり見せないことには、何を言っても安っぽい軽薄な口説き文句にしかならない。
話を中断したのをどうとらえたのか、千空は腕を上げて耳の穴に指を入れるいつものポーズをすると、そのまま空を見上げた。
「あ゙ー、テメーが、この世界に順応しようとしてることは解ってる」
自分のことを言われているのだと理解するのに、数秒かかった。
「むやみに女に手ェ出さなかったり、身内を復活させろとか無茶言わねえで、空気読んでいただいてんのは正直助かる。天気のこと教えてくれたり、杠にも差し入れしたり、自分にできることをしようとしてんのも、悪くねえことだと思う。俺も――言いすぎたかもしれねー」
そう言うなり身を翻し、足早に立ち去っていく後ろすがたに目を奪われる。
千空、と叫んで、走って追いついて、後ろからかき抱きたくなる衝動を、龍水はどうにか堪えた。
白く輝く海とまばゆい空を背景にして、一番輝かしいのは、一番尊いのはあの人間だった。
あまねく人間を、すべてを欲しいと望む自分であるのに――ただ一つを選べと言われたら、もはやあの男しか答えはなかった。
素晴らしいものや美しいものを、龍水は飽きるほど見てきた。
地平線から朝日が現れる瞬間を大海原の真っただ中で見ること、操縦する飛行機から空の果てを見上げ、地上を見ろすこと、自分の上で豊満で高慢なセレブがよがり狂うさまを見上げること。
素晴らしい景色、素晴らしい体験、素晴らしい女、素晴らしい快楽を、たくさん知っていると思っていた。
だが今、それらがみな色褪せて見えるのはどういうわけだろう。
あらゆる価値が塗り替えられ、過去と未来が作り変えられていく。今日は昨日の延長ではなく、今日の朝と明日の朝は同じものではない。
龍水はこれまで、自分は物語の主役なのだと思って生きてきた。世界は自分を中心にまわっているのだと、まわしていくのだと信じて疑わなかった。
今は――千空の紡ぐ物語を構成する一部でも構わないと思いはじめている。
だがかなうならば、かれに一番頼られ、求められ、愛される唯一無二の存在として、共に物語を、世界を作りたい。そうすることで間接的にすべてを手に入れたい。
冥いものを伴っていた自分の欲望が、明るく、大きく、具現化されて目の前にあることが解った。
千空がすべてを、光あるものに変えてくれたのだ。
運命以外ではなかった。
to be continued……
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