IN SILENCE 龍千

蜜月にはまだ早い


26913文字。
周囲の人(羽京、司、大樹)と龍千の二人を絡ませて、「何故龍千なのか」を考えてみました。
前半が羽京視点、後半が千空視点。最後はまた龍水の寝室でいちゃいちゃしてます。



 西園寺羽京はその日の正午、テンション高く子どもを「高い高い」する七海龍水のすがたを目撃した。

 本日の龍水は、早朝からやけに精力的だった。幾人かと打ち合わせを行い、どこかに出かけたと思ったら見慣れない男を数人連れ帰ってきた。その後は旧知の人間を交えて早めの昼食をとりながら会議を行い、口角泡を飛ばして激論を戦わせていた。
 時おり耳に入ってくる声を聞いているだけで、随分気合いが入っているな、ということがよく解った。声だけでなくすがたを見る機会も何度かあったが、どのシーンでもはち切れそうな笑顔で、テンションは始終マックスだった。勿論、七海龍水とは元々そういう男ではあるのだが、今日は普段の倍以上は凄かった。
 その理由について考えるため、羽京は龍水らの去ったレストランで、食後のお茶を啜りながら昨夜の記憶を呼び起こそうとしていた。お茶は龍水が船上で飲んでいたヤギミルクのラテである。落ち着いた精神状態で、昨夜偶然聴いてしまった会話を思い出そうとしていた羽京の耳に、突如子どもたちのかん高い声が響きわたった。
 性能のよすぎる耳をつんざくような、「キャー!!」とも「ワー!!」とも聞こえる声に、反射的に立ち上がる。悲鳴とも歓声ともつかないが、国防意識が人一倍強い科学学園の教師としては、出動せずにはいられない。
 あわただしくフランソワにご馳走様を言って店を出る頃には、「ハッハー!!」というお馴染みの哄笑――だがこれも普段の倍以上大きい――も聞こえてきた。高笑いというよりバカ笑いといった方が相応しい声量とテンションである。上機嫌の龍水が、また子どもたちにお小遣いを配りまくっているのだろうか。そういうことはやめるようさんざん釘をさしたはずなのに、と苦い顔で現場に急行した羽京は、そこで冒頭の光景を見た。
 列を作って並ぶ子どもたち。皆、目をキラキラさせ、列の先にいる背の高い男を振り仰いでいる。その男は両腕を太陽の方に高く掲げ、マントを靡かせ楽しそうにくるくる回転している。両腕の先には、普段からは想像もつかないほどはしゃぐナマリのすがたがあった。

「はっはー!! どうだ貴様ら、俺の『高い高い』は!!」

 完全に躁状態の龍水がくるくる回りながら得意げに叫ぶ。手を離してナマリを放り上げないか羽京は心配になった。放り上げたとしてもコントロールの達人は難なくキャッチするだろうが、ナマリは赤ん坊ではなくそれなりに大きい。そして意外に重いのだ。うっかり手をすべらせたら大惨事である。

「スッゴイんだよ龍水、今日は朝からずーっとニコニコしてるんだよ……!」

 既に「高い高い」をしてもらったらしいスイカが、興奮した様子で羽京に話しかけてくる。

「どうして龍水があんなことをやり出したのか聞いてもいい?」

 子どもたちにドラゴを配っているなら止めるところだが、「高い高い」をしているだけなら文句は言えない。だが、この騒動の発端は気にかかった。何かを賭けていたりするなら、そこは大人として止めなければいけない。

「解んないんだよ。レストランの方から来た龍水が、スイカを見ていきなり『高い高い』してきたんだよ」
「あー、」

 羽京は額を押さえた。その様子が目に浮かぶようだった。ハイテンションになった龍水は、お気に入りのスイカを見つけて、可愛がりたくてたまらなくなったのだろう。そして、スイカが「高い高い」されているのを見て羨ましくなった子どもたちが自主的に列を作ったのだ。
 微笑ましいというには絵面の激しい光景が、特に意味のない龍水のサービスだと解って、科学王国の自衛官を自認する羽京は胸を撫でおろした。全員をあのテンションで「高い高い」していたら疲れそうではあるが、龍水はタフな男だし特に問題ないだろう。
 次に満面の笑みで抱き上げようとしているのが、獅子王未来であることが若干気にかかるところだが。
 ――と、思っていたら。

「やめてくれるかな、妹に手を出すのは」

 霊長類最強であるところの未来の兄が、長い髪をなびかせ現れたから驚いた。相変わらず気配を感じさせない男である。
 獅子王司は小さな妹の肩を掴んで龍水から引き離すと、自分の背後にまわらせ、隠すようにした。

「フゥン、人聞きの悪いことを言うな。だが、そうだな、未来はもう立派なレディだ。『高い高い』は少々失礼かもしれん」

 わずかに目を眇めたものの、龍水は鷹揚に頷いてみせた。未来が勝手に並んでいたのだ、などと無粋なことを言い返さないところが、この男のいいところである。

「なんやの兄さん、せっかく私の番やったのに。龍水さんはロリコンと違うで」

 だが未来の方は不満だったようで、兄の背中を小さな拳で叩き、その束縛から抜け出そうとしている。勿論、霊長類最強は微動だにしない。

「――未来は龍水と仲がいいの?」

 妹の方を振り返って司が言う。かれがこんな表情をすることは、今ではほぼない。普段はどこかアンニュイだが、驚くほど柔和な顔を見せることもある。それが、かつてを彷彿させる剣呑な雰囲気をまとっていた。そんな司のすがたを子どもたちに見せたくない羽京としては、若干ハラハラする。
 だが、最愛の妹のことなら仕方ないか、という気分もあった。兄なら誰しも、「全ての女は皆美女だ、大好きだ、全員欲しい!」と豪語してはばからない男と妹が親しくしていたら気になるところだろう。

「兄さんは知らんやろうけどな、龍水さんは兄さんへのチョコを一緒に作ってくれた恩人やで? そんな警戒せんとってほしいわ」
「はっはー! そうだ、俺たちはバレンタインにチョコレートを作って貴様に届けた仲だ!!」

 そんなことは絶対綺麗に忘れていただろう龍水が、指を鳴らして未来の言葉を補足する。そういえば、と羽京は思い出した。二人は今年のバレンタイン、大量のチョコレートを一緒に持って配り歩いていた。あの中には、洞窟で眠る司の分も含まれていたのだろう。

「それは――どうもありがとう」

 少しの逡巡の後、司が虚無顔で礼を言う。基本的には律儀で礼儀正しい男である。

「兄が妹の身を案じるのは当然のことだ、気にするな! 誰もが俺のように紳士というわけではないからな。だが、俺に限っては安心しろ。ロリコンではないし、立派な恋人がいる! 絶対に貴様の妹に手を出すことはない!!」

 はっはー!! といつもの哄笑をしながら、龍水が司の肩をばしばし叩く。司に対してそんな馴れ馴れしい態度をとれるのは、千空以外では龍水だけだろうと羽京は思う。そして、千空相手なら表情をゆるめそうな司だが、龍水に対しては虚無顔のままだった。南の見立てどおり、この二人は水と油なのではないかと疑っている羽京としては、ものすごくヒヤヒヤしてしまう。
 龍水の言い方がどことなく好戦的なのも気にかかった。「恋人」と「絶対」をやけに強調して、無闇に得意げである。

「恋人……?」

 司も首を傾げている。ストイックに生きていた男にとっては、龍水のような男に恋人がいたとして、妹の身の安全の保障にはならないのだろうと羽京は思う。
 だが、そこで司は思いがけないことを言った。

「もしかして、昨日から付き合った――?」
「よく解ったな! 誰なのかまでは聞いてくれるなよ。それは野暮ってものだぜ」

 さすがの龍水も驚いた様子だったが、華麗に予防線を張る。心なしかその鼻がうごめいているな、と感じながら、羽京は先ほどからの自分の勘が当たっているらしいことに天を仰ぎたい気分だった。
 司帝国に属したことのない龍水は解っていないようだが、司の指摘はあてずっぽうではない。霊長類最強は、その嗅覚も最強なのだ。「敏感で物を見つけ出すことなどに巧みである」という比喩的な意味だけなく、本来の意味で優れている。 
 羽京がソナーマンに抜擢されたほどの聴覚を誇っているように。

「あ~~龍水ちゃん、ゴイスーご機嫌さんだって聞いたよー♪ なになに、昨日行った山ってそんなにお宝いっぱいだったの~~?」

 少々はりつめた空気を破るような、間の抜けた声が響く。見れば、少し先にゲンとクロムを従えこちらに向かってくる千空のすがたがあった。仏頂面の千空の後ろで、ゲンがニコニコ笑って手を振っている。

「何だ千空、テメー昨日そんなこと言ってなかったじゃねーか! ヤベえぇ、俺も行きてえぇ!!」
「違ぇ。お宝はねえ。いい川があるだけだ」
「ジーマーでー? いい川あっただけで龍水ちゃんがあんなんなる~~? 保父さんみたいに子どもたちに囲まれちゃってるじゃん」
「あ゙ー、すげぇお役立ちの川なんだよ。ゲン、テメーはあのガキどもを早く学校へ行かせろ。クロムは作業に戻れ。工事現場にヒョロガリはお呼びじゃねえ」

 千空は普段どおりの科学王国の長の顔で、てきぱき指示を出していく。子どもたち含め、皆少し不満そうではあったが、徐々にガヤガヤとその場から離れていった。広場にはやがて、龍水と司、その二人と少し距離を置いた千空、そして全員を見守るような形の羽京がとり残された。
 羽京は龍水と千空の表情をさりげなく見比べる。二人とも特段変わりはない。千空は今朝、朝食に顔を見せないと思ったら早くから作業を開始していたようで、皆の前にはほぼ現れなかった。龍水が連れてきた、復活者らしき男たちと言葉をかわしているところを目撃したくらいだ。
 その千空と龍水が顔を合わせるところを、今日初めて見る。羽京は意味もなく緊張した。

 「千空!」

 龍水が呼びかけた。とても清々しい表情と声だった。

「まもなく出発できるぞ。貴様、飯は?」
「メンタリストにデリバリー頼んで食ったわ。こっちも順調だ」

 耳に指を入れた千空がわずかに目を細めて言う。普通だ。ものすごく普通のやりとりである。
 だが、龍水のテンションが尋常ではない。そして珍しく千空がそれに気圧されている、ような気がしないでもない。

「テメーは機材とカセキと――を連れて先に行け。俺は復活者連中に色々説明しながら歩いてくから」

 早朝から龍水と打ち合わせをしていた一人の名を千空が上げる。

「いや、貴様は――にまず現場を見せ、細かい説明と打ち合わせをせねばなるまい。後の連中は俺が往復して乗せていく。先に向かうのは俺たちとカセキと、パワーチームの誰か――」

 顎に手をやった龍水の視線が、そこで司に向けられる。千空も合点したように、自分の復活させた最強の男をにんまり笑って見つめた。

「おお、こんなとこに偶然にも霊長類最強がいんじゃねえか! 司ァ、テメーの今日のご予定は?」

 スススと擦り寄る仕草で、千空が司にたずねる。司は微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。

「今のところ食糧には困っていないとフランソワに言われたから、木材を調達してくるつもりだった。冬備えにも、船や建物の修繕にも必要だろうし」
「大正解百億万点だ。それ、別ん場所で頼むわ。テメーには大量に木を伐っていただく。使い慣れた道具持ってスチームゴリラんところに来てくれ」
「遠くへ行くのかい?」
「ちーっとな、唆るぜ?」

 ゲンに言ったのと真逆のことを言いながら、霊長類最強の背中をばしばし叩く。そんな千空の襟元に、司がふいに顔を近づけた。そして、すん、と息を吸い込む。

「あ゙?」

 千空は怪訝な顔をし、龍水は顔を引きつらせ、そして羽京は――「だめだ、これは」と手で額を押さえた。

「――昨夜は龍水と取っ組み合いの喧嘩でもした?」
「あ゙ぁあ???」

 羽京の視界から千空が消える。見れば、地べたに尻もちをついている。最強の嗅覚を持つ高い鼻から逃れるため、咄嗟に腰を落としたのだろう。

「し、したかもしれねえ。いやそんなこたどうでもいい。さっさと行きやがれ」

 片手で額を押さえ、もう片方を相手に向けて、千空はしっしっと追い払う仕草をした。
 いつになく取り乱した科学王国の長に、旧司帝国の長が紳士的に手を差し伸べる。

「不躾にすまない」
「ほんとだぜ、二度とやめろ」

 文句を言いながらも千空は司に手を伸ばす。何だかんだいって、かれはこの男にはひどく甘いのだ。自分を殺した相手に対して、よく解らない感覚だなあと常々羽京は思っている。
 よろよろ立ち上がった千空に、羽京以外には絶対聞こえない声量で司がささやいた。
 苦虫を百匹ほど噛みつぶしたような顔で頷く千空を見て、司は納得した表情になる。それから、呆然としている龍水を振り向くと、旧帝国時代に見せていたような、心底の読めない微笑を浮かべた。

「――おめでとう、龍水」

 はりつめていた場の空気が更に凍りつく。

「起きたばかりでまだ色々把握してなくてね。悪いがスチームゴリラまで案内してくれないか」

 常に現況を気にする男が、重要資産や施設の場所を把握していないわけがない。絶対に嘘である。
 誰もがそう思うだろうが、ツッコミ役は不在だった。ゲンを追い出したことを千空は後悔しているだろう、と羽京は推察する。

「フゥン、俺に物申したいことがあるという顔だな。受けて立とうじゃないか」
「物申したいわけじゃないよ。二、三点確認したい点があるだけだ」
「いいだろう」

 不遜な笑みを浮かべた大男二人が、長いマントをなびかせその場から退場する。後には、世界に終末がたて続けにおとずれても絶対こんな顔はしないだろうという表情の千空と、羽京だけが取り残された。
 しばらく、痛いほどの沈黙が落ちる。

「――何も言うんじゃねえぇ……!!」

 やがて地を這うような声が届き、羽京は苦笑した。

「いいけどね……」

 皆を退場させた千空だが、羽京には何の指示も出さなかった。自分に用事があるのだと、耳だけでなく機微に聡い元ソナーマンはよく知っていた。

       ◇

 思えば昨夜、不意に自分の名前が聞こえてきて、耳を澄ませてしまったのが悪かった。

 ――羽京もいればコハクもいる。嗅覚にすぐれた者もいるかもしれない。いずれは誰かにばれる。

 龍水の声だった。「ばれる」という言葉に不穏なものを感じ、羽京は咄嗟にその声に意識を集中させてしまった。

 ――そうかもしれねー。確かにそうだが、

 唸るような声は千空のものだった。龍水の会話相手が千空であることが、国防意識の強い羽京の危機感を一気に煽った。この二人の会話で「ばれる」という言葉は、どう考えても穏やかではない。
 羽京はプライベートな会話を盗み聞きすることはない。特に夜は気を付けている。だが、科学王国の存亡を左右するトップ2の密談となれば話は別だった。思わず全力で聴き耳をたててしまった羽京の耳に届いたのは、そのトップ2の思いがけないやりとりだった。
 微妙な間が落ちたかと思えば、何故か足裏マッサージが始まり、マッサージ権の話や包帯を巻く巻かないの話になり、まさかこれはプライベートな会話なのか……? と疑問に持ち始めたところで、爆弾が落ちた。

 ――恋人同士が離ればなれで寝るなんてさびしいことだ。

 恋人。って何だっけ。
 思わず恋人の定義がゲシュタルト崩壊を起こしかけた羽京の耳に、いくつかの睦言めいた言葉が飛び込んできた。
 それでもなお、羽京の中では、「これはゲームか何かなのでは……?」という疑問が拭えなかった。あの二人ならそういう際どいやりとりを、わざとしていたとしてもおかしくない。
 だが、千空の、今まで聞いたことのない艶めかしい声が聞こえてきて、これは駄目だと耳を覆った。
 これは。盗み聞きしていいものではない。本物の、恋人同士のやりとりだ。
 昨夜のことを思い出して思わず口元に拳を当てた羽京を見て、千空はこれまでどんな苦境にあっても見せたことのない、絶望的な表情になった。
 そうして地獄の底から響くような、呪うような声で、意図が非常によく解る質問を投げかけてきた。

「羽京、テメーの可聴範囲どのくらいだ。どのくらい距離があれば聞こえない」
「ええと……君なら当然知ってると思うんだけど、距離の問題じゃないんだよね……」

 千空にしては恐ろしく雑な質問に、泣き笑いのような声で曖昧に返す。
 距離でなくとも具体的な数字を知りたいのだろうが、はっきり言ってしまうと今後どのような対応をするのか容易に推測できる。この忙しい時に、余計なことに労力や時間をかけられるのは困る。本人たちには切実な問題だろうが、羽京にとっては沢山ある雑音の中の一つだ。

「あのさ、僕は何も、四六時中色んな声を盗聴してるわけじゃないから! 問題のありそうな音にすぐ気づくために、むしろ余計な音は聴かないようにしてるから! プライベートな声は特に聴かないよう注意してるから、安心してほしい」

 まじめな顔で力説すると、千空は眉間の皺を少しだけゆるめた。そうしてすっと目線を逸らす。

「まあ、テメーはいい大人だからな。信用してるぜ、色んな意味で」
「うん、そこは信用してほしい。昨日はほら、自分の名前が聞こえたから。でもすぐ聴くのをやめたよ」
「あ゙ー、」

 合点がいったように紅い眼がまたたく。

「勿論誰にも言わないし、君たちに余計なことを言ったりもしない。だから、一つだけ確認させてほしい」
「あ゙ぁ?」
「――何かの駆け引きとか、取引じゃないよね? ちゃんとしたお付き合いなんだよね?」

 きれいな紅色の瞳がめいっぱい見開かれる。そうすると陽光に照らされて透き通った宝石のように見えることを、羽京は初めて知った。
 ああ、龍水がこんなにきれいなものを手に入れたがらないわけがないな、と思う。龍水にとっては、千空はきっと、何もかもが欲望の対象だろう。
 だが、千空がどうして応じたのかは解らなかった。何か弱みを握られているとか、石油代をチャラにする代わりだとか、はたまた何かの実験だとか。
 恋愛なんざ非合理的と断じ、どこまでも合理性を追求するのが、この科学少年の常である。役割に付随する面倒な諸々があったとしても、恋人になって手に入れられる見返りがそれを上回ると判断すれば、求愛に応じてもおかしくない。
 そして、恋人の座にさえ納まってしまえば、莫大な見返りが約束されていると信じられるのが七海龍水という男だ。情緒無視の合理脳が、まあいいか、というレベルで身を任せたとしても何ら不思議ではなかった。

「は、司とはまた違った聞き方しやがる」

 あきれたように苦笑する千空の言葉に、先刻霊長類最強の男が千空にささやいた台詞を思い出す。

 ――無理矢理じゃないよね? 合意の上だよね?

 恐らくは、二人のからだから互いの匂いがしたのだろう。そういえば昨夜、二人はあれからどこまで進んだのか。赤面するような思いで考える。昨夜千空も言っていたが、恋人になった当日にからだを重ねたのだとしたら、ちょっと展開が早すぎないだろうか。
 百戦錬磨の龍水に対して、千空は恐らく新雪よりもご清潔なはずである。普通の感覚なら、誰もが「この二人の付き合いは大丈夫なのか」と案じてしまうだろう。

「テメー、やっぱ途中からは聞いてねえんだな。信用してやるよ」
「う、ん? 勿論そうだけど」

 何か納得した顔の千空に、羽京は回答をはぐらかされたことに気づく。

「ちょっと、質問してるのはこっちだよ?」
「答えなきゃなんない義務が俺にあるか? 何を言わせてえんだ。司とのやりとり、聞こえてたんだろ」
「身体的優位にまかせて龍水が無理矢理、とは、僕は思わないよ……」

 その点については、司より龍水を理解し、信頼している自信のある羽京である。自信がないのは、千空の合理脳の方だ。
 羽京としては、かれの初めての交際の行方を心配しているだけなのだが、初恋や初体験を特別なものとする価値観を千空に押しつける方が間違っているのかもしれない。二人が納得しているなら別に合理的理由による交際でもいいのではないか。いや、こういうことは、後になって響くものだったりするし。
 大人として葛藤を覚えつつ、譲歩した羽京は、質問を切り替えた。

「――じゃあ、どうして龍水なのか聞いてもいい?」
「ダメだ」

 莫大な見返りだけが目当てでなければいい、と思ったのだが、その質問は即座に却下された。

「な、何で? 何か後ろ暗いことでもある?」
「後ろ暗いってなんだ」
「誰でもよかったわけじゃないよね? 先着順とか」

 テンパって、思わず「それは流石にないだろう」ということを聞く。
 千空はげんなりした顔をして見せた。明らかに、「そんなわけあるか」という表情なのに、からかわれると思ったのか、かれはそんな風には言わなかった。

「テメー、いい大人だろ。常識で考えろ」

 その言葉に、ぱっと心の中の霧が晴れる。まわりくどいけれど、それは質問に対する明確な否定だ。
 そんなわけはない、のだ。龍水だった理由がちゃんとあるのだ。
 そして、見返りなどの合理的理由であればあっさりそれを白状してしまいそうなのに、千空がそれをしないということ。
 導き出した解に何だか急に嬉しくなって、羽京は破顔した。

「何だ、気持ち悪ィ」
「いや、案外ちゃんとしてるんだなあと思って」

 かつての同僚の口癖を笑いながら真似ると、千空はふいっと顔を背けた。その仕草が年相応に見えて、ますます笑みを堪えられなくなる。
 千空はそのままそそくさと立ち去ったが、羽京はその場から動けずにいた。
 ああ、恋ってすごい。そう思う。
 あの子にも、そんな感情が芽生えたりするんだ。からかわれて照れたりするんだ。
 感動に近いものに襲われて、しばらく身動きすることができなかった。

「すごいなあ、やっぱり龍水は――」
「俺が、何だ」

 口から漏れた言葉に思いがけず背後から反応され、びくりとする。今、まったく気配がしなかった。
 この男もまた、霊長類最強ばりの気配の消し方を身に着けているのだろうか。そう感嘆しながら龍水を振り返る。パワーと存在感に満ち満ちているのに、まさかそんなことまでできるとは思わなかった。

「先に車に乗ってるんじゃなかったの」
「連れて行く人間を探し回っていてな。あとは千空だけだが、もう行ったか」

 先を歩く背中を見る顔は、やはりこれまでとは違うように感じられる。ひどくいとしいものを見る目つきだ。
 隠さないんだな、と思う。そうして羽京は気づいた。かれは、千空がいる時にそうしようと思えばできたのに、わざと追いつかず、気配を消し、立ち去ってから羽京に声をかけたのだ。

「あまり疑うのはやめてもらえるか。それに、不安にさせるようなことを言われるのも困る」

 腕組みして偉そうに言ってくる年下の男に、羽京は苦笑した。これは、まだ相手の心を完全にとらえている自信がないことの裏返しだ。メンタリストでなくても解る。

「はいはい、せいぜい愛想つかされないようにね」
「ム、何故そうなる。貴様らは一体、俺を何だと思ってるんだ」
「貴様ら?」
「司にはしつこいほど『本気だよね? 遊びじゃないんだよね?』と念押しされた」

 ひどく心外な顔をして拗ねたように言う龍水に、羽京はぷはっと噴き出す。

「日頃の言動と過去の所業じゃない?」
「過去はともかく、ここストーンワールドで俺は清廉潔白だ」
「そうなんだ」

 色男のプライベートにあまり興味がなかった羽京には、それは意外な話だった。おくびにも出さなくても、陰ではうまく遊んでいるものだと思っていた。

「意外だよね」
「ん?」

 龍水の行状について言ったつもりだったが、それはそのまま違う意味に転換した。

「千空の恋人。男ってことには驚かないけど――それならもっと、違う選択肢かとも思うのに」
「違う選択肢とは」

 むっとしたように龍水が言う。俺では不足だと言いたいのか、と思っているのだろう。だがそういうことではない。

「何ていうか……千空が人間的な感情を向けそうな相手の傾向がさ。大樹とかクロム――まあ二人とも好きな相手がいるか。あと、司には結構思い入れが強かったと思うけど」

 半ば意地悪で素直な気持ちを吐露すると、龍水はますます苦い顔をした。羽京は密かに腹の中で笑う。
 昔から、恋が実ったり新婚ほやほやの幸せそうな人間は、周囲からからかわれ、意地悪されると相場が決まっているのだ。このくらいはいいだろう。
 だが龍水は、苦い顔から一転、ニヤリと笑うとこう言った。さすがは嵐が来ても動じない男である。

「――そうなっては困るので、攻勢に出た。先手必勝だ」
「なるほどね」

 どこまで解って言っているのだろう、と思う。千空の態度は明らかに先着順というわけではなかった。だが、それを龍水に言うつもりは毛頭ない。

「羽京。貴様の可聴領域、距離にすれば何メートルだ」

 ふいに龍水が真顔でそう聞いてきた。千空と同じ、無茶な質問である。

「それ、千空にも聞かれたよ。距離で聞かれたのも同じ」
「フゥン……」

 思えば龍水と千空はひどく似ている。二人と一緒にいたら、必ず一回はハモる場面に出くわすくらいに。
 物事のスピード感覚や情報処理能力、分析力、感情表現などが似ていて、目の前で見ているととても恋愛感情が芽生えるような隙はなかった。
 だが、案外似ていないところもあるのかもしれない。そして、他の人間には見せない顔も多いのかもしれなかった。

「気にしなくていいよ。毎日ものすごい数の音があちこちから聞こえてくるんだから、いちいち誰の声とか意識しないよ。昨日は自分の名前が出たからうっかり集中してしまったけど、プライベートな声は聴かないよう注意してる」
「貴様を信用している。だが、そう言われたからといって気にならなくなる問題でもない。違うか?」

 千空に言ったのと同じことを伝えるが、龍水の反応はその恋人よりも悪かった。勿論、かれの立場からすれば、聴覚の発達した自分の存在は気になるところだろうとは思う。

「この日は耳栓して寝ろって言われたらするけどね――一応これでも、自分の聴力で気づける危険はいち早く察知して、この国を守りたいと思ってるんだけど」
「解っている。今の一言は余計だった。貴様が気を遣う必要はない。俺が何とかすればいいだけだ」
「安心してよ。たとえ何が聞こえてきたとしても、未来ちゃん相手にそういう気にならないように、千空に対してもそういう気になることはないから」
「ほう?」

 龍水が司に対して使ったのと同じ手を使うと、かれは興味をひかれたような声をあげた。何か勘違いされたな、と感じる。

「いや、別に特定の恋人がいるとかじゃないけど。僕はまず異性愛者だし、未成年は完全に対象外だ」
「なるほど、元公務員の発言には説得力があるな」
「心配になるのは解らないでもないけど、僕は精神の平和のために、カップルの会話は聴かないようにしてるし、たとえ聞こえてもすぐ他に意識を移すようにしてる。それで誰かに性的な興味を持ったことはないよ」
「解った。困らせてすまなかった」

 素直に引き下がった龍水に、羽京は溜め息をつきながら言う。

「いいけど――大事にしなよ、ほんとに」
「無論だ」
「泣かせたら大問題だよ。メンタリストも霊長類最強も元海自も黙ってないよ」

 ひらひら手を振りながら言った羽京に、龍水はまじめな顔で答えた。

「羽京。これは司にも言ったのだが――俺は、大樹に交際の許可をもらったんだ」
「え?」
「あの男に幻滅されるのは俺もごめんだ。これほどの信用が他にあるか?」

 得意気に微笑む顔に、胸がつまる。
 ああ、凄い。きちんと手順を踏んでいる、と思った。
 石神百夜がもうこの世にいないため、許可を得る相手に大樹を選んだのだということは容易に察しがついた。
 本気なんだね、などと聞くまでもなかった。七海龍水の本気はこんな風に発露するのだと解って、羽京は無性に泣きたくなった。
 なんだ、ほんとにちゃんと恋人だった。

「休み、替わってあげるよ」

 確かそんなことを言っていたな、と思い出して提案する。今週の羽京の休みは、千空と同じ日だった。クロム以外の五知将は、同じ日に二人以上休みがかぶらないようにしている。

「それは貴様――、ひどく助かる」

 龍水はその時、この日羽京と話してから初めて、心底嬉しそうな顔を見せた。
 何だ、こんな年下の表情もできるんだ、と思っておかしくなる。
 かなり上にある相手の肩に手を伸ばすのは面倒だし癪だったので、羽京はその腕を軽く叩いた。男同士の、無言の激励の仕草だ。
 龍水の腕は、千空はこの男に任せておけば間違いないと思えるような、逞しい船乗りの腕だった。

       ◇

 まさか、日が暮れる前に帰れるとは思ってもみなかった。

 スチームゴリラⅡを船着き場へ回してもらうと、ペルセウスの状況を確認するため千空は一人そこで降りた。龍水とカセキは後部座席の拡張について話し合っていたから、車庫へ戻ったら改造するつもりなのかもしれない。そちらは二人に完全に任せることにして、二日ぶりに積み荷や修繕状況をチェックする。
 多少質問責めになったが、それに答え、指示を出し、視察が終了してもまだ太陽は沈んでいなかった。この分ならラボでまだ作業出来るな、と、山に残ったメンバーに感謝する。
 今日は朝早くからダムと水力発電所の設計図を書き、各種計算を行い、龍水が復活させてきた土木工事経験者たちと面談すると、昨日視察した山に赴いた。意見交換を行い、スケジュールをたて、必要な資材や機具の確認を再度行った。水力発電所はともかくダム建設自体は自分たちで何とかなる、と経験者たちに太鼓判を押され安心したが、問題は本拠地からの悪路である。まずは足場と簡易宿所を作ろうということになり、作業員たちは全員泊まりで作業を行うことになった。
 司も残ると言い、なら全員でという流れになりそうだったのを、カセキが高齢であること、千空と龍水には他に仕事があることを指摘され、三人は割合早く本拠地に戻れることになったのだ。明日はルリを連れて様子を見に行かなければならないが、とりあえずダムの件は解決しそうで気が楽になる。次の出発までにやらなければならないことは山積みだが、一つクリアできそうなのはありがたかった。龍水の活躍のおかげである。 
 船を降り、潮風と夕日を浴びながらラボの方へ戻ろうとすると、向かいから荷物を運んでくる大柄なシルエットが見えた。
 本日、避けて避けて避け続けてきた幼馴染である。道の真ん中で避けるわけにも引き返すわけにもかず、千空は大樹がこちらに気づくのを待った。

「千空」

 荷物に視界を塞がれていた大樹が自分に気づいたのは、かなり接近してからのことだった。名前を呼ぶなり天を仰ぎ、何から言えばいいか迷っている様子に思わず噴き出す。
 この幼馴染は解りやすい。それ以上に、自分が、相手のことをよく解っているのだと思う。

「千空、」
「解ってっと思うがな、祝いの言葉なんざ逐一垂れ流すんじゃねえぞ。俺はテメーのおすすめに従っただけだわ」

 耳穴に指を入れそううそぶくと、大樹は困ったような顔をした。

「俺が勧めなければ付き合わなかったのか?」
「あんまピンとこなかったかもな。まず男だし」

 昨日、熊と邂逅した直後のことを思い出す。

 ――男が惚れる男っていうのは、ああいうやつのことを言うんだな!

 宝島で大樹にあの言葉を刷り込まれていなければ、昨日の結果は違ったものになっていたかもしれない。龍水の求愛を、男同士という理由だけで断っていたかもしれない。大樹がみとめた男であることは、龍水に応じた理由の半分ほどを占めていた。友達からの紹介をきっかけに成立するカップルが多いことがよく解る。ある種の保証というか、安心感があるのだ。背を押される感覚もある。

「俺はずっと、千空には可愛い女の子と幸せになってほしいと思っていた。だから龍水から相談を受けた時は戸惑った。でもお前の口から宝島の最後の戦闘について聞いた時、お前を頼めるなら龍水だと思ったんだ」

 真剣な顔で思いがけないことを言われて戸惑う。そういえば、先に起こしたメンバーには、かなり詳細に最後の共闘について話した気がする。

「お前はそんな風には言わなかったがな、龍水を信頼して起こしたこと、龍水がそれに応えて最後まで戦ったことが解って――あいつしかいないと思った。今後俺たちがもしまた離ればなれになってしまったとしても、龍水は船長だしパイロットだ。必ずお前と一緒にいるだろうし、必ずお前を守ってくれる。安心だ」

 そういう判断か、と千空は納得した。やはり、この幼馴染は解っている。

「だが、本当に付き合うことはあまり想像できてなくてな。昨日龍水に報告されて少し戸惑っていた。何だか千空をとられたような、寂しいような気がしてなー! なかなか眠れなかったぞ!」

 困った顔で恥ずかしいことを言った後、豪快に笑って頭を掻く幼馴染を、何だ、同じだ、と思う。大樹が杠に惹かれていっているのが解った時、自分もまた同じような戸惑いと寂しさを感じたものだ。 
 だが自分が杠を疎むことも排除することもせず、その存在を受け入れたように、大樹も必ずそうするだろう。龍水を、自分の選んだパートナーとして遇するだろう。そうすなおに信じられた。
 そういうところで、自分たちは似ているはずなのだ。

「珍しいこと言ってんじゃねえよデカブツ」

 思いがけずやさしい声が出る。ひどくおだやかな、満ち足りた気分だった。

「お前にどんな顔をして会えばいいのか、何て言えばいいのか解らなかったが、今すなおにおめでとうと思えて俺は嬉しいぞ、千空! どうかしあわせになってくれー!!」
「だから祝いの言葉はいらねえ」

 どうやら抱き着くのを遠慮しているらしい幼馴染に突っ込みながら、千空は笑った。
 この親友に、自分の恋愛問題などという非合理的な、水っぽい部分を見せることなど絶対にごめんだと思っていた。遠い未来にいつかそういう相手が出来たとしても、ほとんど隠し通そうと思っていた。
 だがこうやってその存在を肯定され、太鼓判を押されることの、何と心休まることか。
 何と晴れ晴れすることか。
 思っていたよりずっと気楽で、安心感があって、頼もしい思いだった。

「まあ、何かあったら協力してもらうことがあるかもしれねえ。テメー、裏切んなよ。龍水じゃなくて常に俺の味方でいろよ」
「それは勿論だー!!」
「解んねえぞ? テメーら知らねえうちに結託してやがったからな。そういや大樹テメー、いつからそんな龍水と仲良くなってたんだ。宝島か?」

 自分の知らないところで龍水が大樹に近づき、相談していたことが未だに信じられなくてそう尋ねる。雑頭の幼馴染は首を傾げてしばらく考えていたが、

「俺が龍水をほんとに凄いやつだと思ったのは、宝島で石像になった俺を起こしてくれた時だな。だがその前から色々質問されたりしていた。そういえば、ここでモーターボートにガソリンを入れていた時、俺がお前に『好きな子でもできたのか』と聞いた後もしつこく聞いてきたぞ! これまで千空が誰かを好きになったことがあるかとか、告白されたことはあるかとか、その時どうだったかとか」

 思ったよりも色々と具体的に答えられてげんなりした。そんなに早くからか、と思う。

「思えば、龍水はあの頃からお前のことが好きだったんだなー!」

 朗らかに笑った大樹の言葉に、先ほどの自分の感想を訂正する。
 モーターボートをテストしたのは、石神村から戻った直後のことだ。それまで、龍水は大樹に何か聞きたいと思っても、そうできる機会はゼロだったはずだ。

 ――気球に乗る少し前からだ。

 昨日、解りにくい、と感じた龍水の言葉がよみがえる。
 違う――もっと早くだ。
 そう大樹に教えるつもりは毛頭ない。それは自分だけが解っていればいいことだ。
 今この場にいない人間を思って胸がうずくのも、すぐ会えるのに早くその顔が見たいと思うのも、初めてのことだった。

       ◇

 明日の予定を聞くと呼ばれたところに行くと言うので、千空は大樹に山行きを提案した。

 伐採担当の司と交替か、追加要員のつもりである。一点集中して山の木を刈りすぎるのはよくない。体力自慢の大樹なら、まんべんなく様々な場所の木を刈ってこれるだろうという目論見だ。
 ダムと水力発電所を作るのだと言うと、大樹は大きな目を剥いた後、またまく間に輝かせた。

「それはもしかして、この辺りがもっと便利になるということかーッ!? うおおお俺も作るぞー!!」

 自分の言葉をすぐ前向きにとらえ、協力を惜しまない様子に笑みがこぼれる。
 そしてすぐに龍水の反応との類似性に気づいた。理解のスピードは桁違いだし、視点も視野も何もかも違うのに、この二人は根本的な部分で似ているところがある。
 困難に思われることでも、自分の提案に賛成してくれ、惜しみなく協力してくれる。自分に全幅の信頼を置いてくれる。
 自分に対するスタンスが同じなのか、とも思う。
 もしかしたら龍水が大樹を参考にしている部分もあるのかもしれないが、あの男は心にもないことを言ったりやったりするような男ではない。やはり、共通する部分があるのだ。
 だが、この相手と恋をすることは到底無理だと感じるのはどういうわけだろう。
 手を振って大樹と別れた後、千空はそんなことを考えた。杠という存在がなかったとしても、大樹と恋愛関係になることは考えられない。
 そんなことを言うつもりは死んでもないが、顔を見れば好ましいと思うし、安心する。そばにいなければ落ち着かないし、ぽっかり穴が空いたような感覚になる。
 だからこのストーンワールドで目覚めて以降、何度か自分を疑ったことがあった。大樹を真っ先に起こしたいと思ったのは、実はそういうことなのではないか。気づいていないだけで、深層心理下ではずっと大樹に恋をしていたのではないか、と。
 千空は恋愛感情に疎い。性欲と恋愛感情の違いも、友情と愛情の境目もよく解らなかった。自分が女のからだにそれほど反応しないのも、恋愛を冷めた目で見てしまうのも、杠のことを好きな大樹に惚れているからだと思えば納得できる気がした。
 だが大樹が復活して、そのからだに反応するどころか、接触するのが苦手だと気づいた。特段二人きりでいたいわけでもなく、むしろ大樹のために早く杠を起こしてやりたいと思った時、ああ、こいつは家族みたいなものか、と腑に落ちたものである。
 そばにいると安心するのに、接触が苦手な理由もそれでよく解った。きまり悪く思うばかりで落ち着かないのは、近親との性的接触を忌避するような心理が働くからだろう。
 そこまで考えた後、龍水との抱擁やキスを思い出して、千空は途端に転げまわりたい思いに駆られた。
 その腕に抱きしめられると心地よくて、オキシトシンやらセロトニンやらがドバドバ出て、安心感すらいだいた。一方、その舌や歯で触れられると、そこから痺れが走って、からだの自由が利かなくなって、今まで感じたことのない火が点って、変な声まで――。
 思い出すなと自分に言い聞かせるほど色々な場面が浮かんできて、羞恥に耐えきれなくなった千空は道の真ん中で立ち尽す。目を瞑り、顔横で指を立てて黙考する得意のポーズをとり、しばし無駄に様々な計算を試みた。

「千空、何をしている」

 何度設定しても設定しても後にずれていく次の出発日を、今日こそは絶対確定してやろうと猛烈に計算していたところ、よく響く声に名を呼ばれた。
 思わず「ぬおおおおぉぉ!!」と叫びそうになったのを間一髪で堪え、覚悟を決めて目を開く。
 眼前には、落ちゆく寸前の陽の光に照らされ、まばゆいばかりに輝く恋人のすがたがあった。

「ラボにいなかったので、何か船に問題があったのかと思ったが」
「いや、違え。問題はねえ」

 問題があるのは俺の脳だ。テメーのおかげで絶不調だと言いそうになるが、勿論堪える。そんな文句を言っても問題が解決するわけではなく、相手を喜ばせるだけだと知っている。

「ないのならよかった。向こうで食ってないのなら、一緒に飯を食わないか?」

 そう言ってさりげなく手を絡ませてくるのを、誰もいないのに振り払うのも違うなと思いつつ、千空は背の高い相手を見上げた。
 
「あ゙ー、確かに腹減ってんな――って、テメー向こうに用があるんじゃねえのか?」
「俺が行くことで何か解決するならと思って来てみただけだ。問題がないなら本日の俺の仕事は終わりだ。後は少しでも貴様といたい」

 それまでの朗らかな笑みが、途端に甘いものに変わる。歯が浮くようなことを言われ、どう言い返すか迷っているうちに抱き寄せられ、心音と人目を気にしてじたばたしていると口唇を奪われた。

「ん、ぅ……」

 口唇を軽く食まれ、角度を変えながら戯れのように吸われているだけなのに、ゾクゾクして膝がふるえる。厚い胸板に手を置き、叩き、何とか引き剥がす。

「テメーやめろ、こんなとこでそういうの」
「誰もいないぞ! それに、ずっとキスしたかったからな。一日働いた駄賃だと思ってくれ!」
「アホか……」

 甘い雰囲気から一転、明るく元気よく言われてげんなりする。そんな元気があるなら荷運びでも手伝ってこいよ、と思う気持ちはあるものの、もうすぐ日が落ちるし、早朝から立ち働き、山まで二往復運転した功労者に言うことでもない。ダムの問題が片づきそうなのは、どう考えてもほとんど龍水の功績である。そして、相手はわずかな時間でも自分と一緒にいたがっている恋人だ。

「とっとと飯食いに行こうぜ。まだラボで確認しなきゃいけねえことあんだよ」

 そう言って、派手な模様の手をとる。龍水は即座にぎゅっと握り返してきた。

「その後の予定は?」
「あ゙ー、確認の結果次第だ。今日のクロムの頑張り次第とも言うな」

 本当は何を聞かれているのか解っているが、安易に答えは出せない。先ほどの計算結果によれば、日程は本当にギリギリだ。
 しばらく手を繋いで無言で歩いた。草の道や石の道、人に踏みしめられた土の道。
 背後の太陽が完全に海に沈むと、空の色はたちまち色を変え始め、千空はその移り変わりを堪能した。普段なら気にとめない光景がやけに色鮮やかに目につくのは、隣の人物のせいか、これが恋愛脳ってやつか、と考える。
 土と草と木の匂い。潮の匂い。多分に水分を含んだ秋の夕暮れ。虫の声と鳥の声。あざやかに色づいた空と、うすい色の月と、淡く輝く星々。
 いつまでも忘れないと思った。
 このままどこまでも行けそうな気がした。
 かつて、大樹と歩いていても、「どこまでも歩いて行けそうだ」と感じたことがある。だが、その時と今とでは、決定的に違うことがあった。
 この男とは「歩いて」行くだけではない。七海龍水は一足飛びに海や空に連れ出してくれる。地球の裏側まで、空の果てまで、行きたいところに自分を連れて行ってくれる。
 そして、それがかれ自身の望みでもあると言う、稀有な男なのだ。
 この先、自分が自分らしくあるためには、どうしてもこの男が必要だった。
 龍水からは、文明そのものの香りがする。千空はそれを嫌いではない。むしろずっと、この相手を待っていたように思う。
 この男は次の文明レベルに行くため自分が選んでよみがえらせた男、大樹に認められた男、そうして求愛された結果、自分が望んで手に入れた男だ。
 この相手が自分を欲するのなら。
 それを阻む理由はないと思った。
 横目で隣を見ると、龍水もまたこちらを見ていた。そんなところまで同じで、面白く思う。同じタイミングで手を離し、同じタイミングで向き合う。
 もう一度抱きしめられて、今度は大人しくその腕におさまり、逞しい胸に顔をあずけた。

「――千空。貴様割と、俺のことがすきだな?」

 静かに頭上から声が降ってくる。
 それが面白がる響きでも試すような響きでもなく、感に堪えないという風に聞こえ、千空は違和感を抱いた。ここは否定しない方がいいだろうと判断し、相手の顔を見上げる。
 案の定龍水は、千空があまり得意でない、静かな水面を思わせる表情をしていた。

「そうでなきゃオツキアイしねーだろ、キスだってハグだってしねえわ」

 言葉は悪いものの、口唇を尖らせて思いきり先の台詞を肯定してやる。龍水はこちらの薄い肩にすがりつくように、再度強く抱きしめてきた。

「――どうしたよ」

 小さい子にするように、その頭に手を触れる。船長帽の硬い感触。潮風に少しだけごわついた髪。心音。

「少々落ち込んでいたから、救われた」
「何で落ち込む」

 恋が成就した翌日に落ち込む? どういうことだ? と眉を寄せると、思いがけない答えが返ってきた。

「昼間、さんざん司と羽京に、『何でお前なんだ』というようなことを言われて」
「ハア?」
「特に羽京には、千空が人間的な感情を向けるなら違う相手だと思っていた、とはっきり言われた」
「羽京アイツ……」

 余計なことを言ってくれやがって、と千空は童顔の「やさしい皆のお兄さん」を恨んだ。

「テメーじゃなきゃ誰だっつーんだよ」
「大樹とかクロムとか司とか言っていたな」
「何だそれ」

 よりによって微妙な具体名を上げるなよ、全員コイツが気にしてるメンツじゃねえか、と半ば頭を抱える。

「可愛い顔して意地悪いこと言うな、アイツ。漫画なら絶対腹黒キャラだな」
「いや、そういう感じではなかったが……」

 溜め息をつきながら悪口を言うことで慰めようとするも、変なところでまじめな恋人は、何故か羽京を庇ってみせた。どこまでも紳士な男である。
 何だかおかしくて、千空はわしゃわしゃと顔の横にある金茶の髪を掻きまわした。

「んなの気にすんな。まあ今の司はあれだ、腹を痛めて生んだ子どもみてえなもんだわ」
「フゥン? ではクロムは?」
「孫みてえなもんだろ」
「大樹は?」
「――俺に兄弟がいたら、こういうもんかと思うことがある」

 先刻考えていたことを思い出して、思わずしみじみした口調になる。

「なるほど、よく解った」

 龍水は得心したように深く頷いた。それから、肩に押しつけた顔をずらして、うかがうような目を向けてきた。

「――では、俺は?」
「何かにたとえる必要があるか?」

 期待するような瞳に、うんざりした思いで答える。一体何を言わせようとしているのか。

「血縁ではないか?」
「だったらキスとかできねえだろ」

 しつこく念を押してくる相手の顔を引き剥がしながらそう言うと、その顔がぱっと明るく輝いた。八重歯が見える満面の笑みで満足そうにされて、ああもうしょうがねえなあと思う。

「伴侶だな? 伴侶ということだなっ?」
「知らねえわ。とりあえず、コイビトなんだろ」
「そうだ!!」

 熱烈に頬にキスしてくる恋人の顔を押しやって、千空は、

「解ったから帰んぞ、暗くなってきた」

 と空を見上げた。静かだったり、甘い雰囲気だったり、はたまたギラギラしていたりするよりも、こういう龍水の方があしらいやすいので楽である。

「一緒に飯食うんだろ。これ以上遅くなると、また俺はラボで食べることになんぞ」
「思ったより早く帰れて、予定は順調に消化できていると思うが」

 甘えていた態度を一変させ、真剣な顔と声音で龍水が言った。
 ついに来た、と思う。この急変具合が龍水である。

「クロム次第だとは思うが――もしラボの方も順調なら、後で包帯を巻かせてくれるか」

 一つひとつの言葉をはっきり明確に発音して、意味のとらえ違いがないように言ってくる。千空が曖昧に逃げることをゆるさない構えだ。
 だが、この男は偉そうであっても、強制することはしない。
 欲しいものは欲しい、したいことはしたいと宣言しながら、こちらに選択肢を与えてくれる。
 そんなところを、嫌いではない。常に確認しながら、関係を進めようとしてくれるところも。

「――いいぜ」

 五分五分の確率だな、と思いながら千空があっさり答えると、龍水はもう一度満面の笑みを見せた。

「なら予定変更だ、千空。飯は、ラボに寄って成果を確認して、風呂に入ってから、俺の部屋で食おう」
「いや、俺昼早かったから腹減ってんだが」
「なに、すぐ食べられるさ。風呂は貴様、烏の行水だろう」
「ラボは」
「クロムは今日のノルマを完璧にこなしている。ここに来るまでに、俺は進捗をこの目で見て、この耳で聞いてきたんだ」
「――テメ、」
「何か問題があるか?」

 得意げに言われ、千空は言葉を失った。
 問題はない。ないのだが。
 昨日思い知った龍水の周到さを、今後は絶対忘れないようにしよう、と固く心に誓った。

       ◇

 包帯を巻くだけですむわけがないことは解っていた。

 それでも一応、寝室に行くことは拒否したのだ。既にサルファ剤で消毒済みの傷口に、包帯を巻くだけの簡単な仕事である。昨日のように湯で洗浄する必要もない。なぜ寝室にいく必要がある? と。
 だが「飯を食べ散らかした部屋でやるより、寝室の方が清潔でいいだろう」と言いながらひょいとまた抱え上げられ、有無を言わさず連行されてしまった。選択肢は与えられなかった。ちなみに、龍水の腕はフランソワによって既に包帯が巻かれている。
 千空は自分が「悪くない」と評した部分が裏切られたことに少々立腹したが、大事そうに寝台の上に下ろされ座らされると、逃げ出す気にまではなれなかった。それはさすがに、恋人に対する態度ではない気がしたのだ。
 ぶすりとしていると、あらかじめ用意してあったらしい湯でおしぼりを作り、手を拭いた龍水が向かいの椅子に腰を下ろした。
 そうして腕を伸ばし、服に手をかけようとしてくるので、条件反射敵的にそれを押しとどめる。

「上半身だけだ。肩以外にはさわらないから」

 なだめるようにそう言われ、しぶしぶ脱がされることを了承する。
 だが途端に器用な指が動きはじめ、前をはだけさせていくさまを見ていると、思わず上ずった声が出た。

「テメー、手際よすぎんだろ。昨日も思ったけど、何で俺の服の構造知ってんだ」
「それは、ずっと脱がせたいと思っていたからな」

 指を鳴らしながら何でもないことのように言われ、火がついたように頬が熱くなる。
 千空の服の胸元は紐で縫いつけられているように見えるが、それは見せかけで、中で竹製のこはぜを糸にひっかけて前を合わせている。その構造に戸惑うことも驚くこともせず、嬉々として上半身を脱がせていく男を、恐ろしいような、いたたまれなような思いで見ていることしかできない。

「干してるのを見たのか? それとも風呂か?」
「どちらもだな。好きな相手の服や着替えなら見入ってしまうものだろう。違うか?」
「知るかっ」

 悪びれずに答える龍水に思わず拳を振り上げると、難なく手首をとらえられた。そうして利き手を拘束された状態で、はだけきった上半身を舐めるように見られる屈辱を味わう。

「くっそ……」

 現実を直視したくなくて、目を逸らしながら、腹立ちまぎれに龍水が着替えているところを想像してみる。さぞ豪快に脱ぎ散らかすのだろうと思ったはずが、何故か想像の中の龍水は静かに服を脱いでいて、その仕草にいちいちひどく色気を感じてしまった。

「また頭の中で俺を剥いただろう」
「な、」

 ニヤニヤ笑いながらそんなことを言ってくるのが本当に信じられない。船乗りの勘は当たりすぎて、もはや恐ろしいほどだ。

「目の前にいるのだから、やってみればいい」

 そう言って腕を解放してくるも、そんなことができるはずもなかった。
 龍水はそれ以上無理を言わず、今朝司がやったように、千空の首元に顔を近づけ、くん、と匂いを嗅いできた。同じ動物じみた仕草なのに、二人の印象はまるで違う。

「貴様、本当にいい匂いがするな。甘い、誘うような匂いだ」
「そんなわけがあるか…!」

 龍水は何かの精油を希釈したものを塗っているようだが、千空はそんなものは付けていない。無香料の自作石鹸で豪快に洗っただけの素肌である。汗臭いことはありえても、甘い匂いなどするはずがない。
 そのまま胸元や腕、腹、と顔を近づけて丹念にながめていくと、龍水はぼそりと呟いた。

「細かい傷が沢山あるな」
「あ゙ー、満身創痍で生きてきたんだ。傷ひとつねえ肌がいいなら他を当たれ」
「そういう意味じゃない。これは、貴様が一人で生きてきた勲章だ。世界石化から復活した直後は、貴様だって傷ひとつなかったはずだ。それが、こんな、」

 神妙な表情でそう言いながら腕の傷に触れかけ、約束を思い出したのか手を引っ込める。
 痛まし気な瞳に、また自分が最初からいれば、などと考えているのだろうかと思う。一人きりの時間はたった半年だった、などと言っても、きっと意味はないのだろう。

「右手と、うなじの傷だけは消えたのだったな」

 今度は上に上がってきた視線が、首筋に向けられる。今の千空には、胸や腹を見られるより、首や耳元を見られる方が緊張する。だがそれを悟られないよう、平静を装った声を出した。

「あ゙ぁ、もう綺麗にねえわ」
「司アイツ、俺にさんざん『千空を大事にしろ』となどと言ってきたが、アイツこそ一体何なんだ」

 突然一人で憤慨しはじめた龍水の様子に笑いが込み上げる。これはよほど司にうるさく言われたのだろう、と想像しておかしくなる。

「今頃怒りをぶり返すなよ」
「よく考えてみれば、司に大事にしろなどと言われる筋合いは一切ないな。俺は千空を害したことなど一度もない」
「誰のことも、だろ?」

 いまいましげに言う龍水が珍しくて、声を立てて笑いながら言う。ん? と龍水が首を傾げた。

「俺がテメーを選んだ理由の一つに、『テメーは人を殺さねえ』っていうのがある。裏切ってくれるなよ」

 そう言って、相手の船長帽をそっと脱がせる。自分が上半身を剥かれているのに、相手が帽子を被ったままなのがアンバランスに思えたのだ。

「俺が殺されようが、誰が殺されようが、テメーは俺が選んだ男だ。そこを間違えないでくれ」
「殺されるなどと軽々しく言うな。絶対に俺が守る。これ以上、このからだに傷はつけさせん」

 「選んだ男」という言い方を喜ぶかと思いきや、「殺される」という言葉に龍水は激しく反応した。自分を本当に殺した過去がある男を思い出して、変に火がついてしまったのかもしれない。

「俺は女じゃねえからな。テメーに守ってほしいとは思わねえわ。隣にいてほしい。行きたいとこに連れてってほしい。俺と一緒に唆ること考えて、作って、美味いもん食って――」
「いいセックスをして、」
「それは優先事項じゃねえなあ」
「そうなるようにしてみせるさ」

 軽口を叩き合っていると、龍水の様子が落ち着いてきた。やはり馬鹿なことを言っているくらいがちょうどいい、と思っていると、腰に下げた袋を次々外してきたから驚いた。

「オイ」
「こんなものを一杯つけていてはリラックスできんだろう。恋人といる時くらいくつろいでほしい。貴様もそう思って俺の帽子を脱がせたのだろう。違うか?」

 全然違うのだが、もしかしたらそういう部分もあったのかもしれない。思わず考え込んでいると、腰紐まで外そうとしてくるから流石に手を掴んでやめさせた。

「テメー、それは約束が違うだろ」
「さわらないから、下も見たい」
「そ、れは、ダメだ」

 直截に言われてカッと顔が熱くなる。必死に腰紐と裾を守っていると、困ったように笑われた。

「千空、俺は何も、とって食おうというわけじゃない」
「解ってるが、色々心の準備っつーモンがいるんだわ! 大体、今日はそういうつもりで来たんじゃねえ!! さっさと包帯を巻け!」

 ものすごく正しいことを言っているはずなのに、寂しげに笑って手を引っ込める龍水を見ると、まるで自分が間違っているかのような気がしてくるから不思議である。色事に疎い自分が解っていないだけで、風呂上がりにのこのこ男の部屋に来た時点で、何かを了解したことになったりするのだろうか。かたくなに「約束」をつきつける自分が子どもで、無粋で、頭でっかちなのだろうか。
 千空は難しい顔をしてしばらく考えていたが、やがて最大限譲歩してみることにした。

「上半身なら少しくらい触っていいから、下半身はやめろ」

 重々しくそう言うと、龍水は嬉々として、肩、腕、胸と確かめるように触れてきた。少し冷えた肌に、あたたかく大きなてのひらの感触が快い。やはり自分は、この男に触れられること自体は嫌いではないのだな、と実感する。
 うすい胸板を撫でていたてのひらが、やがて先端を転がすように、押しつぶすようにしてきた。

「何でそんなとこ、」

 女でもねえのに、と疑問符一杯に首を傾げていると、龍水は満足そうな笑みを浮かべた。

「良かった。まだ誰にも触れられていないのだな」

 そう言ってそこをしきりに指先でいじり、嬉しそうに頬にキスしてくる。

「いずれ、ここだけでいかせてやるからな」
「な、」

 そんなことが起こり得るはずがない。そう思うのに、そうなっている自分を想像した途端、摘ままれている部分が急に鋭敏になった感覚がした。何かの回路が繋がったかのように、じんとした痺れが全身に走る。

「千空貴様、今何か想像したな? さっきより反応がいいぞ? 頭のいい人間ほど、目覚めると凄いと言うからな。楽しみだ」

 とんでもないことを言いながら身を屈め、指で触れていたところに今度はキスをしてくる。

「やッ、め……」

 何度かそれをくりかえされた後、ちらりと舌を這わせられて、思わず足をばたつかせる。

「ちょ、ロープ、ロープ!! まずは包帯を巻け。それから、触るならマッサージにしてくれ。舐めるのは全面的に禁止だ!」
「フゥン、無粋なことを言うな。もう少し恋人同士の甘い時間を堪能したい」
「そ、れは休みん時でいいだろ。疲れてんだ、労ってくれ。無理なら帰って寝る」

 強めの口調で言うと、龍水はあきらめたように苦笑して身を起こした。左腕をとり、器用な手つきで丁寧に包帯を巻くと、今度は両肩に触れてくる。
 指先でツボを押しながら昨日のように背中まで手を這わせ、マッサージの体勢に入る。
 ――が。

「向かい合わせだとやりにくいな。千空、そこに俯せになれ」
「え?」

 寝台を示されて戸惑う。それなら自分が椅子に座って向きを変え、龍水が寝台に座ればいいのではとも思うが、マッサージは俯せでやるのが一般的だという気もした。
 寝そべるかどうか迷っていると、懸念を見透かしたように龍水が言った。

「本当にただマッサージするだけだ。心配なら服を着ていてもいい」
「何だと? 普通は脱ぐのか?」

 思わずつっこむと、オイルマッサージならな、と当たり前のように答えられた。

「本格的なやつはまたにしよう。今はそのままでいい。緊張していては解れるものも解れん」

 そう言って手早く服を羽織らせ、乱暴にならない手つきで肩を押し、からだをころんと転がしてくる。その台詞と仕草に覚悟を決め、千空は自ら俯せになった。背中から腰まで布を被せられた後、龍水の手がゆっくりとその上を這う。
 丁寧にツボを刺激され、絶妙に体重を使って圧をかけられ、千空はすぐ夢見心地になった。

「テメー、実はめちゃくちゃいいやつだなー……」

 龍水自身も疲れているだろうに、本当にこんな本格的なマッサージをしてくれるとは思ってもみなかった。

「フゥン、昨日してやると言ったばかりだし、貴様からのリクエストだからな。この体勢は今の俺にとって非常に苦しくもあるのだが――」

 頭上から低い声が降ってくる。気持ちよすぎて、眠すぎて、何を言われているのかよく解らない。

「服、着てるからやりにくいのか?」
「ん? いやまあ、そうだな。本当はオイルかローションで滑りをよくするともっと的確にほぐせるのだが。千空貴様、作れるか? フランソワが大体の成分を説明できると思うが」
「昨日みたいなオイルか?」
「もっと伸びる方がありがたい」
「ほーん……フランソワにレシピ聞いてみるわ」

 半分眠っている頭でそう言いながら、本当にそれはマッサージ用なのか? という疑念が少しだけ湧く。そういえば同じようなものを、まもなく入籍予定のカップルが欲しがっていたことを思い出した。

「マッサージするしないは別として、美肌や痩身に効きそうで、女たちは欲しがるだろうな」

 背中を押しながら龍水が説得力のある口調で言う。なるほどそういうことか、と納得し、ならばそういう効能のあるレシピにしてみるかと考える。好評ならデパート千空で売ればいい。
 とりとめのないことを話し、考えていると、完全に緊張もほぐれて、相手に何もかもゆだねきってしまう感覚に陥った。あたたかさと心地よさと、ふかふかとした寝台の感触に力が抜けていく。

「おいこら、千空、寝るな」
「あ゙ー、悪ィー、これは寝る……」
「いいのか? ここで寝ても」

 ダメなのだろうか。確か昨日、龍水は「恋人同士が離ればなれで寝るなんて」、とか何とか言っていなかっただろうか。
 それともまた、自分の知らない謎のルールでもあるのか。
 だがもう何でもいい。きもちいい。どうでもよかった。
 ――千空の意識はそこで途切れた。

       ◇

 寝て起きたら、何かが変わっているというわけではなかった。

 しかし千空は存分に混乱した。寝る前の記憶がない。龍水にマッサージしてもらっていたことは覚えているが、いつ終わって、どのように眠りについたのか毛頭解らなかった。
 おそるおそる自分のからだを確認する。はだけてはいるが、かろうじて服は身に着けている。多少すっきりしている気もするが、それはマッサージの効果だろう。下半身に違和感はない。ないはずである。
 自身の確認を終えると、次に目の前の恋人へと目を移す。暗くてよく見えないが、深く寝入っているように見える。からだのどこにも触れていないが、自分のすぐ隣に、横向きに寝そべっている。枕に肘をつき、顔を近くに寄せ、まるで自分を守ってくれているかのような体勢である。
 器用なやつだな、と思いながら、窓から漏れる明け方のわずかな光を頼りに、端正な輪郭を追う。暗がりの中でも、かれの髪は淡く光っているように見えた。
 じっと見つめているうち、同じ寝台に寝転んでいることが何故か気恥ずかしくなり、龍水が起きてこないうちに抜け出そう、と身を起こしかける。
 途端、寝台についた肘を引かれ、再び転がるはめになった。

「な、」
「そんなにすぐ出て行こうとするな。至福の時間なんだ。もう少しそばにいてくれ」

 耳元でささやかれ、あたたかい腕の中に抱き込まれ、あっという間にのしかかられた。

「ああ、いい匂いだ。たまらんな」

 そう言って、昨夜のように耳元や首元の匂いを嗅がれる。やめろ、と思ったが、自分も何だか龍水の匂いに頭がくらくらして、制止する言葉が出てこない。

「恋焦がれた相手が、明け方おのれのベッドにいる。これは、クるな――」

 かすれた声でそんなことを言われて身がふるえる。顔はよく見えないが、全身から獰猛な気配が漂っている気がした。

「やめろ、朝からサカんな」
「朝だからだろう」

 不敵に笑って顔を近づけてくるのを、思いきり押しやる。指先が相手の乾いた頬や口唇に触れる。

「おい」
「キスはだめだ」

 不満そうな声に当然のようにそう言うと、「フゥン?」と唸られた。

「朝は、歯を磨くまではダメだ」
「ほう、清潔を重視する貴様らしいな。では、ここならいいか」

 龍水はそう言うと、首筋にむしゃぶりついてくる。

「いいわけねえだろ……!」

 叫んで全力で抵抗しながら、ふとこのやりとりに既視感をおぼえた。
 ――こういう結果、誰に、何を。
 思い出した瞬間、完全に覚醒する。

「ダメだ龍水。風呂。風呂に行かねえと」
「昨夜入ってたじゃないか。俺は気にしない」
「違え。そういうことじゃねえ。ていうかまじで離れろ。そんでテメーも風呂行け。水を浴びろ。せめて体を拭け」

 甘い声で何か勘違いしたことを言ってくる相手に、たて続けにまくしたてる。足をばたつかせ、隙あらば股間を蹴る体勢に入る。
 龍水は興ざめしたように言った。

「まさか貴様、司を気にしてるのか」
「また匂い嗅がれたらたまんねえ、あれは生きていけねえ」
「千空――それはもう諦めろ」
「諦められるか……!」

 顔を覆っての切実な訴えに、やがて龍水は身を引いた。昨日の司とのやりとりを思い出し、何か思うところがあるのかもしれない。

「頼もしい仲間たちではあるが――恋人を持つ身としては、厄介きわまりないな」
「文句言うな。そのうち解決策を見つけるから、今は我慢しろ」
「フゥン」

 龍水のフゥンはその時々で意味を変える。今のは「なら仕方がない」だろうな、と判断しながら千空は服の前を合わせ、こはぜを留めていく。乱れたすがたのまま龍水の部屋から出て行くわけにはいかない。

「リーダー同士だ、けじめつけようぜ」
「仕方ないな」

 身を起こし、自身も服を整えながら龍水が言った。そうしてふと、思い出したように爆弾を落としてくる。

「そういえば千空、休みを調整したぞ!」
「ほーん。俺が替わるのか? テメーが替わるのか?」

 内心動揺しながらも、千空は何とか普段の調子でそう返し、矜持を保った。
 いつだ、と思う。
 自分が替わるなら、龍水の休みはまだ先だ。だが、龍水が替わるのなら――?

「それが、『やさしい皆のお兄さん』がご協力下さってな。俺が替わってもらえることになった」
「と、いうことは……?」

 そこで用意周到な百戦錬磨の男はニヤリと笑った。薄暗がりでもそれがよく解った。

「はっはー、明後日だ! 明日の夜から、ここに泊まってもらいたい。本格的なオイルマッサージをしてやろう。すぐにでもフランソワにレシピを届けさせる!」
「明後日……」

 そして、明日の夜。
 すでにここで一夜明かしてしまった身ではあるが、冗談ではなく、決定的な何かをつきつけられている気がした。思わず昨夜と同じことを呟く。

「やっぱ展開、早くねえ――?」
「そんなことはない、大事にしている! だが、貴様ともっと仲良くなりたい! 仲良くしたい!! その欲望には抗えん!!」

 世界一の欲しがりを自認する男が、高らかに宣言する。
 機嫌のいい恋人のすがたを見るのは悪いものではない。不安げだったり、落ち込んでいるよりはずっといい。千空は、龍水が自信満々にしていたり、楽しそうにしているのを見るのがすきだ。
 だが、ここまで楽しみにされるのは――どうなのだろう?

 かつてない難関が想定より早く立ちはだかったことに動揺し、千空はその日一日、ことあるごとに二本指を立てては固まり、黙考するはめになった。
 蜜月までは、まだ遠い。
                                          了

2022年7月15日 pixivへ投稿

2 thoughts on “蜜月にはまだ早い

  1. こちら読ませていただきだくのは4回目です。

    司さんの「――おめでとう、龍水」のところがめちゃくちゃ好きです。何故なのか言い表せないぐらい好きです。

    おそらくまた5回目読みにくると思います。

    いつも素敵な小説をありがとうございます。

    1. ナチ様、嬉しいお言葉を有難うございます💗4回も!とっても嬉しいです✨✨
      「――おめでとう、龍水」が、そんなに!!有難うございます!実は私もそこすきです笑
      いつも読んで下さって有難うございます~🙏読み返していただけるの、作者冥利につきます…!

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